冤罪を創る人々―国家暴力の現場から― 山根治 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)大木洋《おおきひろし》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] ------------------------------------------------------- [#改ページ]       (序章) 一、 平成5年9月28日の広島国税局の査察(俗にいうマルサ)のガサ入れに端を発した私をめぐる『事件』は、平成15年10月4日の最高裁の上告棄却によって一応の幕を閉じた。  その結果、訴追された『事件』のうちの、本件については無罪(控訴審の判決時に確定)。別件については懲役1年6ヶ月執行猶予3年の有罪が確定した。  このため、私は、執行猶予期間の3年間、公認会計士の登録が抹消され、30年にわたって使ってきた公認会計士の肩書を使うことができなくなった。 二、 有罪とされた別件については、起訴自体が検察官の訴追権の濫用の疑いが濃厚なものであり、それを受けた各段階の裁判所の判断についても、有罪とするに十分な根拠を示すことなく、本件の影に隠れて流されていった印象が強いものである。別件とされた3件の事案は全て、今まで起訴にまで持ち込まれたことは一度もない類いのものであり、有罪判決が確定した現在でも、私にとって決して納得できるものではない。今後、日本の裁判制度のあり方をめぐって、改めて問い直されるべきであろう。  ただ、別件については、当初から事実関係について検察、弁護側双方とも基本的に争いはなく、私も事実を全面的に認めていたものであり、その点、検察当局と裁判所に対して不満は残るものの、それ以上のものではない。検察当局による事実の捏造、証拠のデッチ上げがなされていないからだ。 三、 しかし、本件とされたマルサ事案については様相が一変する。  事実関係が意図的にネジ曲げられ、真実ではない数多くの証拠が創り出されたからである。  それは、査察の捜査に始まり、検察による逮捕、取調べで頂点に達し、公判期間中も延々と続くこととなった。私を含む数十人の関係者が、虚偽の自白を強要された。誘導尋問にはじまり、脅したり、すかしたり、騙したり、まさに「なんでもあり」の世界が展開された。  これらの軌跡は、私の手元に膨大な資料として残された。私が作成した詳細なノート、意見書、コピー、録音及び録画テープ、検面調書、公判記録等である。 四、 マルサのガサ入れに際しては、正直言って、足が震えたし、検察による逮捕に至っては、顔から血の気が引いた。  しかし、私には、冷徹かつ客観的に自らを見つめるもう一人の私がいたようである。 『この人達は一体何をしようとしているのだろうか。真実は当事者である私が一番よく知っている。国家権力をもって強引に真実を歪め、私を罪に陥れようとしている。  招かれざる客人達ではあるが、押しかけてきたからには仕方がない。じっくりとお手並みを拝見することにしようではないか。』  もう一人の私は、いわば居直ったのである。 五、 以下、主に取り上げるのは、本件であるマルサ事案であり、別件については、必要な範囲で言及するにとどめることとする。  多くの人々が、社会正義の名のもとに、意図的かつ、組織的に無実の罪(冤罪)をいかに捏造しようとしたか、全て事実に即して明らかにする。  公職にあった人物については、当時の肩書を付した上で、原則として実名とした。彼らの言動は、現在の私の記憶にもとづくものではなく、全て当時のメモ、録音、録画及び裁判記録等にもとづいて再現する。  マルサも検察も国家権力を象徴する存在であり、国民の生命財産に関する生殺与奪の権限を握る暴力装置である。法律によって強大な権力と権限とを与えられた暴力装置がひとたび暴走を始めたとき、自らの行為を正当化し、組織を防衛するためにどのような対応をしたのか、それぞれの立場の人物の行為を明らかにすることによって浮き彫りにする。  私の視座は、彼らに想像を絶する仕打ちを受けた被害者の立場を離れ、この10年間の軌跡を冷徹に俯瞰する観察者の立場に立つ。 [#改ページ] 第一章 登場人物のプロフィール *各人物の肩書は当時の実際のものを用いた。原則として公職にある者は実名とし、それ以外は仮名とした。 一.マルサ関連(主要人物) 1、 大木洋《おおきひろし》  広島国税局調査査察部査察第三部門統括国税査察官。マルサの現場の統括司令官。平成14年、税理士登録。現在は広島市で税理士事務所をかまえている。   2、 藤原孝行《ふじはらたかゆき》  広島国税局調査査察部査察第三部門統括国税査察官。大木洋の部下。大木の指示のもと、私の取調べを担当。収税官吏として、平成8年3月6日検察庁への告発書類を作成した人物。 3、 新本修司《しんもとしゅうじ》  広島国税局調査査察部査察第三部門査察官。藤原孝行の補佐役。大木の指示のもと、藤原と二人で私の取調べを担当。 4、 松田憲磨《まつだのりま》  広島国税局調査査察部統括国税査察官。ガサ入れ時の組合関連の捜査責任者。検察庁への告発書類を、査察管理課長として決裁した人物。平成12年、税理士登録。現在は下関市で税理士事務所をかまえている。 5、 永田嘉輝《ながたよしてる》  大木洋の後任。広島国税局調査査察部査察第三部門統括国税査察官として、検察庁への告発書類を決裁した人物。平成15年、税理士登録。現在は岡山市で税理士事務所をかまえている。 6、 三瀧恒雄《みたきつねお》  広島国税局調査査察部査察第四部門統括国税査察官。平成13年、税理士登録。現在は広島市で税理士事務所を開設している。 7、 前原非利《まえはらひとし》  広島国税局調査査察部査察第四部門統括主査。平成8年、税理士登録。現在は広島市で税理士事務所を開設している。   二.マルサ関連(その他の人物) 1、 中村真一《なかむらしんいち》  広島国税局調査査察部査察第三部門統括主査。   2、 黒目啓治《くろめけいじ》  広島国税局調査査察部査察第二部門査察官。 3、 吉年聖行  広島国税局調査査察部査察第四部門査察官 4、 奥村薫  広島国税局調査査察部査察第四部門査察官 5、 小浜稔  広島国税局調査査察部査察第四部門査察官   6、 田村友治  広島国税局調査査察部査察第四部門査察官  以上の人物を含めて、概ね30人位の人達が、マルサ事案の捜査尋問に関与した。   三.国税局及び国税庁関連 1、 志田康雄  広島国税局長。昭和20年生。東京大学法学部卒。 2、 石井道遠  国税庁調査査察部査察課長。昭和26年生。東京大学法学部卒。 四.検察関連(主要人物) 1、 田中良  松江地方検察庁次席検事。マルサ事案の統括責任者。   2、 藤田義清  松江地方検察庁三席検事。マルサ事案の主任検事。 3、 立石英生  大阪地方検察庁堺支部検事。第一審の主たる公判検事。第一審の33回にわたる公判廷のうち、第11回、第20回及び第33回以外の全ての公判廷に、検事として出廷。 4、 中島行博  広島地方検察庁検事。私を逮捕し、40日にわたって私を尋問した人物。  以上の四人は、マルサ事案の主たる検事。   五.検事関連(その他の人物) 1、 花崎政之  松江地方検察庁検事。第一審、第5回及び第11回公判廷に、検察官として出廷。 2、 長谷透  広島地方検察庁検事。 3、 横山和可子  鳥取地方検察庁検事。   4、 野津治美  松江地方検察庁副検事。第一審、第2回の公判廷に検察官として出廷すると同時に、第10回公判廷には、検察側申請による証人として出廷。 5、 永瀬昭  松江地方検察庁副検事。第一審、第2回、第3回及び第20回の公判廷に検察官として出廷すると同時に、第9回公判廷には、検察側申請による証人として出廷。  中島行博検事、渡壁将玄事務官と共に、私の逮捕時に同行した人物。 6、 藤原勉   松江地方検察庁副検事。 7、 中西謙一  鳥取地方検察庁副検事。 8、 藤田明久  松江地方検察庁副検事  捜査を担当した検察官は、田中良、藤田義清、立石英生及び中島行博に、上記の8名を加えた12名であり、これに広島国税局の職員(主にマルサ)数十名が捜査に加わり、協力しており、松江地検においては過去に例のない大がかりな捜査体制であった。 9、 栗原雄一  松江地方検察庁検事。控訴趣意書を作成。 10、千葉偵夫  広島高等検察庁松江支部検事。控訴審における答弁書を作成。 11、梶山雅信  広島高等検察庁松江支部検事。控訴審における弁論要旨を作成。控訴審の第2回及び第4回公判廷に、検察官として出廷。  以上、4.5.で摘示した15人の検察官の他に、明らかに名前が判明している検察官は7名おり、マルサ事案に関与した検察官は総勢22名にのぼる。 六.当事者関連―その1 1、 佐原良夫  昭和25年生まれ。元水産会社経営者。本件の不動産売買契約の相手方。私が仲介人として入り、契約したものの、契約条件を履行しなかったために、トラブルが発生。裁判となる。  佐原良夫は、民事裁判を自己に有利に運ぶために、虚偽の主張をするに至り、更に、広島国税局に虚偽の事実を密告。  この偽りの密告に安易に飛びついたのが、広島国税局資料調査課(俗に、料調という)であり、マルサであった。   2、 吉川春樹  昭和26年生まれ。自称超能力者。私を佐原良夫に引きあわせた人物。  私と佐原との間でトラブルが発生したのを奇貨として、佐原を煽りたて、自らの利益を図るために、トラブルを拡大せしめた人物。  吉川春樹が、マッチポンプの役割をしていたことは、後日、逮捕された佐原良夫の検面調書によって初めて判明。吉川春樹を信頼していた自分の不明を恥じる。 3、 福谷常男  昭和14年生まれ。弁護士。元、検事。平成2年8月5日、福谷常男弁護士は、東京の自宅に私を呼びつけ、佐原、吉川と共に私を恐喝。私と佐原とのトラブルを更に拡大せしめた人物。 七.当事者関連―その2 (1)益田市畜産協同組合関連 1、 福山義弘  前組合長。組合の中心的人物。昭和6年生。 2、 増田博文  組合常務理事。組合のナンバーツー。昭和11年生。 3、 岡島信太郎  組合長。組合のナンバースリー。昭和22年生。 4、 藤原洋次  組合員。昭和26年生。 5、 宅和勇一  組合員。昭和9年生。 (2)山根会計事務所関連 1、 加山裕太   山根会計事務所副所長。昭和26年生。 2、 小島泰二  山根会計事務所職員。島根総合研究所事務局長。昭和27年生。 3、 大原輝子  山根会計事務所職員。 4、 古賀益美  山根会計事務所職員。 5、 高庭敏夫  公認会計士。山根会計事務所顧問。 (3)弁護人関連 1、 中村寿夫  主任弁護人。 2、 松原三朗  弁護人。 3、 大野敏之  弁護人。 [#改ページ] 第二章 マルサ事案の概要と結末 一.マルサ事案 (1)概要―その1 一、 益田市畜産協同組合(以下、組合という)が所有していた不動産等が、石見空港建設のために県に収用されることになり、組合に42億6千万円の移転補償金が入ってきた。   二、 組合は節税対策の一環として、私の指導と仲介によって、千葉県にある不動産(以下、千葉物件という)を16億5千万円で購入し、税金の繰延の手続き(これを圧縮記帳という)をとった。  圧縮記帳は、一定の条件のもとに利益を繰り延べる手続きであって、永久に税金が免除されるのではなく、いつかは税金の支払いをしなければならないものだ。私が作成した税務プランには、当然のことながら将来の税金支払いが明記されていた。 三、 平成5年9月28日、広島国税局は、組合が16億5千万円で購入した千葉物件は、真実の売買契約によるものではなく、税金を逃れる為の仮装契約によるものであり、組合の圧縮記帳は脱税であるとして査察《マルサ》にふみきった。私は、脱税事件の主謀者とされ、悪徳公認会計士として追及された。これがマルサ事案である。   (2)概要―その2(特殊事情) 一、 組合が取得した16億5千万円の千葉物件は、特殊な条件の付されているものであり、その売買契約は、定型的な不動産売買契約ではなかった。  千葉物件が埋立地であったために、千葉県企業庁によって10年間の買戻し条件が付されており、契約当時、買戻し条件が解除されるまで6年の期間が残されていた。  更に、千葉物件には、10億円余りの抵当権が設定されていたが、売買にあたっては、金融機関以外の抵当権の一部を抹消するにとどめ、大半の抵当権の抹消をしないで、売買契約の締結がなされた。抵当権付きの売買契約である。 二、 抵当権設定額10億円に買戻し条件が実行される危険性を加味した12億5千万円については、取引の相手先である佐原良夫の会社の自由にゆだねることなく、6年の間、私の管理下に置くこととした。  従って、千葉物件を売却した佐原の会社が当面自由にできる資金は16億5千万円ではなく、4億円だけという契約内容であった。 三、 組合が佐原の会社から購入した物件は、そのまま同人の別会社が月600万円の賃料で借り受ける約定がなされた。  四、 以上のように、千葉物件に特殊な条件が付いており、売買契約も抵当権付売買契約であり、定型的なものではなかった。  このような特殊な契約内容に加えて、契約の一方の当事者である佐原良夫が事実に反する嘘の告発をしたため、それに飛びついたのが、マルサであり、検察であった。 二.脱税日本一   一、 平成8年1月26日、私は関係者3人と共に松江地方検察庁に逮捕され、身柄を拘束された。  確定申告の直前ということもあってか、いわば一罰百戒のPR効果をねらって、公認会計士による大型脱税事件としてマスコミに公表され、全国ニュースとなった。 二、 この逮捕劇は、私の地元である山陰地方ではトップニュース扱いとなって喧伝された。 『公認会計士ら逮捕―不動産売買めぐり』(平成8年1月27日、朝日新聞) 『逮捕の公認会計士6億円受領か。松江地検は、この金を脱税の指南工作料とみている。』(同年1月30日、朝日新聞) 『6億円所得申告せず、松江地検は山根容疑者が相談料などの名目で6億円を受け取っていながら、所得として申告していなかったことを突き止めた。』(同年1月30日、読売新聞) 三、 当時私は逮捕されて松江刑務所拘置監に閉じ込められており、世間の様子はほとんど知ることはできなかった。接見禁止の処分がなされていたため、手紙を受け取ることもできないし、新聞の購読も許されていなかったからである。もちろん、独房にはテレビもなければラジオもない。接見の出来る弁護士が唯一のニュースソースであった。  ただ事務所の職員に、私の事件に関する新聞記事を収集し、テレビ番組も全て録画するように指示していたことから、現在私の手許には分厚い新聞記事のスクラップブックが残り、数本のビデオテープが残った。それらは、松江という山陰の小都市がスキャンダラスな話題で騒然となったことを雄弁に物語っている。  このとき報道にあたったマスコミ関係者は、松江地検の検事がリークする嘘の事実を連日のようにタレ流し、銭ゲバの権化、脱税を手助けし多額の不正な報酬を手にした悪徳公認会計士として私を糾弾してやまなかった。 四、 NHKは、逮捕の2日前から、私の自宅近くで、ひそかに張り込みをし、当時、風邪のため通院していたマスク姿の私を写し、TVで全国に繰り返し流した。マスクをして逃げまわっているような印象を与えるものであった。  事件の解説と称して、NHKの解説者がアナウンサーを相手に説明を始めたものの、途中で何を言っているのか分からなくなったらしく、言葉を失い、とり乱して、誤った解説をしてお茶を濁している姿が印象的であった。  マスコミに発表している検察官自身、自分が何を話しているのか分かっていなかったのであろう。虚実をとり混ぜたことがらを、マルサの繰り人形と化して、よく理解できないままでマスコミに向ってしゃべっているからである。 五、 新聞にいたっては、百花繚乱、各紙ともよくぞ書いて下さったものである。  連日の報道を、現時点で改めて追ってみると、前後の整合性に欠け、いたるところで、矛盾が露呈している。  特におそまつであったのは、朝日新聞であった。担当は、若い記者であったという。記事の内容が余りにもおそまつであったため、私の担当弁護人が朝日新聞の松江支社長に厳重に抗議をしたほどである。 六、 平成8年6月、国税当局は平成7年度査察実績(俗に脱税白書といわれているもの)を公表するに際して、マスコミに向けて、私のケースを法人部門で全国トップの悪質な所得隠しとして紹介している。  平成8年6月21日付の山陰中央新報は、『法人の最高額は益田市畜産17億』の大見出しのもとに次のように報じた。 「所得隠しの最高額は、法人では益田市の益田市畜産協同組合の17億6千8百万円(脱税額5億2千万円)。空港建設用に土地を県に売却した際、租税特別措置法の特例措置を不正利用し、遠隔地の千葉県船橋市に代替地を取得したように見せかけた。法人税法違反の罪で顧問税理士ら2人と組合が起訴されている。」  脱税白書は、『架空固定資産圧縮損を計上していた事例』として、 『空港建設用地として牧場を収用された農事組合法人Lは、収用による多額の税金を免れるため、公認会計士と共謀し、遠隔地に代替地を取得したように仮装して、租税特別措置法64条等の「収用等に伴い、代替資産を取得した場合の課税の特例」を不正に利用していた。』 と記す。国税当局が仮装だ、架空だといって、鐘や太鼓で大騒ぎしたのである。 七、 論告求刑  立石英生検事は、平成10年3月24日、松江地方裁判所31号法廷において、論告求刑を行った。その骨子は次のとおり。 『本件逋脱所得額及び逋脱税額等についてみると、被告人らは正規の所得額が三事業年度において   合計17億6,758万5,583円 であるにもかかわらず、いずれも所得はない旨の各期の確定申告書を提出し、右所得に対する正規の法人税額   合計5億2,071万9,500円 を免れたのであって、右逋脱所得額及び逋脱税額ともに、極めて高額であることは言うまでもなく、また、その逋脱率も「100パーセント」と高率であり、かかる数値に鑑みても、本件犯行の犯情は重いと言わざるを得ない。  ことに、逋脱税額にして5億円を超える逋脱事犯は、広島高検管内においては近年まれにみる高額な脱税事犯であるとともに、全国的な統計上も、一部の特殊な事例を除いて、極めて希有に近い事案である。  以上の諸事情を総合勘案すれば、本件事案が悪質かつ重大な事犯であるとともに、被告人らの刑事責任は重いことは明らかであって、とりわけ本件各事件につき、中心的役割を果たした被告人山根治の犯情は極めて重大であると言わざるを得ない。  よって、相当法条適用の上、被告人山根治を懲役3年の実刑に、同農事組合法人益田市畜産協同組合を罰金1億5千万円に、それぞれ処するを相当と思料する。』 (注、「逋脱所得」とは、脱漏所得のことであり、「逋脱税額」とは、脱税額のことである。) 八、 もともとマルサ事案は、圧縮記帳だとか課税の繰延だとかからんでおり、一見複雑に見えるものの、争点はただ一つであり、極めて単純なものである。  即ち、私が顧問先である組合に対して斡旋した不動産の売買契約が真実の契約であったのか、あるいは架空の契約であったのか、これが唯一の争点であった。  素直に見れば、真実の契約であることが歴然としているにも拘らず、検察当局がマルサの尻馬に乗って、多くの関係者に嘘の自白を強要し、証拠を捏造してまで、架空の契約であり、脱税だ、犯罪だと言い張ったのが、事の真相である。 九、 ちなみに、この不動産の売買契約については、刑事事件に先行(あるいは並行)して、三つの民事裁判が行われており、それらは全て、売買契約は真実のものであり、架空のものではないと明確に判示し、全ての判決が確定している。  (1)平成5年9月20日、松江地裁  平成3年(ワ)第26号賃料請求事件の判決、確定。  (2)平成5年11月30日、千葉地裁  平成3年(ワ)第879号株主権確認等請求事件の判決、確定。  (3)平成12年10月31日、東京高裁  平成10年(ネ)第493号所有権移転登記手続等請求控訴事件(千葉、地裁、平成4年(ワ)第426号事件)の判決、確定。   (1)(2)は、私が逮捕されるまでに確定していたのに対して、(3)は、私の逮捕時いまだ審議中であり、千葉地裁は刑事事件と関連がある事案であったためか、急遽、一人の裁判官であったのを変更し、三人の裁判官による合議に切換えた経緯がある。刑事法廷における主な証拠は全て民事法廷にも提出され、千葉地裁での審理以来、八年という長い年月をかけて審理を尽くした挙句結審し、判決が言い渡されたものである。軽く扱っていい判決ではない。 三.一審判決 一、 平成11年5月13日、松江地方裁判所(裁判長長門栄吉)は、31号法廷において、マルサ事案(巨額脱税事件)について、無罪の判決を言い渡した。 二、 しかし、一審判決は、マルサ事案について無罪としながらも、検察の顔色をうかがうような不十分な内容のものであり、刑事裁判と並行して進行している税金の裁判(このときは国税不服審判所で審理中)において、国税当局に主張の余地を一部残しているものであった。即ち、刑事事件では無罪であっても、税務上は多額の理不尽な税金が徴収される余地が残っていたのである。  取引の相手方である佐原良夫が明らかに嘘の自白をしているにも拘らず、一審判決は、佐原の自白が必ずしも嘘ではないと認定し、この取引は売買ではなく、譲渡担保であると佐原が誤解していたと認定した。  検察の面子を立てるための判決としか言えないものであり、無罪とされても私としては手放しで喜べないものであった。  ちなみに、そのプロセスが誤っていた一審判決でさえ、検察が捏造した証拠のほとんど全てを、信用性に欠けるものとして排除している。 三、 マルサ事案に対して無罪の判決が下されたのにあわてふためいたのであろうか、広島国税局は、控訴審にそなえて、当時、西大寺税務署長をしていた大木洋と、岡山東税務署法人部門特別調査官をしていた告発者の藤原孝行とを、急きょ本局に呼び戻し、それぞれ査察管理課長、査察管理課査察審理官にすえつけた。  2人は控訴審において、再び検察官を繰り人形にして、更なる悪あがきをすることになった。いわば恥の上塗りをしたのである。 四.二審(控訴審)判決   一、 平成13年6月11日、広島高等裁判所(裁判長前川豪志、退官により宮本定雄裁判長代読)は、松江支部において、一審の無罪判決を支持し、検察側の控訴を退けた。 二、 「本件は無罪」――形の上では、一審判決と同様であったものの、無罪を認定するプロセスが一審判決と全く異なるものであった。  二審判決は、一審判決における事実認定の誤りを正し、検察の主張していた架空売買が事実無根であることを明確な言葉で判示した。それは、検察がマルサと共に創りあげた虚構のシナリオが完全に崩壊したことを宣言するものであった。 三、 12人もの検事達が、許しがたい犯罪人として私を逮捕し、291日の長きにわたって私を松江刑務所拘置監に身柄拘束したうえで、マスコミを通じて次から次へと事実に反する嘘の発表をして、私を社会的に抹殺しようとしたカラクリが白日のもとにさらされ、検察が勝手に描いた虚構のシナリオがガラガラと音をたてて崩れた。  裁判所という公の場で、検事たちの嘘が明らかにされ、彼らがマルサと共同して創作した冤罪の構図は、バベルの塔さながら、崩れ去った。 四、 控訴審において検察は、売買契約が架空であると強弁することが不可能であると覚ったためであろうか、仮に売買契約が架空ではなく、真実のものであったとしても、税法の立法趣旨から見て認めることはできないという破れかぶれの論法を、刑事法廷に正面切って持ち出すに至った。一審の際にも、控えめな形で主張していたものであったが、このような罪刑法定主義の根幹にかかわる暴論が通るはずもなく、一審同様、控訴審でことごとく斥けられたのは、けだし当然のことである。  信じ難い暴論を法廷で堂々と開陳し、平然として証拠を捏造する複数の検事が私の公判に関与しているが、この人達は本当に法曹資格をもっているのであろうか、疑わしい限りである。  権力をもてあそぶことに麻痺し、人間として何か大きなものが欠落しているとしか言いようがない。このような人たちが検事の全てではないにせよ、複数現実に存在し、社会正義の名のもとに国民を断罪し続けていることを思うとき、慄然たる思いにかられるのは私一人であろうか。 五、 もっとも、このような論法を検察官が思いつくとは考えられない。税法と税務の実務に無知だからである。 『仮に売買契約が架空ではなく、真実であったとしても、税法の立法趣旨から見て認めることはできない。』  このような論法は、まさしく、税を徴収するときの論理であり、罪刑法定主義を基本とする日本の刑事法廷には全くそぐわないものだ。何らかの意図をもってマルサが入れ知恵したことは明らかである。無知の故に、マルサの繰り人形と化している検察は、哀れとしか言いようがない。  このとき、入れ知恵をしたマルサは、本局に戻されて控訴審を担当した大木洋と藤原孝行であろう。  かつて、数多くの珍妙な理屈を得意気に開陳した大木洋の肉声は、私の所持する録音テープにしっかりと残されており、この入れ知恵も、いかにも大木の考えそうなことだと納得できる。 六、 では何故、大木達は、刑事法廷に通用しそうもない論法を控訴審で強調しはじめたのであろうか。  推測するに、大木達は、一審判決が一部事実認定の誤りを犯しているのを奇貨として、刑事罰を課することはできないまでも、せめて徴税の道だけは残しておこうと考えたのではないか。  「仮装ではなく、刑事罰に問うことはできないが、税法の立法趣旨から認めることはできない。」といった判決を刑事法廷においてねらったのではなかろうか。   七、 しかし、仮に大木達の悪あがきにも似た小細工が効を奏し、控訴審が一審判決と同じように一部徴税の余地を残すかのようなものであったとしても、徴税に関しては全くの徒労に終わったであろう。 八、 原処分庁である益田税務署は、マルサの指示に従って、組合の青色申告の承認を、仮装取引を理由として取り消した上で、追徴の手続きである更正処分を行っている。  したがって、裁判で仮装取引が否定され、真実の取引であったと認定されれば、青色申告の承認を取り消す理由がなくなり、青色申告が復活することになる。  青色申告の場合、税務署が更正(追徴)をするためには、具体的な「更正の理由」を附記しなければならず、もし、「更正の理由」が附記されていなければ、違法となり、更正処分は無効となる。  益田税務署は、組合の青色申告の承認を取り消したのであるから、組合の申告を白色申告扱いとし、敢えて「更正の理由」を附記していなかった。  したがって、税法の立法趣旨から認められないと言ったところで、後の祭りであり、組合から徴税することは不可能であったのである。 九、 実は、以上の論法に私が気づいたのは、平成15年3月11日に、国税不服審判所の採決が出た後のことであった。  控訴審当時には思いつかなかったのである。詳しくは、「6.不服審判所の裁決」において触れることとする。 一〇、広島高裁が事実を正確に把握して、「本件」の無罪を言い渡したことは、経済的な側面からは、次のような意味を持つ。  即ち、検察が国税当局と一体となって、敢えて真実を曲げ、数々の証拠を捏造してまで私を逮捕し、あわよくば裁判官を騙して、払う必要のない25億円余りのお金を、私と関係者とから強奪しようとしたことが失敗に終ったことである。 一一、検察・国税当局が不当に徴収しようとしていた税額等の内訳は次のとおりである。  尚、延滞税は、無罪確定時までのものが算出されている。 一二、このことによって、私をはじめ組合の人達の財産権が守られたことは、当然のこととはいえ、私にとって心の安まることであった。  思えば、佐原良夫とのトラブルが生じた直後の平成2年8月10日に、私は、頭を丸めて、中村寿夫弁護士に同行してもらい、益田の組合にまで赴き、私の不手際を詫びると共に、「私の全財産をなげ打ってでも、関係者の皆さんに迷惑をかけない」旨の約束をしていた。  平成5年9月28日、思いがけなくも、マルサのがさ入れがあった直後の同年10月5日にも、担当職員小島泰二を同行し、組合に赴き、同様の趣旨の確約をしていた。  この組合の人達に約束していたことを、現実に果たすことができたのである。更に、私の財産も全くキズつくことがなくなったのは二重の喜びであった。 五.無罪の確定 一、 広島高裁の判決の二週間後、平成13年6月26日、広島高検が最高裁への上告を断念したことが、一部マスコミによって報じられた。この時点で無罪判決が確定したのである。二紙だけが、注意して見ないと気がつかないようなベタ記事の扱いで報道しており、他の新聞社は全く報道しなかった。5年前には、各紙とも争うように私についての嘘の情報をタレ流していたことを考えれば、その扱いの落差に現今のマスコミの実態を如実に見る思いであった。 『広島地検は25日、上告を断念した。同高検は「判決に不満はあるが、憲法違反など上告申立て理由に該当しないため」としている。』(平成13年6月26日、山陰中央新報) 二、 検察は、嘘で塗り固めた虚構のシナリオによって私を犯罪者に仕立てあげ、その上にあわよくば裁判所をだまして、25億円という大金を権力の名のもとに私達から強奪しようとしたことに対して、一言の謝罪の言葉もないばかりか、「判決に不満はあるが、憲法違反など上告申立て理由に該当しないため」上告を断念したというのである。検察側の主張していることが、事実無根のことであり、冤罪事件であることが明確にされたにも拘らず、検察は謝罪するどころか、全く落ち度はなかったと居直っているわけである。 三、 国税当局にいたっては、査察の告発事案、しかも当時全国一の大型脱税として鳴り物入りでさわぎたてた告発事案に関して無罪が確定したことについて、コメントを一切発表していない。しかも、この無罪の中身たるや、証拠不十分とか、犯罪の証明が十分になされていないといった消極的なものではなく、国税・検察当局が逋脱(ほだつ、脱税のこと)罪の中核に据えていた証拠が、捏造されたものであることを明白に認定した上でのものであるだけに、一言あってしかるべきであろう。 四、 国税当局が黙して語らないのは、『癒し系』とかいって、一時期若者の間でもてはやされた、どこかの国の財務大臣の顰(ひそみ)に倣って、『忘れました』とでも言って、とぼけてしまうためであろうか。 五、 驚くべきことに、国税当局は、マルサの着手時に現場の総司令官であり、虚構のシナリオを創りあげた中心人物、大木洋を、平成13年7月10日に発令した人事において、広島国税局の査察のトップである調査査察部長に据えつけた。 六、 内部の責任を問うどころではない。大木洋が捏造した虚構の大型脱税事件が、同年6月26日に一件落着したことを確認した上での人事であり、よくやったと言わんばかりの人事である。  国税当局は、職員がどのような犯罪的行為をしていようとも、マスコミにさわがれるなど外部に明確な形で明らかにされない限り、責任を問うことなど考えてもみないのであろう。  大木洋を調査査察部次長から同部長へと昇進させた人事こそ、国税当局の無責任体質を象徴するものと言えようか。 六.不服審判所の裁決 一、 平成15年3月11日、組合が行っていた審査請求について、国税不服審判所(所長 成田喜達)は、マルサの指示によって原処分庁(益田税務署)が行った更正処分(税金の追徴のこと)の全てを取り消す裁決を行った。  64ページに及ぶ裁決書は、原処分庁の弁明を詳細に取り上げたうえで、全て事実無根として退けた。 二、 第二審の確定判決を踏襲しており、当然の裁決ではあるが、国税当局自らが、誤りを率直に認めた意義は、計り知れないものがある。  しかも、一点の疑いもない真実の取引であることを明確な言葉で認定したことは、仮装であり、脱税であるとして証拠を歪曲捏造してまで主張しつづけ、不当な税金の追徴をしようとしていた国税当局の非を自らが完全な形で認めたことを意味する。 三、 私が裁決書を一読したとき、十分には理解できないことがあった。課税処分が一部ではなく、全部取り消されていたからである。  私は、第二審の確定判決を受けて、仮装売買に関する部分の課税処分が取り消されるのは当然であると考えていたものの、単純な申告ミスの部分(本税、地方税、過少申告加算税、延滞税、合わせて2億円位)も含まれていたので、その部分については、課税処分が残るものと考えていたのである。 四、 2、3日の間、弁護人と共に検討したところ、意味が判ってきた。 五、 原処分庁は、マルサの指示のもとに、平成8年3月6日に、組合の青色申告承認取り消しの処分をした上で、同年3月25日に、更正処分(税金の追徴)をしている。  即ち、この更正処分は、すでに青色申告が取り消されているため、白色申告に対するものとなり、青色申告の場合に要求される「更正の理由」を必ずしも付記しなくてもよいものだ。  実際に3月25日付でなされた組合の4年分の更正処分の通知書は、それぞれ一枚だけの簡単なものであり、追徴金額のみ記されており、「更正の理由」が付記されていなかった。  当時、私は松江刑務所拘置監に拘束されており、弁護人から差し入れられたこれらの通知書を見て、ずいぶん乱暴なやり方をするものだと驚いたことを鮮明に想い出す。 六、 国税不服審判所は、原処分庁が行った青色申告承認の取消が違法であり、間違っていたと裁決したわけであり、結果的に、組合の青色申告は過去に遡って復活することとなった。  すると、青色申告の場合には必ず、「更正の理由」をつけなければならず、仮に「更正の理由」が付記されていない場合には、その更正処分は違法なものとなり、取消の対象となり、必然的に無効となる。 七、 以上のような理由によって、組合に対してなされた更正処分の中には、マルサが仮装売買と決めつけたもの(重加算税対象)の他に、単なる申告ミス(過少申告加算税対象)も含まれていたが、全て取り消されることになったのである。 八、 この10年間、私は組合には一部支払うべき税金が残っていることを知っていた。組合の人達との当初の約束通り、それらは全て私が負担する腹づもりでいたものである。  不服審判所の裁決がなされるまでの私の計算では、前述のとおり概ね2億円であった。 九、 2億円といえば、私にとっては大金である。それが突然、払わなくてもよくなった。  私が一瞬茫然とし、裁決書の意味がよく判らなかったのは、このような背景があったからである。 一〇、 張りつめていた気持ちが緩んだからであろうか、私はその後、4ヶ月程体調を崩し、仕事らしい仕事ができない状態に陥った。  この2億円は、10年間マルサと検察が私に塗炭の苦しみを与えたことに対する、形を変えたいわば国家賠償金であると考えることにした。 一一、これは、明らかに国税当局のミスである。組合は税金を払う意思をもっていたものの、マルサの勇み足で払うことができなくなったからである。 一二、思うに、マルサは常にこのような、乱暴なやり方をしてきたのであろう。  100%近くの有罪率を豪語するマルサは常に、不正行為を理由として青色申告を取り消し、問答無用とばかりに、理由もつけないで税金を追徴してきたのであろう。  もっとも、組合の場合には、多額の繰越欠損金があり、青色申告のままでは、脱漏所得があっても、繰越欠損金を控除しなければならず、『脱税額』が少なくなることから、マルサとしては、青色申告を取り消さざるを得ない事情があった。 一三、では、国税当局はどうすればよかったのか。簡単なことである。  青色申告の承認を取り消して、繰越欠損金を無効にするまではいいとして、その後、更正処分をする際に、問答無用とばかりに、追徴金額だけを記すのではなく、十分な「更正理由」を付記しさえすればよかったのである。 一四、マルサは、何故それをしなかったのか。一言で言えば、マルサの傲岸不遜な奢りである、――  自分達は、どのようなことをしても許される。白いものであっても、ひとたびマルサが黒であると決めつければ、黒になる。検察官や裁判官なんてチョロいものだ。偉そうな顔をしているが、税金のことなど何も知っていない。適当におだてあげて、繰っておけばよい。自分達に刃向う不届き者は、叩き潰してしまうまでだ。 十五、 マルサは、私がここまで徹底的に立ち向かうことなど想像していなかったに違いない。  普通の会計事務所なら、マルサのガサ入れがあった時点でおかしくなる。告発され、しかも会計事務所の唯一人の資格者である私が逮捕された時点で、事務所が崩壊しても不思議ではなかった。  更に、291日も刑務所の中に閉じ込められていたわけで、よく事務所が残ったものだと、我ながら感心しているほどである。  その上、この度は、3年間の公認会計士のいわば資格停止である。  しかし、今後共、私の会計事務所は、したたかに生き続けていくであろう。  この世で私にすべきことが残っている限り、私は何者によっても潰されることはない。還暦を過ぎた私の、確信に近い現在の心情である。 七.原処分庁(益田税務署)による課税の取消し 一、 平成15年3月24日、原処分庁は、組合に対して法人税以外の更正処分の通知をし、全ての課税を取り消した。尚、法人税及びそれに伴う重加算税、過少申告加算税の取り消しについては、不服審判所の裁決ですでに取り消されている為、原処分庁による取り消しはなされていない。 二、 平成15年4月14日までに、押収されていた76,633,849円が、還付加算金24,938,700円を付けて返還された。数十枚の解除通知書等が組合と多くの関係者に送付され、担保権と抵当権の解除がなされ、第二次納税義務も解除された。 [#改ページ] 第三章 権力としてのマルサ―暴力装置の実態 一.「マルサの女」の世界―その虚像と実像―   一、 「マルサ」――もともと国税の内部用語にしかすぎなかったこの言葉を一躍有名にしたのは、昭和六十三年に公開された伊丹十三監督の映画「マルサの女」であった。映画は大ヒットし、「マルサ」はその年の「流行語大賞」に選ばれ、一般に浸透していった。 二、 これを契機として、マルサ(査察)に関するルポルタージュ風の読み物が数多く世に出ることとなった。  それらのほとんどは、映画「マルサの女」と、同じ視点から描かれたものであり、徴税側の論理が優先し、一般納税者の視点が欠落したものであった。  つまり、マルサは脱税という社会悪に敢然と挑戦する正義の味方であり、マルサの標的にされた脱税者は、国家社会の敵であった。 三、 マルサは、国税の中でも一握りのエリートであり、一般税務署員の星として、「昔陸軍、今国税」とさえいわれる暴力装置としての国税の頂点に君臨していた。安月給をものともせずに、日曜祭日返上で、朝早くから夜遅くまで、社会の巨悪に立ち向かう不屈の精神の持ち主達であった。 四、 映画の中でも誇らしく歌われたマルサ名物「五万節」が、バンカラ風に響く勧善懲悪の世界であった、―― ♪学校出てから十余年今じゃ国税査察官  朝ははよから夜ふけまでガサした件数五万件 ♪学校出てから十余年今じゃ国税査察官  今日は反面あすはガサつぶした革靴五万足 ♪学校出てから十余年今じゃ国税査察官  布団 枕に大金庫 見つけた証書が五万枚 ♪学校出てから十余年今じゃ国税査察官  残業終ってちょっと一杯呑んだ焼酎五万本 五、 マルサはまた、「国税査察官服務規程」によって、通常の国家公務員以上の服務規程が課せられている特別な存在であった。 [国税査察官服務規程] 第一条 国税査察官の服務については、国家公務員法及び官吏服務紀律に定めるところによる外、この規程の定めるところによる。 第二条 国税査察官は、国民全体の奉仕者として、公共の利益、国民に対する課税の公正のために勤務し、且つ、職務の遂行にあたっては全力を挙げてこれに専念しなければならない。 第三条 国税査察官は、その職務が課税標準の著しく増加した者等の所得等を徹底的に把握し、課税の充実を期するところにあり、その職務の遂行が国民の負担の公正を実現し、国家財政の確立に寄与するものであることを深く認識するとともに、その職務の遂行が国民の財産権に影響を及ぼすものであることを自覚し、日本国憲法の保障する国民の自由及び権利の干渉にわたる等その権能を濫用してはならない。 第四条 国税査察官は、その任命後、任命権者の面前において、次の宣誓書に署名しなければならない。        宣誓書  私は日本国憲法及び法律を忠実に擁護し、国税査察官の職務の重大なことを自覚し、命令を遵守し、何ものにも捉われず、何ものをも恐れず、良心のみに従って、公正に税務の遂行に当ることを厳粛に誓います。        昭和 年 月 日        官職 氏名 印 第五条 国税査察官は次の事項を厳格に守らなければならない。  一、 常に静粛で礼儀正しく、且つ、秩序正しくすること。  二、 職務を遂行する際は、冷静で正しい判断をなし、協同一致の精神によりたがいに連絡協調に努め、且つ、忍耐強くすること。  三、 法令及びこの規定に従い、誠実にその職務を遂行すること。  四、 公務上の秘密を守り、これを知る権限がある人に告げる場合、上司から命じられた場合その他法令による場合の外は、この事務に関し知り得た秘密は何人にもこれを告げないこと。  五、 税務官吏の信用を傷つけ又は税務官吏全体の不名誉となるような行為をしないこと。  六、 職務の遂行に当っては危険を伴うことがあっても、厳然として挺身これに当り、危険又は責任を回避しないこと。  七、 職務の遂行に当っては、その権限を明らかにする証票及び国税査察官手帳を携行し、国税査察官徽章を佩用するとともに、何人に対しても、正当な要求があったときは、自己の官職氏名及び所属部署を知らせること。 六、 私達日本国民は、このような厳しい服務規程を遵守し、社会正義の最後の砦とばかりに、身を挺して社会悪と戦っているマルサに、改めて驚嘆し、心から感謝しなければならないのであろうか。 七、 平成5年9月28日、私を急襲したマルサは、このようなマルサとは似ても似つかないものであった。暴力団そのものの存在が、私を襲ったのである。 以下、広島国税局調査査察部による強制調査がどのようなものであったか、私の日記等をもとに、当時の状況を再現し、その実態を明らかにする。 二.強制調査―国犯法による捜査 (1)ガサ入れ(捜索令状による調査)初日―平成5年9月28日(火)   一、 朝8時20分、私は、下着姿で、キッチンテーブルに向かい、K.Aの件に関する書類を作成していた。  玄関のチャイムが鳴った。 二、 「広島国税局です。」 「何の用か?」 「とにかく玄関を開けて下さい。」 三、 数人が玄関にいる。ただごとではない異様な雰囲気である。  玄関を開ける。背広姿の男が8人もいる。 四、 令状が呈示された。法人税法違反の嫌疑で家宅捜索をする旨が告げられた。  一人が改めて令状を両手でもって呈示。査察官藤原孝行であった。 五、 令状を確認するために、受け取ろうとするが、なかなか手渡してくれない。  複数枚あるようだ。手にとってゆっくり見たいので、見せるように要求。押問答の末、ようやく手渡してくれる。 六、 読む。カメラのフラッシュが光る。益田市畜産の千葉の不動産に係る税務処理を脱税と早とちりしているようだ。  完全な誤解であることは明白であるが、広島地方裁判所が、臨検捜索差押許可状を発行しているので、止むをえない。血の気が引き、足がふるえる。 七、 マルサが私に呈示した令状は次のとおりであった。        臨検捜索差押許可状 犯則嫌疑者氏名 益田市畜産協同組合 犯則事件名 法人税法第159条違反(ほ脱犯)        平成5年9月24日        広島地方裁判所        裁判官 藤原俊二  石見空港建設に伴う土地建物等の収用により受け入れた移転補償金に関し、税負担の軽減を企図し、利益を圧縮する方法等により、平成2年4月1日から同3年3月31日までの事業年度において、譲渡担保による貸付を不動産売買があったごとく仮装し、「収用に伴い、代替資産を取得した場合の課税の特例」を不正に利用して、固定資産圧縮損を計上したり、架空借入金に対し支払利息を計上し、平成3年4月1日から同4年3月31日までの事業年度においても、架空借入金に対し支払利息を計上し、平成4年4月1日から同4年5月22日までの事業年度において、架空資産の貸付に係る家賃収入の未収入金を貸倒損失として計上し、平成4年5月23日から同5年3月31日までの事業年度においては、架空資産の売却損を計上するなどして、益田税務署長に対し、所得金額を過少に申告し、多額の法人税を免れている。 平成3年3月31日期  申告収入金 8,137千円  申告所得 △427,330千円  見込脱漏所得 1,568,658千円 平成4年3月31日期  申告収入金 49,494千円  申告所得 0円  見込脱漏所得 △132,133千円 平成4年5月22日期  申告収入金 13,499千円  申告所得 △27,123千円  見込脱漏所得 50,486千円 平成5年3月31日期  申告収入金 0円  申告所得 0円  見込脱漏所得 66,065千円 八、 同年9月30日、松江税務署において、捜索令状を再度見せてくれるように要求し、更にコピーを要求したが拒否されたため、筆写した。このとき、主要部分を書き写したものが上記である。  捜索押収対象物件は、最後に印刷してあった。総勘定元帳、補助簿に始まって、考え得る限りのものが100近く列挙してあった。これだけは書き写さなかった。 九、 8人が家に入ってきた。白のマツダのボンゴバンが車庫に入っている。シールが貼ってあり、車の中の様子はわからない。 一〇、朝8時30分。まだ風呂に入っていなかったので、風呂に入ってヒゲを剃る旨告げ、風呂に入る。  風呂の中で、野菜スープを飲みながら考えた。 ――「とんでもない連中が来たものだ。押しかけて来たからにはしようがない。対応を誤ると、私の事務所は潰されてしまう。しっかりしなければ。  私にとっては一大事であるが、考えようによっては、生涯に二度とないチャンスではないか。  公認会計士というプロの眼で、なりゆきを見すえ、この連中がどんなことをするのか、しっかりと記録に残してやろう。ヨーシ!」  身体の震えがおさまってきた。 一一、朝9時。風呂を出る。すでに自宅の捜索が始まっていた。サイフ、名刺入の中をチェックされる。常時持ち歩いている鍵束(5コ)について、それぞれどこの鍵か問い質される。 一二、事務所にも捜索が入っていることを査察官から聞く。所長室には職員に見せたくないものがあるので、私が行くまで、手をつけないように要求。OKをとる。  事務所の加山裕太副所長、島根総合研究所の小島泰二事務局長に電話して、10時ごろに行くことを告げる。 一三、朝食がまだであったので、査察官の許可を得て、めしを食う。味がない。 一四、玄関に貼られた出入禁止の札をはずすように要求。はずしてくれる。  一五、朝9時30分、自宅の捜索立会いは家内がすることになり、私は連れ出される。私の車、日産シーマの捜索。別の令状が呈示された。  トランクのシートを剥がして見ている。後部座席にM社の資金繰表が置いてあった。それを一点だけ押収。関係ないものだと抗議したが、聞く耳持たぬとばかりに押収。 一六、朝日町の2つの不動産物件を見たいというので、連れていく。査察官の藤原孝行、新本修司同行。  まずアボアール。押収物件なし。次にコスモビル。鍵を一級建築士M氏に渡してあったので、事前に電話連絡したうえで、M建築事務所まで鍵を取りに行き、コスモビルへ。ここも押収物件なし。 一七、午前10時すぎ山根ビルへ。一階の島根総研の入口、二階のビジネス情報サービスの入口、二階の山根会計事務所の入口に、それぞれ「出入禁止」の札が貼られ、捜索がなされている。  それぞれの責任者に対して、「令状による捜索であり、査察の指示に従ってくれ。国税局の誤解によるものだから、君たちは心配しなくてもよい。」旨話す。 一八、午前10時15分。三階には、10人程の査察官がウロチョロしている。  所長室にて、職員に見せたくないものを、前原非利(査察第四部門統括主査)に示す。それ以後、所長室の捜索は、職員T立会いのもとで行われた。 一九、連中の仕事ぶりをしばらく観察する。仕事の手際はいいようだ。プロの訓練を受けている。皆、黙々と下を向いてやっている。兵隊アリを連想。あるいは精悍なドーベルマンか。   10ヶ所以上の現場の同時進行。携帯電話でさかんに連絡をとりあっている。FAXがとびかっているようだ。 二〇、三階の山根会計事務所と一階の島根総研の入口に貼られた「出入禁止」の札をはずすように、再三にわたって藤原孝行に要求するが、断られる。  入り口の扉を閉め、「本日臨時休業」の貼り紙をするので、札をはずしてくれと頼むも、拒絶される。  人をさらし者にする気である。 二一、所長室で、査察官前原非利が、金庫の中にあった吉川春樹の借用証を見つけ、私に対して、吉川への貸付金の残高は現在いくらになっているかと、唐突かつ威圧的に質問する。  無視。そんなこと宙に覚えているもんか。ニラミつけてやる。 二二、昼、1時頃、自宅に帰って昼メシを食う。味がない。しばらく休息した後、再び事務所へ行き、立会いをする。 二三、古参の職員大原輝子が、三階の第二応接室で前原非利より尋問を受けていた。一人が側でメモをとっている。  私はあいさつに行き、二人と名刺交換。しばらく話をしたが、ジャマだとばかりに体よく追い出される。 二四、二階のビジネス情報サービスの部屋で、職員古賀益美と話し合う。中村真一(査察第三部門統括主査)、他三名による事務所及び古賀の自宅の捜索を終え、事情聴取も完了したようだ。  古賀益美、マルサの質問てん末書には署名捺印はしなかったという。「山根所長を呼び捨てにし、犯人扱いするような人達の文章にサインなどできない」と断ったそうである。さすが、私の部下である。 二五、しばらくして、山根ビル二階に事務所をかまえている顧問の中村寿夫弁護士が立ち寄る。 「三階の事務所に行ったところ、出ていってくれと言われ、追い出された」由。  中村弁護士、国犯法による捜索立会は初めてのようだ。 二六、午後四時すぎ。藤原孝行より松江税務署への同行を求められる。  いくらでも話をするので、私のオフィスでやってくれと頼むも、強引に署までと言って譲らない。 「署へどうしても行かなければならないのか」と私。 「そういう訳ではないが、署には他からの押収物件も集められており、話を聞くのに便利だから」と言うので、一応納得して、松江税務署へ同行する。新本修司も一緒であった。 二七、午後4時30分。松江税務署、一階取調べ室。  表の道路に面した六畳ほどの畳の部屋に、机と椅子が臨時に置かれている。まさに警察の取り調べ室である。  本拠地で私をしめあげようということであろう。  三階にガサ入れの本部が置かれていたことを後で知る。  総指揮官は、大木洋。広島国税局調査査察部査察第三部門統括国税査察官という、いやに長ったらしい肩書を持っている。 二八、藤原孝行が開口一番、腕まくりをして、すごむように私に宣言した。新本修司が側でメモの用意をして控えている。 「さあ、料調(資料調査課による任意調査のこと)の調査は本日をもっておわり、これから国税犯則法による強制調査に移る。  山根とは最低三ヶ月、長ければ半年以上つきあうことになる。自分が直接の担当者として、ことにあたる。自分の仕事は検察に告発することだ。今日は夜遅くなると思うので、じっくりつきあってもらおうか。」 山根「あなたも職務としてするわけだから、私もつきあわざるを得ない。  しかし、今日は疲れているし、それに夕方6時を過ぎてまで仕事をする習慣はない。6時になったら帰らせてもらう。」 藤原「山根は犯則嫌疑者であるから、初日の今日だけは、夜遅くなっても、質問顛末書が一応出来上がるまで、つきあってもらうことになる。」 山根「質問顛末書とは何か」 藤原「自分が山根に質問するので、それに答えて欲しい。それを受けて、できるだけ忠実に自分は供述調書の形で書き取る。これを質問顛末書という。  単に尋ねるだけではないので、何倍も時間がかかることになる。」 山根「そんなことにつきあうことはできない。私はどんどん話をするので、2人でメモをとり、供述調書の形にまとめてくれ。  翌日、私はそれを点検して、自分の言ったことに相違ないと認めれば、すすんで署名捺印をする。」  押問答の末、そのようにすることになった。 二九、時間の点に関して、初日の今日だけは、せめて夜の9時位まではつきあってくれとのことであったが、拒否する。 山根「身柄を拘束するのか。」 藤原「いや、そうではない。協力して欲しいということだ。」 山根「協力できないと言ったら、私を逮捕するのか。」 藤原「国税に逮捕権はない。」  私は、時間の点では協力できないとして、6時すぎには帰宅した。アッカンべーだ。 三〇、大木洋、取調べ室にときどき顔を出す。名刺交換をする。 大木「私も松江出身。松江はほんとうにいい町だ。極悪人がでるような町ではないんだが。」  顔をゆがめて、上目づかいにジロッと私を睨みつける。私は初対面の一公務員から、全人格を否定されるに等しい、極悪人と決めつけられた訳である。 大木「私ら査察は、1億2000万人の国民の付託を受けている。相手があいてだけになかなか大変な仕事だ。  したたかな連中が多いが、センセイは一応、公認会計士なんだから、こうなった以上、素直に協力することだ。」  自らを、月光仮面か遠山の金さんと錯覚している人物が眼の前にいる。 三一、大木洋。顔が悪い。顔が全体にゆがんでおり、悪相である。人を長年疑ってばかりいると、このような顔になるものか。妙に感心する。  筋金入りの日本人であり、達意の文筆家であった山本夏彦のエッセイの言葉がリアリティを伴って浮んできた、――「税吏はみつぎとりであり、銀行員は高利貸だ。ともに賤業である。」 三二、初日の藤原孝行の尋問は次のとおりであった。 藤原「令状による捜索がなされたのであるが、山根に思い当ることがあるか。」 山根「全くない。令状を読んでみたが、全くの言い掛かりであり、迷惑千万である。」  以下、名前、本籍、住所、生年月日、職業等の質問があり、佐原良夫、吉川春樹と知り合った経緯、益田市畜産と係わりあった経緯が質問された。 三三、翌日は、朝の8時半から調査を始めたいので、それまでに松江税務署に出頭するように言われた。  私は、通常オフィスの仕事は朝の10時半から始めることにしているので、10時半にしてくれと言ったが、結局、双方妥協して、朝の10時に行くことになった。 三四、夕方、6時半に帰宅。夕食をとり、ビールを飲む。共に味がない。 三五、二十数年前に勉強した刑事訴訟法の本を取り出して読む。  捜索令状は書き写しできることを確認。国犯法の取り調べは任意であることを確認。供述調書(質問顛末書)の書き写しは要求すれば、できることを確認。 三六、夜遅く、益田市畜産の岡島信太郎組合長、増田博文常務に電話し、取り調べの状況を尋ねる。  誘導尋問が頻発され、恫喝を受けて、完全に国税側の虚構のシナリオに沿った質問顛末書が作成されたことが判明した。嘘の自白が引き出されたのである。タイヘンだ。 三七、私は組合の二人に対して、厳重に申し入れた。 ――真実のこと、自分が知っていること、自分の記憶に残っていることだけを話してくれ。しかも、それがキチンと質問顛末書に書き込んであることを確認してから、サインして欲しい。 ――いい加減なことでサインをすると、後で取り返しのつかないことになり、私は責任をもてなくなる。 ――真実と違ったことを、国税はデッチあげようとしているので、絶対にダマされてはいけない。 ――私は責任をもって、あなた方の相談に応じており、法に触れるようなことは断じてしていないので、とにかく、マルサには真実ありのままを話すようにしてくれ。その後は、私が命にかけて、あなた方を守る。  私の声が次第にかすれてきた。 三八、二人とも、「困った!困った!」を連発。 山根「これからでも遅くないので、明日直ちに質問顛末書を訂正するように要求して欲しい。」 三九、更に、岡島組合長曰く、「16億5千万円で買ったものを、1千万円で売ったのは、組合長として組合に対する背任行為ではないか。背任罪になると言われたら、どのように申し開きするつもりなんだと、えらい剣幕で叱りつけられた。」  犯則嫌疑者といえども、マルサに、背任などと言って叱られる筋合いはない。余計なお世話だ。一体何様のつもりであろうか。ここは、国犯法の調査の場であり、背任罪など追及する場ではない。  これについても、翌日、厳重抗議することにした。 (2)初日のマルサ動員状況 ・第一勧業銀行松江支店 五人。E.S氏、柏支店より呼びつけられる。 ・コスモ証券松江支店 二人。Y.H氏、鳥取空港から引き返す。 ・農林中央金庫松江支店 二人。 ・山根会計事務所 十人。 ・山根自宅、車(シーマ) 七人。 ・ビジネス情報サービス 五人。 ・島根総合研究所 五人。 ・職員大原輝子自宅、大原輝子貸金庫 二人。 ・職員古賀益美自宅 三人。 ・アボアール、コスモビル 二人。山根同行。 ・その他 若干名。 ・益田福山義弘前組合長は益田税務署へ連行。増田博文常務、岡島信太郎組合長、他の組合員は自宅で尋問。 *捜査本部、松江税務署三階。大木洋統括官、他3〜5名。 【マルサ出動人数】 ・松江 50名前後。 ・益田 50名前後。 ・千葉 10名位。 ・総勢 110名前後。 (3)強制調査二日目―平成5年9月29日(水) 一、 午前10時、松江税務署、取調べ室。すでに藤原孝行、新本修司の二名が待機している。  ポットに入れた野菜スープを持参。――国税のお茶など飲めるか。 二、 私は、藤原と新本の二人に対して、厳重抗議を申し入れた。 ――誘導尋問をやめろ。 ――質問顛末書は、本人が話した通りに書け。デッチあげはやめろ。 ――威圧的な言辞は慎め。 ――余罪の追及などと言って、脅迫するな。  以上、益田市畜産の岡島組合長と増田常務に対する違法な取り調べに関連して抗議。 三、 私は、益田税務署の取り調べの現場に電話をかけさせることにした。  新本修司、市外通話なので、松江税務署の交換台を通してかけてくれる。 四、 組合の増田常務が電話口に出てきた。 山根「昨日話したとおり、国税局の口車に乗らずに、あくまで真実、あなた方が実際に経験した事実だけを話してくれ。  更に、質問顛末書にサインする時は、単に読み聞かせてもらうだけでなく、正副二通作るはずであるから、必ず、一枚は自分の手許において、キチンと何が記してあるか、自分の目で確かめてくれ。  又、昨日の事実に反する供述の訂正を直ちに申し入れるように。」 五、 岡島組合長が電話を代わった。  増田常務への電話と同様に、事実のみを話すべきことと、昨日行った虚偽の自白の訂正を直ちに行うべきことを伝え、担当の査察官に代わってもらう。 六、 担当の三瀧恒雄(査察第四部門統括国税査察官)が電話口に出てきた。  私は、三瀧に対して、「背任など余罪をチラつかせて、脅迫しないように」申し向け、厳重に抗議した。 七、 私の抗議に対して、三瀧はかなり怒っているようであった。 山根「このような状態で調査が続行されるのは不安だ。組合長については今後、私の立ち会いのもとで取り調べをしてくれ。」 八、 「断る!」――三瀧が大声で怒鳴りまくる。耳が痛くなる。  「静かに話したらどうか。」こちらも大声で注意する。  電話の向こうに暴力団がいる。  声の大きさでは、私も負けてはいない。  私の声の調子もレベルアップし、暴力団モードにスイッチする。 九、 立ち合いを拒否されたため、本日の組合長への尋問は中止するように、三瀧に要求。これも暴力団によって拒否される。 一〇、それならと、昨晩おさらいした刑事訴訟法の知識を活用することにした。  国犯法における強制調査は、臨検、捜索及び差押えの三つのみであって、犯則嫌疑者の取り調べには及ばない。即ち、任意調査であることだ。 一一、私は、三瀧に問いかけてみた、―― 「では、組合長が、今日の取り調べは受けたくないと、自発的に申し出た場合には、どうなるのか。」 三瀧「・・・。それは仕方がない。」三瀧の声のトーンが急に下がり、暴力団から、借りてきた猫になった。 一二、再度、組合長に電話を代わってもらう。 山根「昨日も話したように、質問顛末書は一般の供述調書と同じようなもので、一度それにサインすると、それが仮に、事実に反することでも通ってしまう。  後で覆すことが難しくなるので、絶対に妥協しないでもらいたい。  私も嫌疑者となっているので、迷惑をこうむることになる。今のように脅したり、騙したり、誘導したりの尋問では、何がなされるのか不安である。  あなた自身の意思で、今日の尋問は断ってください。」 一三、私のそばで、藤原孝行がシブイ顔をしている。ネズミを捕らえようとして、すんでのところで取り逃がしたドラ猫の顔である。 一四、統括査察官の大木洋が顔を出した。私は、大木に対して改めて厳重抗議をした。  大木は、部屋を出て、別室で益田税務署にいる三瀧と電話連絡をしたようであった。 一五、大木は部屋に帰ってくるなり、余罪の追及の件について、メチャクチャなことを言い始めた。胸を張っている。 「公務員たるものは余罪の追及をし、他の犯罪の事実があれば告発しなければならない。刑事訴訟法に規定されていることであり、余罪追及は当然のことだ。」 一六、私は唖然として、大木のゆがんだ顔を凝視するばかりであった。  国犯法上の調査権は、脱税の疑いがある場合に、その証拠を発見したり、集めたりするためのものだ。マルサに、背任とか横領の罪を追及する権利などあるはずがない。  大木という男は、査察官としていったいどのような教育を受けてきたのだろうか。  切れ味の鋭い日本刀を、やたら振りまわして遊んでいる、訳のわからないガキ大将のようなものである。危険極りない存在だ。 一七、藤原孝行に対して、私は、今日の質問顛末書の冒頭に、私が厳重に抗議したことをキチンと書き記すように要求した。  藤原、拒否して曰く、「質問顛末書は、こちらが質問したことを、その範囲で記すことになっており、山根の抗議など書くことはできない。」 山根「それはおかしいではないか。昨日、あなたは、この調書は嫌疑者が話したとおりのことをそのまま書くようになっているもので、仮に方言で話したら、方言で書く建前のものであると言ったではないか。」 藤原「・・・・・」絶句。  翌日、清書された質問顛末書には、私が厳重に抗議した旨が、その冒頭に記入してあった。 一八、私は、藤原に対して、捜査令状を再度見せてくれるように要求した。  新本修司が令状を持ってきた。改めて、入念に読む。  令状のコピーを要求したが断られる。それではと、書き写してもよいかと尋ねたところ、藤原がうろたえている。  即答できないとして、別室にいる大木洋に相談に行ったようである。  帰ってきて、筆写ならOKということであったので、令状の主要部分を書き写す。  藤原曰く、「今まで、捜査令状など書き写したものは一人もいない。山根がはじめてだ。」  山根、無視。グジグジ言う男である。 一九、二日目の午前中は、ワイワイガヤガヤで終る。  午後は2時からと約束し、昼メシを食べに家に帰る。 二〇、午後2時。初日の質問顛末書をまとめておいたから、眼を通して、間違いがなければ、サインをするように、藤原が求めてきた。  見る。名前、本籍、住所、職業、事務所、経歴、会社、佐原と吉川に出会った経緯など、どうでもいいことで、かつ、事実に即してまとめてあったので、快くサインし、捺印する。 二一、藤原に対して、私がサイン、捺印した質問顛末書をコピーするように要求したところ、拒絶された。  それではと、書写を申し出る。また、うろたえている。  藤原は別室に赴き、大木洋と相談してきたようであった。しぶしぶながら書写を認めてくれた。 二二、午後2時30分から5時30分まで、藤原の取り調べを受ける。  益田の組合関連で押収された資料が、松江の捜査本部に次々とFAXで送られてきている。  FAX資料の説明を求められた。携帯電話とFAX。情報化時代のガサ入れである。 二三、午後5時30分。質問顛末書を再度吟味し、書き写す。  私のほうから、時間のかかる書写を要求した手前、時間が遅くなるのを受忍することにした。  翌日の取り調べも、午前10時からと約束し、午後9時頃帰宅。 (4)強制調査三日目―平成5年9月30日(木) 一、 午後10時。松江税務署、取調べ室。  前日同様、野菜スープを持参。  藤原と新本の二人が、昨日私が話したことを質問顛末書を清書して、待っていた。  藤原曰く、「山根さんの要望を入れて、抗議の言葉を入れておきましたよ。」  少々ふてくされた様子である。一部修正させた上で、サインに応じる。再び筆写する。 二、 午後2時30分から6時まで、二人から事情聴取を受ける。 山根「何でもしゃべるので、二人で適当にメモをとってくれ。」  藤原と新本の二人は、机にしがみつくようにして懸命にメモる。  二人共、授業中に先生の言葉を一言も漏らさないように、必死になってノートをとる小学校の優等生にヘンシンしている。 三、 午後6時30分。帰宅。  夕食はうどんであった。タレに生にんにくをすってタップリ入れる。体力をつけなければ、死んでしまう。ようやく、食事に味がでてきた。  タレも全部飲む。明日が楽しみだ。 (5)強制調査四日目―平成5年10月1日(金) 一、 午前10時30分。松江税務署取調べ室。  二人が待っている。野菜スープの入ったポットを持って部屋に入った。  新本修司がしばらくしてから、黙ったまま道路側の窓を開けた。二人とも余り話をしない。  昨日食ったニンニクが相当の威力を発揮しているようだ。藤原孝行、イタチの最後っ屁をくらったドラ猫となる。面白い顔である。 二、 藤原「山根さん、夕べは焼肉を食べましたね。」 ――こんな状態の時、肉など食えるか! 山根「あんたらが私をいじめるので、少しでも体力をつけようと思って、にんにくタレのうどんを食べたんですよ。」 藤原「私ら、人に会う前には、にんにくは食べないことにしているんですがね。」 山根「礼儀正しいんですね。」 藤原「私、つきあいは紳士的にすることにしています。」 山根「あんたもジョークがきついね。」 藤原、絶句。 ――たっぷり皮肉を言ってやった。こんな連中が紳士なら、暴力団はみな紳士だ。 三、 藤原「今日はえらく元気そうですね。」 山根「エー、おかげさまで昨日はよく眠れましたから。」 藤原「そうでしょう、そうでしょう。昨日はたくさん書き写されましたからね。」  藤原、皮肉を切り返したつもりでいる。私が夜遅くまでの取り調べに応じないばかりか、質問顛末書をこまかく吟味して訂正させる上に、書写までするので、うんざりした顔をしている。 「書写をしたのは、山根センセイがはじめてだ。いつもの何倍も時間がかかる。」 ブツクサ言っている。 ――知るか。私が令状を写したときといい、よくグジグジ言う男だ。 四、 取調べは午前中で終った。しばらく事情聴取は中断する、後日改めて自分の方から連絡すると、藤原は言った。 五、 夕方6時。島根総合研究所、理事会。マルサの話をする。  法に触れることは絶対にしていないので、皆、安心してほしい旨話す。  生々しいマルサの話に大いに盛り上がる。とりわけ、今日のニンニク事件のてん末は好評であり、うけた。  マルサをサカナにして、皆で飲む。 (6)その後―(1) 一、 平成5年10月27日、午後1時から同2時50分まで、山根ビル一階の島根総合研究所サロンにて、益田市畜産協同組合の人達6人と、今後のマルサ対策について話し合った。同席者は、職員小島泰二。 二、 皆の了解を得て、テープで録音することにした。組合の人達の証言が、マルサの口車に乗って二度とぶれることがないようにするためであり、仮にぶれた場合でも、私と皆の前で話したことを明確に残しておけば安全であると考えたためである。  これに加えて、何をするか分からないマルサのことであるから、皆で寄り集って口裏合わせをしたとか言って、難クセをつけないとも限らず、口裏合わせなどしていないことを後で証明するためにも、録音して残しておく必要があると考えたのである。 三、 案の定、私達をマルサの口車に乗って逮捕した検察は、この時の会合について、口裏合わせをし証拠隠滅工作をしたと、言いつのり、証拠隠滅のおそれありとして、私を保釈させようとしなかったし、私を断罪する際にも、度々引用した。  直ちに嘘が証明されるこのようなことを、どれだけ多く、マルサと検察は捏造したことであろうか。 四、 平成5年11月22日、新本修司より電話があり、会いたいと言ってきた。11月25日午前10時に、松江税務署に行くことを約束。 五、 平成5年11月25日、午前9時50分。  松江税務署一階の和室に行く。  前回同様、机と椅子が運び込まれており、藤原孝行と新本修司の二人が待っていた。 六、 藤原「質問顛末書を書き写すことは、今後は認めないことにした。」 山根「何故だ?」  藤原「犯則嫌疑者に書き写す権利が認められているわけではないし、取り調べにあたる国税当局に、それを書き写させる義務がないからだ。」 山根「この間は、コピーはできないが、書き写すのならよいと言ったではないか。」 藤原「だから、これからはそれを改めるということだ。」 山根「方針変更の理由を聞かせて欲しい。」 藤原「理由など、山根に言う必要はない。」 ――問答無用ということか。よらしむべし、知らしむべからず、お上の言うことには、文句を言わずに黙って従えということか。 山根「もともと、私が、質問顛末書を書き写すことを申し出たのは、尋問にあたって、脅したり、すかしたりして、事実をねじ曲げ、自分達で勝手につくりあげたストーリーに沿うように調書をとっている事実があったからではないか。  こちらの言ったことで、架空のストーリーに合致しないことは、書かずに省略した事実があったからではないか。こんなものが、任意の供述調書であるものか。  国税のデッチあげから私を守るために、必要だからこそ、厳密にチェックして間違いを訂正してもらい、その内容を書き写して、こちらに保管するということで、お互いに了解したことではないか。」  藤原「私も人の子だ。デッチあげなどと、二度と言わないでもらいたい。」 山根「君達がやり方を変えなければ、何度でも言うつもりだ。」 七、 藤原、席を外す。広島にいる上司の大木に、電話をかけにいった模様。 八、 藤原、帰ってくる。 藤原「一つ、提案がある。山根の方で、ことの経緯を上申書の形で詳しく書いてくれないか。それを我々が見て、疑問の点とか、不足していることがあれば、質問するということにしたらどうか。」 山根「それは願ってもないことだ。了解。あなた方に事実をねじ曲げて書かれる必要がなくなるわけだ。私が自分の文章で、責任をもって書くことにする。」 藤原「その上申書の形式だが、宛名は私にして欲しい。書き出しは、『貴局からご質問がありました、組合と陸中物産との土地売買の経緯について、説明いたします。』としてください。」 山根「・・・・」 ――上申書?貴局?何故、そんな言葉を使わなければならないのか。お上意識丸出し。憲法で公務員は、国民全体の奉仕者であるとされていることを知らないようだ。 (7)ある社長の自殺 一、 平成5年12月25日、衝撃的なニュースが、私の目に飛び込んできた。 『ハニックス工業社長が自殺――東京国税局ロビーで、「脱税は無実」と遺書』(日本経済新聞、同年12月25日付) 二、 ショッキングな見出しで始まった記事は次のように続く―― 『24日午後4時半ごろ、東京都千代田区大手町合同庁舎第二号館東京国税局一階ロビーで、男性が血を流して倒れていると110番通報があった。警視庁丸の内署の調べで、男性は東京地裁から破産宣告を受けた建設機器メーカー、ハニックス工業(埼玉県三芳町)のH社長(59)=埼玉県上福岡市福岡三=とわかった。H社長は出血多量でまもなく死亡した。所持品から遺書とみられる文書が見つかったことから、同署では自殺とみている。  同社長が持っていたバッグの中に、遺書とみられる文書があり、「脱税の罪をかぶせられたが、まったく無罪だ。摘発を受け、社員に迷惑をかけた。死んで抗議する」などと書かれていた。』 三、 私がこのニュースに大きな衝撃を受けたのは、私自身、脱税の嫌疑で広島国税局の強制調査=査察を受けている最中であったからである。 四、 事実を歪曲し、証拠を捏造して、なにがなんでも、私を脱税の嫌疑で告発しようとしている査察に対して、告発をくい止めようとし、私は必死になって立ち向かっていた。  私は公認会計士であり、信用第一の仕事であるだけに、脱税という破廉恥な罪で告発されるだけで、私の事務所は壊滅的な打撃を受けることは明らかであり、私の会計士人生が終ってしまうおそれがあったからである。 五、 このなんとも痛ましい事件は、文字通り他人ごとではなく、私自身のこととして、私の心臓にグサリと突き刺さったのである。 (8)抗議書の作成 一、 マルサのガサ入れから三ヶ月が経過しようとしていた。  私を始め、組合の人達は全て、いわれなき脱税の嫌疑については全面否認を通した。マルサが虚構のシナリオを捏造しているのであるから、当然のことである。  私は、『事件』の核心を証明する二つの民事裁判の確定判決書をはじめ、多くの疎明資料を提出(そのほとんどは、ガサ入れ時に押収されたものだ)し、マルサに対して詳しく説明してきた。  更に、マルサの要請にもとづき、長大な申述書を作成している最中であった。 二、 平成5年11月22日以来、マルサと私との接触は一時的に途絶えたものの、組合の人達に対しては、毎日のようにやってきては、虚偽の自白を執拗に迫っていた。  捜索令状をとり、大がかりなガサ入れをした以上、なにがなんでも検察庁に告発する姿勢を崩していない。 三、 ハニックス工業の場合、脱税の告発が公表された直後に倒産した。社長は、国税に対する恨みの遺書を懐にして、東京国税局のロビーで、自らの心臓を切り裂いて自殺した。 四、 他人ごとではなかった。明日はわが身、私も同じような運命を辿ろうとしている。犯罪者の汚名を着せられ、ボロキレのように葬り去られてしまう。  ハニックス工業社長の抗議の自殺について、東京国税局の当時の村上喜堂総務部長と横尾貞昭国税広報室長は、マスコミの取材に対して、共に、「誠にお気の毒ではあるが、だからといって法律は曲げられません。それに、社長はこちらに一度も抗議においでになったことはなく、こちらとしては真意が分からないんです。」と白々しいコメントを出している。 五、 抗議などなかったというような言い訳を封ずるためにも、文書による抗議を申し入れることにした。  私は、拱手傍観していては、国家暴力によって、理不尽につぶされてしまうと判断し、攻勢に出ることにしたのである。 六、 抗議書を作成し、平成6年2月8日、私の事務所に担当収税官吏藤原孝行と同新本修司とを呼び、彼らに作成を約束していた申述書等と共に、手渡した。 七、 この日に、藤原孝行に手渡したのは、次の11点の資料であった。 1.申述書(嫌疑事実の顛末) 54ページ 2.申述書・資料説明 16ページ 3.申述書・添付資料目録 4ページ 4.申述書・添付資料(添付資料1から23。計30点) 5.第二申述書(仮装隠蔽、通謀虚偽表示が無かったことの証明) 26ページ 6.第三申述書(平成2年9月6日、佐原良夫が組合に出向いた件について) 10ページ 7.抗議書(国税庁長官宛) 5ページ 8.抗議書(広島国税局長宛) 6ページ 9.告訴状(東京地検宛。『告訴事実の詳細』付)1通 8ページ 10.告訴状(恐喝の事実を立証する準備書面) 23ページ 11.告発状(広島地検宛)1通 八、 同日、広島国税局長志田康雄(昭和20年生。東京大学法学部卒)に宛てた抗議書を、配達証明郵便で送付した。 九、 国税庁長官濱本英輔(昭和11年生。東京大学法学部卒)に宛てた抗議書は、郵送しても長官に届くまでに紙くずとして破棄されるおそれがあるので、しかるべき人に直接渡してもらうことにした。 一〇、私の念頭にまっ先に浮かんだのは、当時国会議員をしていた、畏友岩本久人氏であった。  岩本氏は、私を襲ったマルサの犯罪的行為に義憤を抱き、快く引き受けてくれた。 (9)国税庁長官への抗議 一、 平成6年2月10日、午後2時30分、岩本久人参議院議員は、私が作成した国税庁長官に対する抗議書を携えて、国税庁内の一室で、同庁調査査察部査察課長石井道遠と同庁長官官房総務課課長補佐加藤勝信とに会い、一時間にわたって面談した上で、石井道遠に抗議書を手渡した。 二、 同日、午後5時、岩本久人事務所から私のところに、報告書が届いた。同日、午後4時30分作成と記されてあった。  それには、次のような石井道遠の言葉として、面談の内容が記されていた。 1. 「抗議書」については、今後調査の上、適当な時期に対応させていただきたい。 2. 個別案件の内容については、調査中なのでコメントができない。 3. 職員による不穏当な言動等については、事実であれば、適正を欠いているので、それへの対応は一任いただきたい。 4. 自分(石井道遠)は、2年前まで東京国税局の査察部長をやっていたが、立件できないものを告発することはありえないので、一般論として言えば、今後検察庁との協議会での合意がなければ、立件は難しいのではないか。 三、 平成6年2月14日、私は、同年2月8日に、広島国税局藤原孝行に手渡した三通の申述書のコピーと付属資料とを添えて、石井道遠宛てに、配達証明付の速達便で送付した。  石井道遠が、岩本久人氏に内部調査をする旨確約したために、当方としても、より具体的な資料を提供すべきであると判断したからである。 四、 国税庁の査察課長として、全国のマルサを統括する立場にあった石井道遠が10年ほど前に、国民の代表である国会議員に約束したことが、果たされていない。  今からでも遅くない。岩本議員に申し述べた三つのことがらについて、国税当局としてのしかるべき回答を求めたい。 五、 第一に、私の抗議書について、石井はどのような調査をしたのか。調査の上、いつ、どのような対応をしたのか、教えていただきたい。  第二に、調査中の個別事案は、コメントできないとしているが、私の事案は刑事裁判にかけられ、しかも、国税当局が、検察と一体になって冤罪を創り上げたことが、判決の上で確定している。  現時点でのコメントを求めたい。  第三に、職員の不穏当な言動について、事実であれば適正を欠いているので、それへの対応は一任いただきたいと言っているが、石井はどのような対応をしたのか、明らかにしていただきたい。 六、 現場の責任者であった広島国税局統括国税査察官大木洋の暴力団顔負けの数多くの言動は、録音されて残っており、全て事実である。  私を破廉恥な犯罪人に仕立てあげ、社会から抹殺しようとした中心人物が、大木洋である。  大木洋が私になすりつけた冤罪が、法廷の場で明白に斥けられたのが、平成13年6月11日であり、同年6月25日、広島高検は上告を断念し、捏造マルサ事案に関する無罪判決が確定した。  私が冤罪であると訴え、厳重に抗議したにも拘らず、証拠を捏造してまで冤罪を創り上げて、私を断罪しようとした大木洋の不正行為が、法廷で明らかにされたのである。 七、 大木洋が広島国税局調査査察部次長から、同調査査察部長に昇進したのは、その直後の同年7月10日である。  私にとって、わが眼を疑うようなこの人事について、是非とも石井道遠はじめ国税当局のコメントを聞いてみたいものである。 (10)抗議書(国税庁長官宛)  平成6年2月10日、岩本久人参議院議員から、査察課長の石井道遠に手渡された国税庁長官宛の抗議書の全文をここに掲げる、――        抗議書 国税庁長官 濱本英輔殿 一、 私は、現在、広島国税局査察第三部門によって、国税犯則取締法による調査を受けております。平成2年9月28日の臨検捜索から4ヵ月が経過いたしました。私と多くの関係者が、まったく身に覚えのない脱税という破廉恥な嫌疑を受け、言葉には言い尽せない苦しみを味わってまいりました。この一連の強制調査において、不当かつ違法な取り調べがなされていると思われますので、ここに事実を記し、抗議をするとともに当局の見解を求めるものであります。 二、 まず第一に申し上げたいのは、広島国税局査察部は、誤った先入観を持って、架空の脱税事件を創り上げ、私および関係者を脱税の罪で告発しようとしていることであります。  調査担当の藤原孝行氏は、『自分の仕事は山根を告発することである。告発した後、検察でも同じような事情聴取が行われることになる。裁判所に起訴するかどうかは、検察官の判断になるだろう』と申し述べ、何が何でも告発だけはする姿勢をとっております。 三、 私は、平成5年9月28日の臨検捜査日より4日間にわたって、松江税務署に呼び付けられ、大木洋、藤原孝行、新本修司の3名より尋問を受け、私が、臨検捜索令状に示されている脱税の嫌疑とされていることは、すべて事実に反することであると、具体的事実を申し述べて説明をしても、まったく耳を傾けようとせず、鼻先であしらう扱いをいたしました。 四、 なかでも、嫌疑とされている事実が二つの確定判決(松江地裁平成三年(ワ)第116号賃料請求事件および千葉地裁平成三年(ワ)第879号株主権確認等請求事件)によって明確に否定されていることを申し述べ、その上、平成2年8月5日、この事実に関連して、虚偽の申出を国税当局にしている人物から恐喝を受けた事実を強調したことをも全く無視をして、国税当局が勝手に創り上げたシナリオを強引に押し通そうとしています。 五、 尚、この恐喝事件に関しては、すでに平成6年2月7日、東京地方検察庁に対して告訴をいたしました。この恐喝の事実と、私が脱税の嫌疑を受けている脱税の嫌疑とは、全く矛盾するものであることを申し添えておきます。  平成5年11月25日、再度、松江税務署の取り調べ室に呼び付けられ、藤原孝行、新本修司の2名より尋問を受けた際も、同じような状況でありました。その後、藤原孝行氏の要請により、私は事実経過を詳細に記した申述書を3通作成して、身の潔白を証明したところでありますが、何が何でも告発だけはするという姿勢を崩していないようであります。 六、 昨年12月24日、東京国税局のロビーで、一人の男性が刃物を胸に突き刺して、自殺をいたしました。その人物が携えていた遺書には、国税当局への恨みが綿々と綴られていたそうであります。この男性が社長をしていたハニックス工業は、東京国税局査察部によって、脱税のかどで東京地検に告発され、その告発の事実が公表され、マスコミによって報道されるや、同社の社会的信用は失墜し、報道後わずか4日にして会社更生法を申請して倒産するに至り、同年12月20日破産宣告が出ているようであります。 七、 このように、検察が告発を受理するかどうか、あるいは受理をして、起訴するかどうか、さらに起訴がなされて有罪になるかどうかに関係なく、単に国税局が検察に告発をするという事実だけで、企業の社会的生命は終わることがあるわけであります。  私の場合もまったく同様で、このようないわれのない嫌疑によって、告発され、それが報道されただけで、私が20年近くをかけて営々として築き上げてきた会計事務所は、一瞬のうちに崩壊し、私の公認会計士としての生命は終わるわけであります。 八、 何が何でも告発だけはする、とされたのではたまったものではなく、私は二つの確定判決及び刑事告訴をした恐喝事件を含めた数多くの事実を持って反論しているわけでありますから、査察に着手した以上メンツにかけてでも、何が何でも告発だけはするといった頑な態度をとっている国税当局に対して、強く抗議するものであり、当局の見解を求めるものであります。 九、 証拠として、すでに私が数多くの資料を提供しているわけでありますから、そのようなことがまったく無視されて、告発されるに到り、私の事務所が致命的な打撃を受け、私の会計士生命が事実上終わるとするならば、国税当局ならびに大木洋氏ほか担当者個人はどのような責任をとるつもりでしょうか。当局の見解を求めます。 一〇、さらに、調査の方法に関して、私には到底納得できない点がありますので、以下、その事実を記し、国税当局の見解を求めるものであります。   一一、まず第一に申し上げたいのは、初めから犯罪人と決め付けて調査を行っている点であります。平成5年9月28日、松江税務署の取り調べ室における私に対する尋問の中で、大木洋氏は、「自分も山根と同じように松江市出身である。松江は本当にいい街で、悪人が出るはずがないんだけどな」と放言し、顔を歪めて私を憎々しげに睨みつけたのであります。私は初対面の一公務員から、全人格を否定されるに等しい悪人呼ばわりをされる覚えはありません 一二、また、臨検捜索の際、私の取引先である金融機関、証券会社等に赴いた査察官は、『山根とグルになっているんだろう。山根の偽名か仮名の口座があるはずだ。ウソを言ったら承知しない。お前も検察にしょっぴいてやる。』とまさに暴力団顔負けの言辞を弄し、侮辱すると同時に脅迫したようであります。この言辞も、私を犯罪人と決めつけていることが前提となっています 一三、このように、一方的に収集した誤った情報をもとに、勝手に脱税という嫌疑を創り上げ、私を悪人扱いにして、調査に臨んでいるのであります。国犯法にもとづく強制調査において、このようなことが認められているのかどうか、国税当局の見解を求めます。 一四、次に申し上げたいのは、脱税の嫌疑以外の余罪について追求し、余罪についても告発することをちらつかせながら、調査を行っている点であります。  同年9月29日、2日目の尋問の冒頭で、私は、私以外の関係者に対する尋問の中で、仮装の余罪を追求して脅迫し、脅し上げた担当者のいることを、関係者からの電話連絡で知るに至りましたので、強く抗議したところ、大木氏は別室におもむき、益田の査察担当者に電話で問い質したうえで、松江税務署の取り調べ室に帰って来て、私に対して、『余罪を追求し、告発するのは、公務員としての義務であり、刑事訴訟法に規定されていることで、当然のことである。税金のことだけじゃなくて、その他の余罪の追求もキチンとしておかなければ、検察に送った場合、自分たちは検事に叱られることになる。』と明言したのであります。 一五、これについての、国税当局の見解をお聞きしたいと存じます。仮に、大木洋氏の言うように、余罪を追求して告発するのが、税務当局の義務であるとするならば、このたびの査察において、私と組合とを脱税の罪に陥れるために虚偽の申し出をしている佐原良夫という人物が、3年あまり前、福谷常男弁護士、吉川春樹と共謀して、このたび脱税の嫌疑ありとされた事実に密接に関連する点で、私を恐喝した事実が存在し、私は先に申し述べましたように、すでに正式に刑事告訴をいたしましたが、その詳細な事実を、証拠をそえて広島国税局にすでにお示しいたしておりますので、国税当局とされましても佐原良夫の余罪である恐喝に関して追求し、告発の手続きをとっていただきたいと存じます。 一六、最後に申し上げたいのは、尋問者が作成する質問顛末書についてであります。 国税当局が創り上げたシナリオに沿う回答を得ようとしてでしょうか、誘導尋問が頻発され、しかも、記載内容にいたっては、シナリオに合致していることのみに限られています。私は関係者から、自分たちの話していることをそのまま書いてくれないとの申し出を受けましたので、平成5年9月29日、松江税務署において、大木洋、藤原孝行、新本修司の3名に対して厳重に抗議した事実があります。  強制捜査においては誘導尋問による追求が許されているのでしょうか。また、質問顛末書は、供述者が話をした通りの事を記載せずに、国税当局の都合のいいことのみを記載すればいいものでしょうか。国税当局の見解を求めるものであります。 一七、以上、私は怒りをこめて、強く抗議するとともに、当局におかれましては、事実関係を調査されたうえ、文書による回答をお寄せいただきたくお願い申し上げます。        平成六年二月八日        松江市魚町六九番地        公認会計士 山根治 (11)国会議員岩本久人氏 一、 当時、国会議員であった岩本久人氏について、若干触れることとする。 二、 岩本久人氏。昭和18年3月21日、島根県浜田市に生まれる。苦学の末、県庁職員を経て、昭和54年4月に島根県議会議員に当選し、三期にわたって県議会で活躍。  その後、平成元年7月参議院議員に当選し、一期六年間、主に地方自治の分野で国政にたずさわる。  現在、中国地方では、有数の規模を誇る社会福祉法人の理事長として、福祉事業を幅広く手がけている。私とのつきあいは、三十年にも及ぶ。 三、 岩本氏は、平成8年3月、アメリカ国籍の朝鮮人であり、私の尊敬する朴炳植先生(昭和5年生まれの天才的言語学者)が、四十年以上も抱きつづけた悲願をかなえてくれた人物として、終生忘れることのできない人である。 四、 岩本氏は、当時不可能といわれていた、北朝鮮在住の朴先生の老母と面会する段取りをし、一円の報酬ももらわないどころか、一年もの貴重な時間と、数百万円の私財を投げ打って、なんとかして、先生の夢をかなえて差しあげたいと考えていた私の要請に、応えてくれたのである。 五、 朴先生は、岩本氏を「40年ぶりに母に面会させてくれた義人」と称え、一冊の本にまとめた。朴炳植著『慟哭の海』(毎日新聞刊)が、それである。 (12)その後、―(2) 一、 平成6年2月8日、収税官吏藤原孝行と同新本修司の二人は、松江の私の事務所に顔を出し、私から、三つの申述書と二通の抗議書等を受け取って帰っていった。  これが、広島国税局マルサの一群が、私の眼前に姿を現した最後であった。 二、 この日、二人は、午後1時25分に来所し、同3時25分に帰っていくまでの二時間、私の事務所で私と話し合った。  この時の三人の会話内容は全て録音されており、テープ起しも完了している。B4版で65枚に及ぶものだ。違法なマルサの調査の実態を、マルサ自らの言葉で語らせ、記録するために、私のほうで、質問事項を事前に十分準備して臨んだのである。 三、 このとき、主に藤原孝行と私との間で交された、違法な押収品及びマルサの身分証明書の再提示等についての問答の実際は、後に詳述する。 四、 この2時間に及ぶ話し合いの終りに、藤原孝行は私に対して抗議するように、次のように言った、―― 「女の子をいじめるのはやめて欲しい。われわれに直接言うのは、やむをえないと思うが、詳しい事情を知らない女の子にきついことを言うのは差し控えてくれ。」 五、 藤原孝行が私に文句をつけているのは、私が4日前の平成6年2月4日、午前11時と午後1時15分の2回にわたって、木下美恵(査察管理課)に電話したことに対してであった。 六、 藤原は、自分達が留守の時には、木下美恵に伝言を頼むように、私に教えていたために、それに従って、私は彼女にメッセージを託したのであった。 七、 私は、どのように彼女に話をしたのか記憶をしてはいないが、当時マルサが私に対して、暴力団まがいの犯罪的行為をしむけている最中であったので、あるいは、一言二言彼女にきついことを申し向けたことは十分にありうる。  それに対して、私に抗議をし、文句をつけているのであった。 八、 言いも言ったり、とはこのことだ。自分達は、私をはじめ、全く何の事情も知らない多くの人達を犯罪者扱いにして、罵詈雑言を浴びせかけているのに、私がマルサの電話番の女性に、いやみの一言を言ったら、この始末である。  この人達は、自分達は何をしても、どんなことを言っても許されるが、自分達に文句を言うことは、断じて許さないとでも思い込んでいるらしい。 九、 平成6年5月16日、職員の小島泰二氏が、組合の平成6年3月期の決算及び税務申告について打合せをするために、益田に行った。  その際、平成6年3月に3回、同年4月に4回、マルサが組合の人達のところに調査に赴き、しつように嘘の自白を迫り、国税の言う通りにしなければ、逮捕され犯罪者になると脅かした旨の報告を、組合の人達から受けた。 一〇、平成6年12月3日、藤原孝行、新本修司の2人が、組合の増田常務の自宅を訪ね、3時間にわたって、嘘の自白を迫り、検察による逮捕をちらつかせて脅迫した。 一一、平成6年12月15日、私は藤原孝行に電話をし、同年12月3日新本と2人で増田常務を再び脅迫したことについて、厳重に抗議をした。 一二、平成6年12月16日、午前10時54分、大木洋の後任で、藤原孝行の上司である永田嘉輝(査察第三部門統括査察官)に対して、藤原の不法行為に関して抗議を申し入れるために電話を入れた。  永田曰く、『今までの話、いろいろ聞いております。調査に協力いただけていない。部下を馬鹿野郎呼ばわりするような方とは、一切話したくないので電話を切ります。』  永田嘉輝は、私に一切話をさせようとはせずに、怒気を含んだ声で一方的にまくしたて、電話をたたき切った。その間、わずか25秒であった。  その後、私が何回電話しても、決して電話口に出ようとはしなかった。   一三、後に、私をはじめ組合の人達3人が検察に逮捕されるのであるが、国税局の調査に協力しなかったことが、理由の一つとされていた。  私達は、マルサに対して全面的に協力し、私にいたっては、マルサの要請により、多くの時間をかけて、7万4千字に及ぶ申述書を作成し、提出していた。  私達が断固拒否したのは、マルサの捏造したシナリオによる嘘の自白であり、決して、調査に応じなかった訳ではなかった。逆に、私の話し合いの申し出を一方的に拒否したのは、マルサであり永田嘉輝であった。  検察は、マルサの嘘の口車に乗って、あるいは乗ったふりをして、嘘の口実を創り上げて、私達を強引に逮捕したのであった。 一四、平成6年12月22日、当時参議院の地方行政委員長をしていた岩本久人参議院議員は、私の要請を入れて、国税庁長官寺村信行宛の抗議書(同年12月20日付)を作成し、抗議の申し入れを行った。  曰く『1年3ヶ月の間の広島国税局の不法かつ違法行為に対して、改めて抗議をする。マルサの担当責任者である永田嘉輝が、山根会計士との話し合いを一方的に打ち切ったのはどういうことか、経緯を明らかにして欲しい。』 一五、その後、マルサは、私を含めた全ての関係者との接触を一切断つこととなった。 三.関係者の証言 (1)職員は語る  山根会計事務所 古賀益美氏の話 一、 私、その日(平成5年9月28日)は、トイレ掃除の当番にあたっていました。朝の8時半でした、二階の掃除をしていると、ドタドタッという音がしましたので、何ごとかと思って、階段を覗いて見たんです。  すると、三階にかけあがっていく男の靴が何足か目に飛び込んできました。エー、なんだなんだ、と思う間もなく、別の連中が、二階の私の部屋に入っていきました。三人でした。 二、 急いで、部屋に帰った私は、三人に向って、抗議をし、『一体何ごとですか。あなた方は山根所長の許可をもらっているんですか。』と言ってやりました。 三、 すると、キャップらしい45才位の男が、一枚の紙きれを高々と示して、「裁判所から捜索令状がでています。」と偉そうに言い放ったのです。  あとから判ったんですが、この人は、中村(中村真一、査察第三部門総括主査)という名前で、一見紳士風の男でした。 四、 この人達は、部屋の中をひっかきまわし、私に対して矢つぎ早に質問を浴びせてきたんですが、私には何のことやらよく分かりませんでした。 五、 途中、何人かの男が部屋をのぞいては帰っていきました。キャップだったんでしょうか、ヤクザと間違わんばかりの男が、私の顔をのぞきこむようにして、顔を近づけてきたときは、ホントにゾットしましたね。警察でもヤクザ関係をやると顔が悪くなるといいますが、マルサをやっているとあんな顔になるものかと妙に納得しちゃったりして。 六、 昼の12時すぎ、「昼食を食べて下さい。どうぞ食べて下さい。」などとしきりに言われたんですが、こんな引っかき回されているところで、しかもヤクザまがいの連中が眼を皿のようにして見張っているところで、昼食をとる気など起るはずがありません。だって、そうじゃないですか。お腹もすかなかったし、結局食べませんでした。 七、 私が山根所長の秘書の役割をしていたからでしょうか、私の自宅まで捜索されました。  私が重要なものでも託されて、隠しもっているとでも考えたんでしょうね。タンスの中の下着やら何やらひっくり返して、あさっていました。  めぼしいものがなかったようで、一寸拍子抜けしたようでした。アッタリ前田のクラッカー、なんていうと年がバレちゃうか。 八、 私の自宅から押収されたものは、次の5点で、中村真一は、現物と引きかえに、「差押目録謄本」を置いて帰りました、――  1.パスポート 一冊  2.手帳(1991) 一冊  3.手帳(1992) 一冊  4.手帳(1993) 一冊  5.アドレス帳 一冊 九、 私、中村に対して、何でこんなもの押収するんですかと噛みついたんですが、ヤカマシーとばかりに持っていきました。今でも、何でパスポートなんか押収していったのか、理由が判りません。私が海外に逃亡するとでも思ったんでしょうかね、きっと。 一〇、 翌日、事務所で、再び取調べが行われ、中村は、なんかゴチャゴチャと書いた質問顛末書を私に読みきかせて、サインをするように求めてきました。 一一、そのとき、私、中村真一にキッパリと言ってやりました、―― 「私は、よく分からないながらも、正直に自分の経験したことをお話しました。しかし、今の文章は、ニュアンスがかなり違うもので、山根所長に対する悪意に満ちています。  私は山根所長を全面的に信頼しており、多くの顧問先の方々も同じです。  所長を犯罪者にしようとしているあなた方の作文に同意はできませんので、サインはお断りします。」 一二、中村真一はなんとかして私に署名させようとしましたが、私は断り続けたんです。  ですから、私の質問顛末書の正式なものは一通もないはずです。 一三、マルサは、昼の12時半ごろに、部屋を引き上げていきました。  塩をまいてやりたいと思ったんですが、あいにく手許に塩がありませんでしたので、マルサの後姿に向って、思いっきり舌を出して、アッカンベーをしてやりました。清めのアッカンベー、なーんちゃったりして。 (2)銀行マンは語る  第一勧業銀行柏支店 E.S氏の話 一、 当時の支店長、副支店長、みんな替わっちゃいまして、当時のなりゆきを知っているのは私だけだということで、指名で呼び出しがかかったんです。 二、 松江の支店に査察が入りますね。すぐ、副支店長が本部に連絡を入れた。今日、査察が入りましたと。本部の方で、協議がありましてね、当時の事情を説明させるために、E.Sを行かせろ、というふうになったんですね。私は柏の支店長の管轄ですから、松江の支店長が勝手に呼び寄せることはできないんです。人事部直轄なんですね。査察が入ったその日に、もう行け、ということでした。 三、 出雲便の最終の飛行機で行きました。松江支店に着いたのは7時頃で、それから真夜中の2時頃までですか、延々と取調べが続きました。向こうとすれば、これだけの金が動いたんだから、鮮明に覚えているはすだ、と言うんですけれどね。私、そうは言われても3、4年前のことなんて覚えてないんですよね。私も気がちっちゃい男のもんですからね、3人位ですごい声なんですよ。テレビでやっている警察の取調べそのままでした。3人に取り囲まれて、脅されるわ、すかされるわで、本当に参ってしまいました。   四、 私、その時言ったんですよ。「別に変なことしてませんよ。ましてや、山根先生は、公認会計士ですよ」そう言いましたらね、逆にまた、とことん怒られましてね。いやー、すごい剣幕でしたね。ただ、手は触れませんよね。言葉がすごかったんです。「おまえの一言で、明日銀行のシャッターを開けさせないことだって、できるんだ。」彼らは、シャッターを閉める権限がありますからね。「嘘なんか言ったら、おまえのところの常務だろうが、専務だろうが呼びつける。そうなってもいいんか。」こう言うんですね。脅かしですよ。ゾーッとしましたね。 五、 向こうは、煙草パクパク吸うわ、お茶はガブガブ飲むわ、こっちはなーんもないですからね。水一杯飲ませてくれませんでした。これが、査察の取調べなんだと思いましたね。  山根先生が極悪人で、私は共犯なんですね。頭から決め付けてるんです。メチャクチャですよ。「これだけのお金を動かすなんて、山根一人じゃ、絶対できないことだ。おまえも関与している。」こう言うんですよ。「おまえがいなけりゃあ、こんなお金、右から左へ動かせるわけがない。」と、こうなんですね。 六、 夜中の10時か、11時頃でしたでしょうか、彼らは電話のやりとりをしていました。「最後のキーポイントは、こいつだ。」なんて、私の目の前でやっているんですよ。『こいつ』呼ばわりです。「こいつを落としゃあ、いいんだ。」と、私の目の前で言っているんですね。「ここじゃあなんだから、え?税務署まで行くか。」なんて言われましてね。完全な脅迫ですよ。  私はなんにも悪いことしていないんだから、知らねえや、と思ってね、12時過ぎた頃から、完全に開き直っていました。 七、 山根とつるんで悪いことをしたに違いない、この考えで凝り固まっているんですね。向こうは、山根から何か物をもらったんだろう、と言いますからね、私、「もらいましたよ。転勤するとき、餞別もらいました。」そう言いますとね、向こうがまた、「コノヤロー、馬鹿にするな。」と怒るんですよ。その怒り方がすごかったですよ。 八、 取調べが終ったのが夜中の2時。ホテルには3時頃入りましたが、眠れないんですよ。次の朝、7時頃ホテルを出て、8時にはもう、向こうは来ていましたね。 九、 一時間位たった頃でしょうか。「君、帰りは何時頃だ。」なんて、急に言葉が違うんですよ。おかしいな、と思いましたね。「山根の件に関しては、君は関与していないんだな。」関与もなにも、と言いたいんですけど、とたんに態度が変わって、お茶は出してくれるわ、コーヒーは出してくれるわ、私、査察は噂には聞いていましたが、経験するのは初めてでした。大変なことをする連中ですね。 一〇、その後、体調を崩したこともあって、5キロぐらい痩せましたよ。 (3)証券マンは語る  コスモ証券 Y.H氏の話 一、 その日、私は鳥取に行っていました。飛行場で、お客さんがおいでになるのを迎えに行っていたんです。その後、鳥取の中堅企業を10社ほど回る予定でした。 二、 ところが、飛行場で呼び出しがかかりまして、すぐ松江に戻って来い、と言うんですね。私が担当しているお客のことで、査察が入った。Y.Hじゃないといけないから、すぐ呼び戻せと国税が言っているので、すぐ帰ってきてくれ、というのですね。グズグズ言うと、店のシャッターを閉めると言って脅しているというのですから、仕方ありませんでした。鳥取から汽車に乗って、松江に帰ったのは1時頃でした。 三、 それから、夜の7時頃まで、6時間ぶっ通しで尋問されたんです。向こうは魔法瓶かなんか持ってきていて、お茶を飲んだり、コーヒーを飲んだりしているんですが、私にはお茶なんか飲ませてくれません。6時間も水一杯飲ませてくれませんでした。6時間、缶詰状態でしたね。あんなに厳しくやられたのは、生まれて初めてです。 四、 「おまえも共犯じゃないか。山根と一緒に株で相乗りしているんじゃあないか。」というようなことを言うんですね。「この1億か2億の山根の玉(ぎょく)の中に、おまえのお金も入れて、チャンポンで資金運用をしているんじゃないのか。」と言うんですね。あるいはまた、「山根に女でも抱かせられたり、500万円か1千万円位の謝礼金でももらって、裏金の管理をしているんじゃないのか。」と言うんですよ。  まったく、やくざに絡まれて脅し上げられているような感じでした。一人は、わりかた静かな男だったんですが、『黒目』(黒目啓治、査察第一部門査察官)というやつが、広島弁でやくざみたいな男でした。 五、 山根先生は、もちろん呼び捨てで、私のことも『おまえ』呼ばわりですから。定年間近の私が、30才前後の若造に、『おまえ』呼ばわりされるなんて、本当に情けなくなりましたよ。 「おまえ、なんで、山根の悪いことを知っとって言わないんだ。なんで山根の肩をもつんだ。おまえもあちこちの支店長を経験しておるが、なかなか手強い奴だなあ。」こんなことまで言うんですね。 六、 次の日も、尋問が続きました。「昨日はゲロせんかったけども、今日こそ、本当のことを言ってもらおうか。おまえはお客寄りで、我々に全く協力しない。山根が隠しているようなこと、偽名とか仮名の取引口座があるんだろう。早く言ってしまえ。」と、前日と同じようなことをしつこく言うんですね。  我々証券会社は、銀行と同じように、大蔵省の管轄にあるものですから、査察としては好き勝手なことができると思っているんですね。私は、長い株屋生活の中でも、このような査察は初めての経験でしたので、改めて、とんでもない連中だと思いましたね。 (4)配偶者は語る  配偶者 山根澄子の話 一、 朝8時半に、大勢で押しかけてきて、家の中をひっくり返すようにして、いろんなものを持っていきました。  女性が一人まじっており、総勢で7人位でした。 二、 主人は朝、風呂に入ることにしており、その日もマルサを待たせて、風呂に入りました。  マルサの人と主人が自宅を出ていった後、一人が風呂を念入りにチェックしていました。何か隠したとでも思ったのでしょうね。 三、 床下をのぞいたり、天井裏をのぞいたり、数百冊ある本のページを一枚一枚めくったり、タンスやクローゼットの中をかきまわしたりと、それこそ洗いざらい調べては、押収していきました。 四、 40近くある陶器の壷や皿は、一つ一つ写真に撮っていました。主人が大切にしている観音様の入った厨子の扉を勝手に開けて、何枚も写真を撮っていました。バチが当らなければいいんですがね。 五、 クローゼットを調べていた一人から、 『奥さん、上のほうにホコリがたまっていますよ。たまに掃除したらどうですか。』と言われたときは、さすがにムッときましたね。  勝手にひっかきまわしておいて、余計なお世話だと思いましたよ。 六、 夕方までには皆んな引きあげていきましたが、家の中を突然、台風か竜巻が通り過ぎたような感じでした。 四.マルサ取調べ言行録 (1)大木洋 (ア)経歴  広島国税局調査査察部第三部門統括国税査察官。  マルサの現場の統括指令官。偽りの事実を捏造して、私と多くの関係者から多額の税金を追徴し、破産の淵に追い込み、犯罪人の汚名を着せるべく架空のシナリオを創作した中心人物。  昭和18年生まれ。ガサ入れ当時、私より一つ年下の四十九才であった。  中学校(松江市立第四中学校)、高校(島根県立松江高等学校)を松江市で過ごすも、松江出身ではない。同級生によれば、出雲弁ではなく、言葉が違っていたという。旧姓、梅木。   昭和37年3月、松江高校普通課程卒業。高校卒業と同時に広島国税局に就職。広島大学の第二部で勉強し、卒業。  高校時代の友人評。まじめでおとなしい。でしゃばらず、控えめで、コツコツ努力するタイプ。中学時代、バレー部所属。全体に無口の印象。  これらは大木の高校時代の同級生10人余りからの聞き取り調査によるものだ。評価として決して悪いものではない。  広島市安芸区にある大木の自宅は、小さな家庭菜園のあるつつましいものである(平成5年当時)。  以上から導き出される大木洋の人物像は、国税局に入ってから大学の夜学で苦学し、過失のないように定年まで実直に勤め上げようとする、ごくありふれたノンキャリアの公務員のイメージである。  10年前、初めて会った大木洋の印象は、このようなイメージとほど遠いものであった。何が大木を変えたのであろうか。  その後、大木は、順調に出世の道を歩み、ノンキャリアのポストとしては最高位の一つである広島国税局調査査察部長にまで登りつめ、一年ほど部長を勤めた後退官し、平成14年、税理士登録。現在は広島市で税理士事務所をかまえている。 (イ)証拠の隠匿 一、 佐原良夫が、広島国税局に嘘の密告をする3年前のことである。  平成2年9月6日、佐原は、私とのトラブルの後、一人で益田市の組合に乗り込み、私を交えずに、組合の人達と本音で話し合った事実がある。  佐原と組合との間の不動産取引(マルサが架空取引であるときめつけたものである)は、真実の売買であることが前提となっている話し合いだ。佐原は、この時点では、国税局に嘘の密告をすることなど考えていなかったので、本当のことをそのまま話しているのである。 二、 このときの状況について、私は組合の人達から詳しく聞いており、仮にこの事実を証明することができれば、私と組合の無実を完全に立証することができるものであった。 三、 しかし、私達の側には、物的な証拠がなかった。当時、組合の人達は、佐原が後日、事実に反する密告をして、組合と私とを窮地に陥れることなど、夢にも考えていなかったので、記録に残すことなど考えていなかった。 四、 ところが、物的証拠がでてきた。  それは、マルサのガサ入れの際、千葉の佐原の自宅から押収された録音テープとテープ起しの反訳文とであった。佐原良夫が当時ひそかに録音しテープ起しをしていたのである。 五、 このような証拠物をマルサが保管しているのを私が知ったのは、藤原孝行との話し合いの中からであった。  当初、藤原孝行はこれを私に見せ、ダビングしたりコピーしたりさせることを約束してくれた。真実の解明のためには、お互いに協力し合うことで、一致していたからだ。 六、 しかし、マルサの態度は急変することになった。見せることはできないというのである。 七、 平成6年1月17日(土)、午後1時20分から同50分までの30分間、私は広島にいる大木洋に架電し、この証拠物の開示を要求した。 八、 大木との電話によるやり取りを再現する、―― 山根「藤原さんから聞いたのですが、佐原のところから押収されたものの中に、私の無実を証明するものがあるようなんです。是非、私に見せて下さいませんか。」 大木「ほう。それは何ですか。」 ――大木、とぼけている。 山根「平成2年9月6日、佐原が組合の人達と話し合ったときの録音テープと反訳文です。」 大木「ほう。そがなもん、あったんじゃろうか。」 ――大木、とぼけ通そうとしている。 山根「私は、この間藤原さんから直接聞いていますし、藤原さんは、私にこころよく見せると言っていますよ。お互いに真実を解明しようということで、調査を進めているわけですから。」 大木「藤原がどう言うたんか分かりませんが、そがなものアンタに出せるわけないでしょうが。」 山根「では、藤原さんは、私に見せるつもりもないのに、見せると言って嘘をついたんですか。」 大木「ひょっとしたらそこはね、判断間違ったから、そういうふうに申し上げたんかも知れませんよ。」 山根「どうしても駄目ですか。」 大木「はい。アンタに見せる必要もないし、貸す必要もない。これは、我々が犯則調査の段階で得た証拠ですから、それを犯則嫌疑者の方へやね、何も示さなければならないというのはないんであってじゃね。」 山根「一緒になって真実の解明をしていくというのなら、私に協力してくれてもいいじゃないですか。」 大木「いやいや、協力言うてもね、犯則調査の手続の上から協力できる限界があるんですよ。  そがあなもの、出せるわけがないでしょうが。」 山根「あなた方に都合の悪い証拠は隠してしまうということですか。」 大木「そがあなことはないですよ。」 山根「フン。あなたもよく言ってくれますね。」 九、 この段階で、大木洋をキャップとするマルサは、架空取引ではないことの確証を握っていたことになる。この2年後になされた検察への告発は、虚偽のものであり、しかも故意に捏造したものであることを如実に示すものだ。 一〇、ちなみに、この録音テープの反訳文は、後日公判廷に検察側の証拠として提出されている。  しかし、重要部分がスッポリと抜けており、いずれかの段階で手が加えられ、改竄されたことが明らかなものであった。 (ウ)民事裁判の判決 一、 私は、平成5年9月28日のガサ入れの初日に、マルサによって架空と決めつけられた不動産取引に関係のある民事裁判の判決が、直前の同年9月20日に、松江地裁から出されている事実を、大木洋に告げ、判決は、この取引が真実有効に成立していることを明確に認定していることを申し向けた。 二、 マルサの脱税嫌疑を真正面から否定するこの判決について、大木洋は、一瞬動揺しながらも、次のように言い放ったものである、―― 「刑事事件は、民事裁判の判決には拘束されるものではない。そんなもの一切関係ない。」   三、 平成6年1月18日、私は、民事裁判についての大木洋の言い分を記録として残すために、広島の大木洋に架電し、改めて問い質した、―― 山根「私が嫌疑を受けていることに関連して、民事裁判が今3つ進行中なんですね。3つ、これご存知ですね。その内の2つは、すでに判決が出ています。一つのものは、あなたが昨年の9月28日、松江においでになったときに、私お話申し上げて、9月20日に判決がでましたよとお話し、判決文のコピーを差し上げましたね。」 大木「賃貸料の請求の件ですね。」 山根「そうです。それが2週間の控訴期限が過ぎても、佐原が控訴しなかったために、判決が確定しました。  もう一つの株主権の関係の訴訟については、昨年の11月29日に、千葉地裁の判決が出ました。もう2週間以上たっていますが、佐原が控訴していないようですので、おそらく、今の時点で、判決が確定しているはずです。」 大木「ほう。なーるほど。」 山根「2つの判決とも、佐原の言っていることは全く信用ができないといって全面的に退け、取引は真実有効に成立していると認定しています。あなた方は、佐原の言うことを真に受けて、私達に脱税の嫌疑をかけているわけですね。  この2つの民事判決について、あなたはどう考えているんですか。あくまで、脱税の調査に民事裁判の判決は関係ないとおっしゃるんですか。」 大木「ええ、関係ないですね、全く。」 山根「全く?」 大木「関係ありません。民事の場合、既判力は当事者にしか及ばないんですから。我々の調査に影響を与えるものではありません。」 山根「民事法廷で佐原が、あることないことを思いつくままにしゃべっているんですが、あなた方の調査の参考になりませんか。」 大木「私達の調査には、全く関係ないし、参考にしませんね。」 山根「全く参考にしない?」 大木「そうです。と言うのはね、民事の場合、当事者は何を言ってもいいですから。法廷で嘘を言っても構わないわけです。なんせ、偽証罪というのはないんですから。」 四、 以上は、平成6年1月28日に録音したテープを忠実に再現したものである。  民事裁判でも、当時者同士のいわば、慣れ合いの裁判ならばともかく、この2つの判決は、当時者が敵対的関係にある裁判の判決である。  しかも、相手方の佐原良夫は、自らの責任をなんとか逃れようとして、民事法廷で嘘に嘘を重ね、その挙句、もともとの契約が架空のものだと言い張ったことを、正面から否定する内容の判決である。脱税の認定には全く関係のないものであり参考にする必要はないと、一蹴していいはずがない。 五、 前項で述べたように、脱税とはなりえない決定的な証拠をつかんでいながら、握りつぶした事実に加え、民事の判決とはいえ、極めて重要な証拠を全く無視した大木洋は、自ら確信犯として、捏造脱税事件の告発へと突き進んでいった。 (エ)余罪の追及 一、 平成5年9月29日、私が余罪の追及などするなと抗議したのに対して、大木洋は国犯法の調査に際して、脱税以外の余罪を追及するのは当然であると居直った。 二、 私は、大木の言動を記録に残しておくために、平成6年1月17日に広島の大木洋に架電し、余罪の追及について改めて大木に質した。午後1時20分から30分間、2人で話し合った軌跡は録音テープに残され、15ページの反訳文となって、私の記録簿にファイルされている。  ここに忠実に再現することとする。―― 三、 山根「大木さんが、去年の9月29日だったと思うんですが、私に教えて下さったことがありましたね。」 大木「なんじゃろうか。」 山根「おたくの三瀧(査察部第四部門統括国税査察官)さんが、組合長の岡島さんを尋問した際に、背任罪になるんじゃないかと言って、余罪の追及をされたことがございましたね。」 大木「そうじゃったかいの。」 山根「はい。私は、国犯法の調査の場で、背任とか横領とか言って余罪を追及するのは、おかしいんじゃないか、と言ってあなたに抗議しましたね。」 大木「あー、思い出した。」 山根「そのとき、私の抗議に対してあなたは、余罪を追及することは当然のことであって、むしろ公務員たるもの、余罪のおそれがある場合には積極的に追求しなければいけないと、おっしゃった。覚えていますか。」 大木「ええ、覚えていますよ。当然のことじゃからね。」 山根「犯則嫌疑者に、背任とか横領のような余罪があったら、自分たちは追及して、しかるべき手続をしたうえで、検察庁に告発する義務があるんだ。これは法律で定められていることで、これをきちんとしておかないと、検察庁に送った場合に、あとで検事さんに叱られるんだ、とおっしゃいましたね。」 大木「ええ、言いましたよ。それで?」 山根「私、どうしても納得がいかないものですから、その根拠を教えて下さいませんか。」 大木「一寸、待って下さいよ。今、六法を持ってくるからね。」 ――大木、六法全書をとりに席を立った様子。 大木「うん。これだ。刑事訴訟法の239条にキチンと書いてあります。」 山根「え?何ですって?」 大木「刑事訴訟法第239条。」 山根「どう書いてあるんですか。」 大木「まず1項でね、何人でも犯罪があると思料するときは、告発することができる、とあります。ですからね、一般国民は告発することができるんですね。」 山根「なるほど。」 大木「次に2項はね、官吏または公吏、官吏とは国家公務員のことで、公吏とは地方公務員のことですね。  官吏または公吏は、その職務を行うことにより犯罪があると思料するときは、告発をしなければならない、となっています。」 山根「ほう、そうなんですか。」 大木「はい。公務員の場合は告発をしなければならない、つまり告発義務が課されているんです。」 山根「ああ、そういうことですか。だからあなた方は今、脱税ということで強制調査をなさっているけども、ほかの犯罪、たとえば背任だとか横領のようなことが調査の過程で分かった段階では、追及しなきゃいけないと。」 大木「その通りです。」 山根「余罪を追及して、必ずそれも告発されるんですね。」 大木「いやいや、そういう訳ではありません。刑事訴訟法ではそういうふうになっているけれども、告発するかどうかは、こっちの問題でもあるし、また検察との話し合いの中でいろいろとあるんです。」 山根「なんですって?告発するかどうか分からないんですか。あなたはさっき、公務員の場合は、告発しなければいけないとおっしゃったじゃないですか。」 大木「できない、いいや、じゃけど、罰則規定がないんじゃもん。」 ――大木、シドロモドロとなった。 山根「告発しなければいけないけれども、しなくてもいい訳ですか。」 大木「うん、それはしなくてもよい。ただ、そういったことがね、ただ、そういったことが。」 ――大木、訳の分からないことを口走る。 山根「罰則規定がないから、告発しなくてもいいということですか。」 大木「いやいや、そういうことじゃないんだけども、今んとこ罰則規定がないんで、そういうことになれば、一応義務だけど。」 ――大木、何を言っているのか意味不明。 山根「私、頭が悪いんで、あなたのおっしゃっていることがよく分からないんですが。」 大木「・・・・。どう言ったらいいのか。  私ら、検察に説明に行くんですが、その際、脱税の他に、こういう事実(犯罪)もありますという話をするわけなんです。  これをキチッとしとかないと、あんたら、こんなこと知っとって何故言わなかったんだと言って、検察官に怒られるんですよ。」 山根「なるほど、そういうことだったんですか。ついでにお聞きしておきたいんですが、強制調査をされる場合に、あなた方は嫌疑がかかっている人だけじゃなくて、たとえば、取引銀行だとか証券会社とかも調査されますね。」 大木「反面調査のことですか。」 山根「そうです。その反面調査の際に、それらの会社の中で、たとえば、横領だとか使い込みなどの事実が判明したときも、あなた方は、追及して告発する訳なんですか。」 大木「はい。同じことですね。職務上でね、そういった犯罪の事実を知ったときにはじゃね、本当は告発せないけんのじゃけども。」 四、 10年前に、私が大木と電話でやりとりした記録を改めてトレースしてみて、何回か思わず吹き出しそうになった。  私は、余罪の追及は国犯法の調査権の範囲を逸脱しており、違法であることを確認した上で、記録に残すことを目的として敢えて大木に電話をし、彼の本音を引き出そうとしたところ、私が当初想定していた以上の本音を詳しく語ってくれたのである。なかなか正直な人物である。 五、 余罪の追及は当然であるとする大木洋の独自の見解については、私の論評は差し控え、我が国税法学の第一人者とされている北野弘久日本大学名誉教授の名著の一節を引用するにとどめる、―― 「国犯法上の調査権は、租税犯の疑いが存在する場合において、その証ひょうを発見・収集するためにのみ行使しうるものにすぎない。この調査権のあり方は、この調査権自体の目的・性格によって厳格に規制されるのである。  もし、税務当局が右の目的・性格をこえてこの調査権を行使したことが明らかな場合には、それだけで当該調査権の行使は違法となる。」 「税法学原論 第5版」(青林書院刊)P409〜P410。 (2)松田憲磨   一、 広島国税局調査査察部統括国税査察官  査察部門に移る前まで、課税第二部(法人)資料調査課(俗にいう料調、ミニマルサともいう)課長。大木洋と並んで、マルサ捏造事件の中心人物。  ガサ入れ時の組合関連の捜査責任者。大木洋と共に架空のシナリオを創作し、検察庁への告発書類を、査察管理課長として決裁した人物。広島国税局査察調査部次長、福山税務署長を歴任した後退官し、平成12年、税理士登録。現在は下関市で税理士事務所をかまえている。 二、 平成5年9月28日、組合の増田博文氏他を尋問。 三、 松田は、悪質な脱税であると決めつけた上で、次のように言い放った、―― 「素直に白状して、4億ほどの税金を直ちに支払うようにすれば、今なら許してやる。  このまま、脱税ではないと言い張ると、マルサが出動した以上、必ず告発することになるし、しかも告発すれば、100%有罪だ。  山根会計士の言うことを信じていたら、大変なことになる。犯罪人になった上に、孫子の代まで破産状態が続くだろう。」 四、 平成5年10月27日、午後1時から2時50分にかけて、松江市の山根ビル一階の島根総合研究所サロンにおいて、組合の人達6人と今後の対応策について話し合った時に、複数の組合員から明らかにされた事実である。まさに脅迫である。脅しあげて、嘘の自白を引き出そうとした松田憲磨について語るとき、組合員達は、そのときの状況を思い出したのであろう、恐怖に顔がひきつっていた。  一人の組合員の奥さんは、松田憲磨の恐喝に仰天し、文字通り腰が抜けてしまったという。 五、 平成8年3月6日、松田は、査察管理課長として、検察庁への告発書類の決裁を行っている。 (3)藤原孝行 (ア)経歴  広島国税局調査査察部第三部門査察官。  大木洋の部下。大木の指示のもと、私の取調べを担当。収税官吏として、平成8年3月6日検察庁への告発書類を作成した人物。島根県日原町青原の出身。旧姓青田。昭和28年生。  藤原孝行が、ガサ入れ当時所持していた身分証明書等。  1.身分証明書(平成2年7月19日交付) 第6297号写真付(割印あり)  2.国税査察官証票(平成2年7月19日交付) 第769号写真付(割印あり)  3.収税官吏章(平成2年7月19日交付) 第1122号 写真なし  1.2.3.共に広島国税局長発行のもので、3つ共に藤原の官職は大蔵事務官となっている。   (イ)押収品 一、 平成5年9月28日、捜索令状を手にした藤原孝行らは、私達のところから、おびただしい量の物を、証拠品と称して押収していった。   二、 押収された翌日、私は、税務署に出頭する前に、事務所に立ち寄り、押収品の状況をチェックした。  営業を続けていくうえで、直ちに必要となるものを拾い出し、藤原孝行に対して返還要求することにした。 三、 主なものは次のとおりであった、――  1.業務日誌  2.会計伝票、会計帳簿、現預金出納帳、資金繰り表及び資産負債一覧日報等。  3.過年度決算書申告書控  4.電話番号控(自宅分を含めて8つ)  5.顧客台帳  6.社会保険関連書類綴り 四、 以上について、私は現物の返還を要求し、必要なら、コピーをとって保管するように申し入れた。  しかし、藤原は現物の保管が原則だといい、現物の返還には応じず、私の方にコピーを寄こしたのである。  二、三日かかったのであろうか、1000枚はゆうに超える量のコピーを、新本修司が事務所まで持ってきた。ドサッという感じである。  それぞれ全てが、常日頃使い慣れているものであって、現物ではなくコピーとなると、はなはだ使い勝手が悪くなった。  とくに電話番号控については、コピーではどうしても使いにくいので、改めて現物の返還を要求してみた。  しかし、藤原は頑として応じなかった。何故現物の返還ができないのかと食い下がってみたが、藤原は、犯則嫌疑者に理由など言う必要はないと、ケンもホロロに言い放った。 五、 藤原孝行らが、押収していったものの中に、何故こんなものまで押収するのか、首を傾げたくなるものが含まれていた。  例えば、  1.合鍵の束、4つ。  2.パスポート、2通。一つは職員大原輝子氏のものであり、今一つは、古賀益美氏のものであった。  3.未使用の名刺50数枚。男性職員Oのもの。  4.宝石鑑定書、3通。  上記、1.〜3.は、何回も返還を要求した末に、4ヶ月後にやっと返還された。返還を求めた際に藤原孝行は、返還理由をしつこく私に問い質した。  もともと、合鍵の束とか、パスポートとか、未使用の名刺など、押収すること自体間違っている。こちらが返還理由など説明する必要のないものだ。  本来なら、一言謝ってから返還すべきであるのに、藤原は、「まあ、理由はいいや」とか言いながら、しぶしぶながら返還したものである。  3通の宝石鑑定書の他、多くの押収品は、裁判が終結してもなかなか返還されなかった。  執筆するうえで必要な資料が押収品の中にあったので、マルサから押収品の引き継ぎを受けた松江地方検察庁に対して押収品の一部返還を要求することにした。  平成15年12月19日午後4時、松江地検のA事務官から返還の用意が整ったので、松江地検まで取りにくるように連絡が入った。  私は、電話口にA事務官を呼び出し、厳しく叱責した。 「取りに来いとは何ごとであるか。ふざけるんじゃない。バカヤロー。こちらが頼みもしないのに、君達が勝手に持っていったんじゃないか。お詫びの一言でも言って、こちらに持ってくるのが筋だ。つべこべ言わずに早く持って来なさい。」  一時間半後の同日5時35分に、松江地方検察庁のS、FびAの3名の事務官が緊張のあまり引きつったような顔をして、山根会計事務所に押収品の返還のために訪れた。 (ウ)悪魔の証明―鍵束の押収 一、 平成6年2月8日、現物返還を強く要求していた鍵の束4つが返還された。藤原孝行が新本修司と共に私の事務所に持ってきたのである。 二、 私は、マルサが鍵を押収し、四ヶ月も保管し返還しなかったことに強い疑問を抱いていた。まず、私は藤原に対して、何故鍵の束を4つも押収したのか、その理由を問い質した。 三、 押収の理由に関して次のような答えが返ってきた、―― 藤原「押収理由など犯則嫌疑者に言う必要はありません。」 山根「何てこと言うんだ。私は、何故鍵の束を4つも現場から持ち去ったのか聞いているんです。」 藤原「捜索許可状がありますので、私らが必要だと判断したら押収してもいいことになっています。」 山根「それなら、収税官吏が必要だと判断したら、何でもかんでも持っていっていいわけですか。」 藤原「そういう言い方をされれば、そうかもしれません。」 山根「要するに、令状があれば何でも持っていっていいし、後から抗議があって、持っていった理由を尋ねられても、そんなものに答える義務はないということですね。」 藤原「そうです。」 ――藤原、消え入りそうな声で元気がない。 山根「この鍵束の一つは、山根ビルの合鍵で、10ヶ以上たばねてあります。押収目録には、単に鍵一束とあるだけで、一個一個特定されていませんね。」 藤原「ああ。」 山根「押収していった鍵を本当に全部返してくれたんですか。」 藤原「それは我々を信用してもらうしかありません。」 山根「仮に全部揃っているとしても、あなた方は、まさか鍵の複製品をつくっているんじゃないでしょうね。」 藤原「そんなことをするはずがありません。」 山根「それをあなた、どうして証明しますか。」 藤原「・・・・。私達を信用してもらうしかありません。」 山根「私達に、ヌレギヌを着せて、数々のひどいことを重ねてきた君達を、どうして信用できるんですか。」 藤原「・・・・。」 山根「山根ビルには、山根会計事務所の他に、弁護士、司法書士、不動産鑑定士の事務所が入っています。みんな、他人の秘密を扱う仕事ですので、秘密の保持にはことのほか気をつかっているんです。  あなた方が持っていった合鍵の束の一つは、山根ビルの入口とそれぞれの事務所の入口の鍵でした。」 藤原「・・・。」 山根「4ヶ月もそれぞれの入口の合鍵を持っていたわけで、あなた方は、山根会計事務所だけでなく、弁護士事務所とか、他人の秘密がギッシリつまっているその他の部屋に自由に出入りできたわけですね。」 藤原「・・・。そういわれても。・・・。」 山根「マルサは100人以上も動員できるわけですから、そのうちの誰かが夜陰に乗じてこっそりと・・・。」 藤原「そんなことする訳がないでしょうが。我々を信用してもらうしかない。」 ――藤原、急に大声を張りあげる。 山根「さっきから、信用できないと言っているでしょうが。警察官が人を殺すことがあるくらいだから、マルサがドロボーをしたとしてもおかしくないね。」 四、 この日の私と藤原とのやりとりは、午後1時25分から3時25分までの2時間にわたるものであり、録音テープの反訳文は、B4版で65ページにも及ぶものだ。  今、読みかえしてみると、我ながら随分意地悪なことを言ったものである。  私としては当初、藤原が答えに窮する議論をふきかけるつもりはなかった。  藤原は、鍵束を返還するとき、ただ一言、「当方の手違いでした。返還が遅れて申し訳ない。」と言えば済むことであった。  ガサ入れの混雑にまぎれて、押収する必要のないものまで押収することはあるであろう。そのことは必ずしも非難すべきこととは言えないし、嫌疑者としては受忍義務の範囲内であると考えるべきものだ。 五、 しかし、ガサ入れからすでに4ヶ月も経っている。押収物が、国犯法に規定されている強制調査に必要なものであるかどうかの見きわめはついているはずである。  必要がなければ返還すればいいし、また返還しなければいけないものだ。国犯法第7条4項に「収税官吏差押物又ハ領置物件ニ付留置ノ必要ナシト認ムルトキハ之ヲ還付スベシ。」と規定されており、当然のことである。 六、 しかも、押収物が合鍵の束である。どう考えても、押収し、しかも、4ヶ月も留置しなければならない理由など見つかるはずがない。  藤原孝行が言うように、令状があるからといって何でも持っていっていいものではないし、収税官吏の勝手な裁量にゆだねられているものでもない。 七、 北野弘久博士は、国犯法にもとづく差し押えについて、次のように指摘されている。 『犯則嫌疑事件の事実を証明するに足る物件と客観的に認められるもの(端的に言えば、事件と関連性があると認められるもの)のみを差押えすることができる。  犯則嫌疑事件の事実を証明するに足る物件と客観的に認められないもの(端的に言えば、事件と関連性がないと認められるもの)を差押えすること は違法である。』(前掲書、415ページ)  更に、 『差押えにあたっては、収税官吏という専門家として通例つくすべき注意力と知見に基づいて右の積極的な意味での関連性のある物件のみを差押えすべきであって、訓練された税務経理の専門家(収税官吏はそのようなレベルの専門家であることを法は当然に前提にしているものと解される)であれば、通例、帳簿書類の差押現場において、さして困難なく関連性の有無の認定を行うことができる。  そのようなレベルの認定に基づいて差押えを行った場合において、後日、たまたま例外的に関連性がないと認められる部分がでてきたとしても、それほど法的非難をするに及ばないといってよい(そのことが判明した時点で早急に差押物件を返還すべきである。判明後、相当期間を経過した後においてもなお返還がないときは、当該部分の差押えはその段階で違法となろう)。  しかし、はじめから専門家としてつくすべき注意力と知見に基づかないで、いわば安易に包括的な差押えを行うことは違法である。』(前掲書、417ページ) と論じられ、収税官吏の恣意的な差押えは違法であると明快に論及されている。 八、 もっとも、鍵の束の押収は、北野博士が指摘されている違法な差し押え以前の問題であろう。  はじめから押収などすべきものではないのではないか。  しかし、押収したものは仕方がない。誰でも手違いはあるものだ。一言、謝って返還すればいいのである。  藤原はそれをしなかった。鍵の束を4つも押収したのは当然のことであると居直り、押収した理由についても犯則嫌疑者に言う必要などないといって突っぱねた。  これらは全て、大木洋のさしがねであろう。藤原はことあるごとに、大木に伺いをたてていたからである。  マルサが無謬性にこだわり通した典型的な事例である。 九、 私が藤原孝行に、いわば言いがかりをつけ、意地悪をしたのは、以上のような背景があったからだ。鍵をコピーしなかったことの証明とか、押収した合鍵で部屋に侵入しなかったことの証明は、もともとできないのである。  何かをしたことの証明は可能であるが、何かをしなかったことの証明は不可能である  後者の不可能な証明のことを、俗に悪魔の証明という。 一〇、私が藤原に対して、いわば悪魔の証明を迫ったのは、藤原が自らの無謬性を主張し、居直ったことに加え、大木洋をキャップとするマルサが、私に対してまさに悪魔の証明を迫っていたからである。悪魔の証明については後に詳述する。 (エ)国税査察官証票 一、 藤原孝行が、平成5年9月28日の朝、私の自宅に捜索令状を手にしてやってきたとき、名刺入れをひと回りおおきくした黒革の手帳を私の眼の前につき出した。  水戸黄門の印籠ならぬマルサ手帳(国税査察官手帳)である。藤原は、どうだこれが眼に入らぬかとばかりに胸を張り、誇らしそうに呈示した。チラッと見せただけで、すぐにポケットにしまいこんだ。 二、 その後、藤原孝行が、自分から私に呈示することは二度となかった。 三、 平成6年2月8日、藤原孝行と新本修司の二人が、私の事務所にやってきたとき、私は、二人の身分証等を改めて確認し、記録に残しておこうと考えた。  捜索令状を書き写し、質問顛末書を書き写したのであるから、マルサ手帳を書き写さなければ、いわば画竜点睛を欠くというものだ。 四、 私は、藤原孝行に次のように申し向けた、―― 山根「この間は、名刺はいただいたんですが、身分証明書見せていただいてないので、見せて下さい。」 五、 この申し出をきっかけに、私と藤原の押し問答が始まった、―― 藤原「以前見せたでしょう。」 山根「いや、あのときはよく見せてもらえなかったので、改めて見せて下さい。」 藤原「いいじゃないですか。」 ――藤原、大声を張り上げる。 山根「あなた、公務員じゃないですか。」 藤原「そうですよ。」 山根「その上、エリート査察官なんでしょ。」 藤原「エリートなんかじゃない。」 ――藤原、ふくれている。 山根「今日は、身分証明書を持ってきていないんですか。」 藤原「持ってきていますよ。」 山根「じゃあ、私に見せて下さいよ。」 ――藤原、仕方なしにポケットから、黒革をとり出してチラッと見せる。 山根「私に手渡してよく見せて下さい。」 藤原「身分証は嫌疑者に呈示すればよいもので、手渡すことはできない。」 ――藤原、黒革をポケットにしまいこもうとする。 山根「ストリップじゃあるまいし、チラチラ見せて、すぐに隠すとはどういうことか。マルサは、いつからストリッパーになったんですか。  私は手にとって確認した上で、記録しておきたいんですよ。」 藤原「なんのために、記録なんかするんですか。」 ――藤原、声が更に大きくなる。 山根「何のため?君達のような暴力団に二度と出会うことはないだろうから、せっかくのチャンスだと思って記録しているんですよ。」 ――藤原、提灯フグとなった。プップと頭から湯気を立てている。どうしても黒革を私に手渡そうとはしない。強情な男である。 六、 このとき、2人のやりとりをきいて、オロオロしていた新本修司が、「じゃ、自分のを写して下さい。」と申し出て、私に自分の黒革手帳を手渡してくれた。  私は、新本のマルサ手帳を手に持って開き、記録した。収税官吏章、国税査察官証票及び身分証明書の3つである。 七、 私は、新本修司の収税官吏章等を写し終え、改めて藤原孝行に申し向けた、―― 山根「あなたは、どうしても私に手渡して見せてくれないので、読み上げてくれませんか。それを私は書きとることにします。  その前に、あなたが手に持ったままで結構ですから、顔写真の確認をしたいし、新本さんのものとフォームが同じものかどうか確かめたいので、私にじっくり見せて下さい。」 ――藤原、ふてくされながらもこれに応じた。 山根「じゃ、収税官吏章から読み上げて下さい。」 藤原「はい。」 山根「番号は?」 藤原「第1122号」 山根「肩書きと氏名は」 藤原「広島国税局大蔵事務官 藤原孝行」 山根「生年月日」 藤原「昭和28年×月×日生」 山根「交付年月日」 藤原「2年7月19日交付」 山根「発行者」 藤原「広島国税局長」 山根「次、国税査察官証票の番号」 藤原「第769号」 山根「肩書きと氏名」 藤原「広島国税局調査査察部大蔵事務官 藤原孝行」 山根「生年月日」 藤原「同じです。」 山根「昭和28年×月×日生まれね。その下に何が書いてあるんですか。」 藤原「上記の者は、国税査察官であることを証明する。」 山根「交付年月日」 藤原「同じです。」 山根「ああ、2年7月19日ね。発行者は」 藤原「同じです。」 山根「広島国税局長ね。はい分かりました。」 山根「次、身分証明書」 藤原「番号は、第6297号」 山根「肩書きと氏名」 藤原「広島国税局大蔵事務官 藤原孝行」 山根「生年月日は同じですね」 藤原「はい。」 山根「その下には何が?」 藤原「上記の者は、当局の職員であることを証明する。」 山根「交付年月日と発行者は同じですか。」 藤原「はい」 山根「2年7月19日交付、広島国税局長ですね。はい、ごくろうさまでした。  待って下さいよ。3つ共、交付されたのは3年前ですね。これ今でも有効なんですか。」 藤原「そうですよ。」 ――また怒っている。 山根「アンタは今でも本当に国税査察官なんですか。」 藤原「なんでそんなこと聞くんですか。」 ――提灯フグが真っ赤になった。 山根「いや、念のためにお尋ねしただけのことです。」 八、 記録を終えた私は、真っ赤な灯がともっている提灯フグに、改めて問い質してみた。 山根「藤原さん、どうして身分証にそんなにこだわるんですか。私の方としては、それを確認して、記録する、ごく当たり前のことを申し出ただけなんですがね。」 藤原「全部写されて、同じものを作られたら、それこそ偽物が出回るんですよ。」 山根「偽物が出回る?」 藤原「はい。」 山根「私がそんなことをすると疑っていたんですか。」 藤原「いや、何もあなたを疑ってはいませんよ。でも、これが外に洩れたらどうするんですか。その記録が外へ出ないという保証がどこにあります。」 ――たかが、公務員の身分証である。洩れて困るような大層なものか。聞いていて馬鹿らしくなってきた。 山根「藤原さん、新本さんは手渡してゆっくり見せてくれたのに、あなたはどうしても私に渡して見せてくれなかった。  どうしてですか。」 藤原「・・・・。以前に手渡したら、いきなり、持って逃げられたことがあったんです。それからは用心することにしているんですよ。」 山根「私は、アンタらと違って、ドロボーなんかしませんから、ご心配なく。」 藤原「・・・・。私も今まで国税に22年間いますけどね。これを全部書き写した人は、アンタが初めてだ。」 ――藤原、私が捜索令状や質問顛末書を書き写したときにも、「初めてだ」とグチッていた。またしても、といったところである。  三流クラブのホステスでもあるまいに、「アンタがはじめてだ」なんて気安く使うな。 九、 この日は、マルサに対して、守りの姿勢から攻めの姿勢に転じたことを明らかにした日であった。国税庁長官と広島国税局長に対して、抗議書を提出した日であり、その写しを、以上の押し問答をした後に藤原孝行に手交したのであった。  潰せるものなら潰してみろ、と開き直ったわけで、恐れるものは何もなくなっていたのである。遠慮しながらも、少しは言いたいことを面と向って言ったので、多少の気晴らしにはなったようである。   (4)三瀧恒雄 一、 広島国税局査察調査部査察第四部門統括査察官。  現在は、税理士。平成13年登録。広島市で税理士事務所を開設している。 二、 平成5年9月28日、マルサのガサ入れ当日、部下の田村友治(査察第四部門査察官)と共に、組合長の岡島信太郎氏の尋問を担当。 三、 三瀧は、田村友治と、代わる代わる大声を張り上げて岡島氏を脅しあげた。 「お前は組合長なんだろう。16億5千万円で購入したものを、何で1000万円で売ったりするんだ。一体どういう了見なんだ。組合に対する背任行為ではないか。背任罪で告発されたら、どのような申し開きをするというんだ。」 四、 岡島氏は、脱税だといって脅されたのに加え、背任罪で脅され、震え上がった。 五、 9月28日の夜、私は岡島氏に電話をして取調べの状況を確認したところ、以上のような余罪の追及の事実が判明したのである。  明らかに違法である。このようなことが許されるはずがない。 六、 翌9月29日午前10時、取調べの為、松江税務署一階の臨時取調室に赴いた私は、査察官藤原孝行に対して、益田税務署において違法な調査がなされていることを申し述べ、厳重に抗議した。  同時に、益田税務署にいる担当査察官を電話口に呼び出すように要求した。直接、抗議をし、余罪の追及をして脅し上げるのを中止させる為であった。 七、 電話口に出てきたのが、三瀧恒雄であった。私はきつく抗議した、―― 「国犯法の調査で、一体何ということをするのか。背任罪で告発するようなことを言って脅すのは中止して欲しい。」 八、 私の言葉が終るか終らないうちに、三瀧は怒り出し、大声を張り上げて、怒鳴りまくった。私の耳の鼓膜が一瞬おかしくなるほどであった。  今まで、マルサに対して、文句をつけたり、抗議をしたりした者がいなかったのであろう。電話越しに、三瀧が顔を真っ赤にして怒っている様が伝わってきた。 (5)永田嘉輝 一、 大木洋の後任。平成6年7月、広島国税局調査査察部第三部門統括国税査察官。検察庁への告発書類を決裁した人物。平成15年、税理士登録。現在は岡山市で税理士事務所をかまえている。 二、 平成6年12月16日、午前10時54分、永田嘉輝に架電。  永田曰く、『今までの話、いろいろ聞いております。調査に協力いただけてない。部下を馬鹿野郎呼ばわりするような方とは、一切話したくないので電話を切ります。』 三、 確かに、私は、前日の12月15日に、藤原孝行に電話で厳重に抗議をし、その際、藤原に対して、「君達マルサはドロボーか強盗だね。」と申し向けたのは事実である。バカヤローなどという品のないマルサ用語など決して発してはいない。いや、ひょっとしたら売り言葉に買い言葉で、バカヤロー位のことは口走ったのかもしれない。  私は、自分のことを一度も品のいい紳士だと思ったことはない。ただ、マルサの人達ほどひどくはないと思っているだけだ。 四、 永田は、私に一切話をさせずに、怒気を含んだ声で、一方的にまくしたて、電話を切った。その間わずか25秒であった。  その後、私が何回電話しても、電話口に出ようとはしなかった。私が永田嘉輝と話をした、というより永田が一方的に怒鳴りまくったこの25秒間が、私と永田との直接の唯一の接点であり、その後、永田はマルサの伏魔殿から出てこようとはしなかった。 五、 平成8年1月26日、私が検察庁に逮捕された日に、永田は、検察官中島行博らと共に私の自宅に赴き、家宅捜索を行なった。今の時点で永田嘉輝が作成した差押え目録を改めて点検してみると、94点が記載されており、よくぞこんなものまでといった物品のオンパレードである。大木洋の後任の責任者である永田としたら、ようやく検察を騙して私を逮捕させることができたのであるから、喜び勇んで、憎さも憎い山根の自宅に乗り込んで、差押えという名のもとに、手当り次第にさらっていったのであろう。  その11日後の同年3月6日に、永田は、藤原孝行を告発人とした告発書類を、査察第三部門統括査察官として決裁した。  (6)黒目啓治   一、 広島国税局調査査察部査察第二部門査察官 二、 平成5年9月28日、コスモ証券Y.H部長を、出張先から呼び戻し、暴言を連発して尋問した人物。 三、 Y.H部長の話  「関係者の証言」のうち「(3)証券マンは語る」で詳述。  生え抜きの証券マンであったY.H氏は、よほど悔しかったのであろう、「広島弁でやくざみたいな男」で、「30才前後の若造」である黒目啓治に、『おまえ』呼ばわりされ、脅し上げられたと語るY.H氏の両目には、うっすらと涙が浮かんでいた。 [#改ページ] 第四章 権力としての検察―暴力装置の実態 一.「正義の砦」としての検察―その虚像と実像―   一、 日本の検察は、刑事事件の捜査や起訴について、広範かつ強大な権限を持っている。  しかも、起訴するかしないかは検察官の自由裁量にゆだねられているために、確実に有罪になるだけのものを選んだ上で起訴に持ち込む傾向がある。起訴便宜主義といわれるものだ。 二、 そのためであろうか、日本における刑事事件の有罪率は100%に近い99.7%という驚異的な数値を示している。  社会的に許しがたい犯罪に的をしぼって摘発し、起訴しているのであろう。なかなか結構なことである。 三、 巨悪に敢然と立ち向う正義の砦として、検察は、社会秩序の維持を、いわば担保する役割を担っており、国民の検察に寄せる信頼と期待には、絶大なものがある。  検察は、時の権力者による汚職事件を摘発し、経済社会の暗部を暴き、正義のメスをふるってきた。秋霜烈日、――検察官バッジは白く輝いていた。  マスコミはこぞって、検察を社会正義の鑑としてもてはやし、国民はそれを素直に受け入れ拍手をもってこたえてきた。 四、 検察官は、該博な専門知識を有している人格高邁な人達であることが求められ、彼らも、休日を返上して、もっぱら国家社会に奉仕することを使命としてきた。  誠に立派なことであり、頭の下がる思いである。 五、 狡猾な犯罪者を追いつめる和久峻三の人気シリーズ「赤かぶ検事」の世界であり、ピシッとスーツを着こなしてさっそうと刑事法廷に立つ、セレブなイメージの女優が演じる2時間ドラマ「検事霧島夕子」の世界である。  テレビのワイドショーには、検察OBの弁護士達が毎日のように、日本の良識の代表のような顔をして、タレント・コメンテーターの役割を演じている。 六、 検察は、絶大な権力を持っているだけに、その行使には慎重さが求められ、間違った使い方をしないことは当然の前提とされてきた。  検察は、正義の砦であり、彼ら自らが、間違ったことをするなどおよそ想定されていないし、国民一般もそれを信じてきた。 彼らのすることは、全て正しいことであった。  検察の無謬神話といわれるものだ。 七、 平成8年1月26日の早朝、私の前に突然逮捕状をもって現われた検察は、私が漠然と描いていた以上のような検察とは似ても似つかないものであった。暴力団そのものが、ヌッと現われた感じであった。  しかも、マルサが日本刀を振りまわすチンピラ集団であるとするならば、検察は、さしずめ、実弾入りのピストルをつきつけてきた広域暴力集団であった。  マルサは、強制調査をし、検察に告発するだけの権限しかないのに対して、検察は、その上に、逮捕し、刑事法廷に引きずりだし、断罪する権限を持っているからだ。 八、 以下、松江地方検察庁が広島高等検察庁の事前了解のもとに行った強制捜査と、それにつづく一連の逮捕・勾留・起訴等がどのようなものであったのか、当時の私の日記等と裁判記録をもとに、具体的に記述し、広域暴力集団としての検察の実態を明らかにする。 二.強制捜査―ガサ入れと逮捕勾留 (1)逮捕直前   一、 逮捕2日前の、平成8年1月24日午後、第一勧業銀行のK松江支店長から、私の事務所と自宅に電話が入った。第一勧銀は私の自宅の左斜め前にあり、私の取引銀行である。 「朝から、銀行の駐車場にカメラを構えた車が陣取っていた。銀行としては迷惑なので、出ていってもらったが、お宅を標的にしているようだ。」 二、 私は近くの碁会所で碁を打っていた。妻から、銀行の支店長からの話が伝えられた。  内偵か、逮捕の用意か?碁の区切りがついたところで急いで自宅に帰った。 三、 あたりを見まわして捜したところ、右斜め前のN酒店の駐車場に一台のバンが駐車していた。車の窓にカーテンが張ってあり、よく見るとカメラのレンズが私の自宅に向いていた。隣には、運転手だけが乗った黒塗りのハイヤーがエンジンをふかして待機している。  私は近くまで言って、バンとハイヤーの車輌番号を控えてから、急いで自宅に戻り、カメラをもって出てきたところ、車は2台とも消えていた。  この時隠し撮りした映像が、NHKのテレビで繰り返し放映された。私が20年来着古している皮コートを身につけ、風邪のためマスクをして、玄関から駐車場に向かう姿である。 四、 私は、N酒店に赴き、N夫人に事情を聞いてみた。 「朝の7時ごろから、NHKがうちのバンを借りてずっとお宅を見張っているんですよ。どうしたんでしょうね」  N夫人は、一寸バツが悪そうであった。 五、 20分程でバンが帰ってきた。若い男が車から降りて、N酒店に入った。  カメラを携えて私もN酒店に入り、男にカメラを向け写真を撮ろうとしたところ、男は顔を隠して一目散に逃げ出した。  追跡が始まった。4枚位写したであろうか、10分程追いかけ回したが、逃がしてしまった。 六、 逮捕1日前の平成8年1月24日、事務所の職員から山根ビル隣の家電量販店の駐車場に、ビルを見張っている一台の車がいることを知らせてきた。車輌番号は、昨日のハイヤーと同一だ。  午前10時半、私は車で事務所に向かい、入口付近で隣の駐車場を見たところ、確かに3人の男が黒塗りのクラウンに乗ってビルの出入口を見張っていた。  ヨーシ、今度こそはキチンとカメラにおさめてやろうと思っていたが、事務所に入り電話をかけたり、仕事の指示をしたりしているうちに、気がついたらいなくなっていた。11時前には引き払ったようである。惜しいことをしたものである。 七、 マルサの件で、強制捜査、あるいは逮捕のおそれがでてきた。中村寿夫弁護士のアドバイスに従って、逮捕された場合にそなえて声明文を作成することにした。このとき用意した声明文は次のとおりである。        声明文  平成5年9月28日、広島国税局査察部門による強制捜査を受けて以来、2年4ヶ月が経過した。  その間、私は取調べに積極的に協力し、かつ、7万字に及ぶ申述書を作成し、数多くの証拠資料を添えて、嫌疑を晴らすべく、嫌疑事実が全くいいがかりにすぎないことを国税当局に立証してきたところである。  しかるに、国税当局は、メンツを重んずる余りか、当初の思い込みをそのまま押し通し、事実にあらざるフィクションを創り上げ、脱税と決めつけ、敢えて松江地検に告発する暴挙に出た。  松江地検は、私及び関係者に対して、直接尋問することなく、国税当局が捏造したことがらを盲信し、告発を受理し、私を逮捕するに至った。  これは、国税・検察一体となった国家権力による不当、かつ、違法な暴力行為であり、断じて許すことはできない。  私は公認会計士たる私の名誉にかけて、怒りを込めて厳重に抗議すると同時に、直ちに私を釈放し、この度の暴挙に対して謝罪することを要求するものである。 八、 声明文は自宅に持ち帰り、キッチンテーブルの上に置いておいた。逮捕当日、押収されたらしく、逮捕3日目の取調の時に、中島行博検事が私に次のように問い質した。 中島「声明文を用意していたようだが、何故当日私に渡さなかったのか。」 山根「逮捕容疑が違っていたので、あの声明文はそのままの形で出せなくなった。渡さなかったのは、ただそれだけの理由である。」 中島「山根は脱税による逮捕を覚悟していたのか。」 山根「いやそうではない。この2日程私の回りを露骨に内偵している連中がいたので、万一の可能性を考え、弁護士のアドバイスにもとづいて用意していたものだ。  あれは検察の内偵だったのか。」 中島「検察は極秘に動く。ただあのときは、NHKがどこかからかぎつけたようだ。ウチとしては被疑者に気づかれたらまずいので、できるだけ慎重にやることにしている。  もっとも、オレが2、3日前に広島から来たりしているから、そんな動きをキャッチされたんだろうな。」 ――検察の誰かがNHKにリークしたに決まっている。一人の検事が広島から松江にやってきたことと、山根治がどうしたら結びつくというのか。中島のとぼけた顔が、間抜け面に見えてきた。 (2)逮捕当日―別件逮捕― 一、 平成8年1月26日、朝6時50分、自宅のチャイムが鳴った。私は寝ているところを起された。  中島行博検事が、逮捕状を携えてやってきた。副検事と事務官を従えている。  窓の外には、7人位の連中が、家宅捜索のために待機していた。   二、 三人が応接間に入ってきた。中島検事は、私に逮捕状を呈示して、次のように言った、―― 「近所の手前もあるだろうから、逮捕は自宅ではなく、地検で行なうので、出かける用意をするように。」 三、 私は中島検事から逮捕状を受けとり、目を通してみた。  「罪条、公正証書原本不実記載・同行使」となっている。  私は、一瞬、何のことか分からなかった。手が震え、顔から血の気が引いた。 四、 午前7時、私は検事の許可を得て、中村寿夫弁護士に電話を入れた。  検事が逮捕状をもって自宅にきたことを告げ、逮捕容疑が私の理解を超えるものであることを説明した上で、弁護人になってもらうことを要請した。  中村弁護士は電話口で、エーッと絶句し、別件逮捕だと言いながら、弁護人を引き受けてくれた。 五、 私はカメラをとり出して写真を撮ろうとしたところ、中島検事が「撮るな。肖像権がある。」と大声を出して止めに入った。私は妻を呼び入れて、「4人の記念写真をとりたい」と申し入れたが、どうしても許可してくれなかった。  それではと、応接間にあったテープレコーダーを回したところ、中島検事は「あとで押収するように」と副検事に指示していた。 六、 習慣になっている朝風呂がまだであったので、検事の了解を得て、風呂に入ってヒゲを剃った。カメラ写りをよくしておかなければ。  風呂を出て、朝メシを食う。証拠隠滅を疑われても癪であるし、食事を妻に応接間まで運ばせて、検事達の目の前で食べた。  逮捕されたら当分自宅のみそ汁が飲めなくなると思い、みそ汁のおかわりをする。味がなかった。 七、 検事のアドバイスによって、当面の着替え、日用品をバッグにつめる。本は中西進の文庫本万葉集5冊、お金は5万円、皮のオーバーコートも加えた。 八、 午前8時、副検事は自宅に残り、私は、中島検事と渡壁事務官と共に、検察のワゴン車で、松江地方検察庁に向った。 九、 松江地検に連行された私は、しばらく控室で待たされた。その間、地検の職員であろうか、何人かが私を品さだめしては出ていった。  物見見物といったところであろう。 一〇、私は控室から地検3階の検事室に移された。  中島検事の他に、事務官が2人いた。一人は書記の渡壁事務官であり、一人は立会人であった。  中島検事が逮捕状を私の面前で読み上げた。中島は、読み上げる際に、逮捕状の副本を私に手渡し、私がじっくり眼を通すことができるようにしてくれた。 一一、中村弁護士が言うように、明らかな別件逮捕であった。逮捕容疑は3件記されていたが、私には、それらが何故犯罪であるのか全く理解できなかった。とくに、その中の一件については、私の記憶に全くないものであった。 一二、午前8時40分、逮捕状が執行され、私は、松江地検3階の検事室で逮捕された。  逮捕後、第一回目の供述調書が作成された。私は、3つの逮捕容疑について次のように供述し、サインをして、指印を押捺した。 「3つの内2つのものは、それぞれ真実の登記であり、不正な登記ではない。残りの一つは、私の記憶に全くないものであり、検察のいいがかりではないか。」 一三、手錠・腰縄をつけられた私は、地検5階の部屋に連行され、正面及び左右の横向きの写真を撮影された。明るい部屋であった。左右の手の指全て、指紋が採取された。黒のスタンプ台に10本の指を一つずつ押捺しては、指紋台帳に写していった。 一四、再び検事室に連行され、手錠・腰縄がはずされた。渡壁事務官が昼食を出してくれた。仕出し弁当であった。  食後のコーヒーを要求したところ、渡壁事務官は、中島検事に伺いに行ったようであった。検事の了解が得られたため、庁内の食堂からとりよせてくれた。250円。1万円を出しておつりをもらう。 一五、午後2時すぎ、私は再度手錠・腰縄をされ、ワゴン車で松江地検から松江刑務所へ護送された。 一六、午後2時20分、松江刑務所に着いた。一枚の身柄領収書と引きかえに、私の身柄は松江刑務所拘置監の管理下に置かれることとなった。 一七、私は、「新入調室」という札の下がっている部屋に連行された。  外部と同様の寒い部屋であった。申し訳程度の電熱器が部屋の上部に一つだけついていた。 一八、二人の刑務官がおり、私は検査のために丸裸にさせられた。股を拡げて、後向きになり、ケツの穴までのぞき込まれた。  所持品が全てチェックされた。  毛糸の厚手の靴下、柄付タオル、カミソリ等の洗面用具、M医院処方の薬袋、――これらは持込できないとして取り上げられ、領置された。  私は、処方薬だけは房内に持ち込みたいと思って、気管支ぜんそくの持病があり、現在治療中である旨を、刑務官に申し出たところ、信じられないような言葉を耳にすることになった、―― 「たんなる風邪なんだろ。病人を逮捕してまで引っぱってこないだろうからな。」 一九、私に「2番」という称呼《しょうこ》番号が与えられ、独房に移された。   用意された独房は、「下6号室」という札がかかった拘置監1階の6号室であった。  2畳敷の畳の部屋で、流し台、水洗便所が付いていた。備品として、小さな座り机、トイレ隠しの衝立、プラスチックの籠があり、寝具としては、敷布団1枚、かけ布団2枚、毛布2枚、枕1つ、襟布、枕カバーが1つずつ、所内心得を記した冊子が2冊、備え付けてあった。枕はソバガラ入りの特殊なもので、タテ、ヨコ11.5cm、長さ29cmのカチカチの枕であった。  その他に、歯ブラシ、歯みがき粉、チリ紙、箸、プラスチックのコップ、一リットル入のアルミのやかん、タオル、ホーキ、ハタキ、チリトリ、えもんかけ、トイレ洗い、フキン、ゾウキン、ゴミ入れ、石けん、荒石けん、ナイロンたわし、プラスチックの洗面器2つが備えてあった。  この中で、ホーキ、ハタキ、チリトリは、久しく眼にしたことはなかったし、歯磨き粉とか荒石けんに至っては、50年程前に使ったことを思い出す位で、まさに前時代の遺物であった。   二〇、眼鏡は、近視用だけが持込みを許された。後に、老眼鏡も入れてもらうことができた。  その場合には面倒な手続きが必要で、タテ8.9cmヨコ7.7cmの願箋《がんせん》と言う書類に必要事項を具体的に記入し、担当看守に願い出なければならなかった。老眼鏡は、検事の取調べに必要であるという理由で許可された。  この後私は、この拘置監に291日も勾留されることになるが、その間に私が書いた願箋の数はゆうに1500通は下らないものであった。ことごとくが書類の世界だったのである。 二一、しばらく部屋にいたところ、看守が私を連れ出して医務室へ。白衣を着た若い医者らしき人物がいた。いかにも新米といった感じの眼鏡の男であった。  上半身裸になって診察を受ける。身長、体重、血圧が測定された。風邪で通院していることを告げる。紙による尿検査で少し糖が出ていることが判明。3つの薬が3日分処方された。M医院の処方を参考にしたようだ。  この3日分の薬は私に直接手渡されることはなかった。食後の服用が指示されているらしく、その後3日間、毎食後看守が3つの薬を持ってきて、廊下側の検視窓を引き上げて房内に差し入れ、服用するように命令した。薬を飲み込んだことを看守に確認してもらうために、看守の前で大きく口を開けて、思い切り舌を出すことが要求された。  私は風邪にめっきり弱く、いつもはグズグズと一ト月近くも完治しないのであるが、このときばかりは、2日程で治ってしまった。私の動物としての生存本能が目覚めたのかもしれない。 二二、中村寿夫弁護人が面会に来てくれた。午後4時すぎであったろうか、時計の持ち込みが許されていないので、はっきりした時刻は分からない。  このとき、組合長の岡島氏と職員の小島氏とが逮捕されたことを知る。マスコミが私の事務所に押しかけているという。  母、妻、古賀氏の3人に伝言を依頼する。 二三、夕方4時半ごろ、夕食。検視窓から夕食が差し入れられた。拘置所での初めての食事である。 二四、夕方6時、就床(仮就寝)。やっと横になることが許された。   夜9時、就寝。ともかく寒い。皮のオーバーコートを持ってきてよかった。足が冷えてなかなか眠れない。 (3)勾留請求の裁判 一、 平成8年1月27日、逮捕された翌日の午後7時頃、私は手錠・腰縄つきでワゴン車に乗せられ、松江刑務所拘置監から松江地方裁判所へ移送された。勾留請求の裁判のためである。裁判所に着いたのは午後7時半であった。 二、 中村弁護人が面会にきてくれた。  昨日聞いた2人(私を含めると3人)に加えて、昨日の夕方、組合の増田常務も逮捕されたことを知る。私に全幅の信頼を置いてくれた人達が次々と逮捕され、やり切れない気持ちに陥った。  中村弁護人は、この日マスコミを集めて記者会見をし、「明らかな別件逮捕であり、不当である。犯罪事実は全くないので、直ちに全員釈放すべきである。」旨述べたと話してくれた。 三、 面会室から、1階の面談室に移され、勾留請求の裁判が始まった。  一人の裁判官が容疑事実について簡単に質問をし、書記が調書にとっていた。その間、15分。おざなりを絵にかいたような単なる儀式であった。 四、 夜中の11時すぎに、熟睡していた私は、夜間担当の看守にたたき起こされ、独房から管理棟の別室に連れ出された。  そこで、看守立会のもとで、主任らしき人物から、拘置決定の告知と接見等禁止の告知がなされた。決定番号は、平成八年(む)第2号であった。 五、 平成8年1月28日、この日は日曜日であったが、中村弁護人の面会があった。 「拘置請求に対する異議申立(準抗告申立)をした。準抗告申立書を房内に入るように差し入れしておいたが、異議申立が認められるのは、0.27%位のものであるので、期待しないように。」  私は、中村弁護人に、寒くて仕方がないので、丹前、ジャンパー、下着などできるだけ暖かいものを差入れるように依頼した。他の逮捕されている3人にも、同じ手配を頼む。 六、 中村弁護人から、仕事の都合で、2日程面会に来ることができないと聞いたとき、私は思わず大粒の涙を流した。接見は弁護人しかできず、中村弁護人は、その時唯一人の頼みの綱だったからだ。  私は、小さいころから泣き虫で、涙もろかった。それが、突然逮捕され、十分な心の整理ができていない状態であったので、感情の起伏は激しくなっており、なにかあると、すぐ涙が出るようになっていた。  ちょっとした人のやさしさとか思いやりに触れると、自動的に私の眼は涙で溢れるようになっていたのである。今にして思えば、一種の拘禁症にかかっていたのであろうか。   七、 平成8年1月30日、松江地方裁判所は、拘置請求の却下を求める準抗告を棄却した。却下の理由は、検察側の偽りの主張をそのまま鵜呑みにしたものであった。 (4)拘置理由開示の裁判 一、 平成8年2月2日、起きて窓外に目をやると、雪が降っていた。この日は、午後拘置理由開示の裁判が予定されていた。  いつもより早く、戸外運動場に連れ出され、粉雪の舞う中で、30分程、大きな声でエイッ、エイッとかけ声をかけながら、天突き体操、舟こぎ体操をした後、ジョッキングをする。  8m四方の運動場は高さ2m位のコンクリート壁に囲まれており、小分けにしたいくつかの運動場が見渡せる位置に看守がすわり、かけ声をかけて監視していた。  囲われた運動場の中の一部にビニールの屋根があった。そこにつららができていた。つららを見るのは何年ぶりのことであったろうか。  看守によると、昨夜は気温がマイナス5度まで下がったという。寒いはずである。  30分程の運動によって身体が汗ばんでくる。運動時間中に、看守から爪切りを借り受け、逮捕以来はじめて、爪を切る。  運動の後、囲いを出たところで、リゴール液によるうがいをして、独房に帰る。 二、 午後1時10分、拘置理由開示の裁判が開廷される5分前に、私は看守に率いられ、松江地裁1階の鉄格子の部屋から階段を歩いて、3階の第31号法廷に入った。  傍聴席は満席であった。30人位きていたのであろうか。  入廷時は手錠腰縄状態であり、傍聴人の見ている前で外された。さらし者である。 三、 裁判は5分遅れの午後1時20分開廷。辻川昭裁判官。私は、被疑者として意見陳述を行った。 『今般私にかけられた容疑は、2年4ヶ月前に着手された広島国税局の査察に端を発するものである。  そのとき関係資料は全て押収され、更に国税当局による尋問がなされ、質問顛末書の形で残っている。  その上、私は国税当局の求めに応じて7万字に及ぶ申述書を作成して、提出し、積極的に捜査に協力してきた。  このたびの家宅捜索で、再び関係資料のみならず無関係のものまでも押収され、私の手許に残っているものは何もない状況である。  逮捕されて今日で8日、連日連夜の検事の取調べに対して素直に応じており、検面調書もすでに20通はこえている。  私は不正なことをしているつもりは全くないので、関係者と口裏を合わせるようなことはしたことがないし、今後ともするつもりはない。  一時も早く、私を釈放せよ。』 四、 辻川昭裁判官は、「容疑に対する4人の身柄留置は相当な理由があり、罪証隠滅の恐れもある」と述べるにとどまり、検察側も「捜査にかかわる」として、具体的な理由を明らかにしなかった。これまた、単なる一つの儀式にしかすぎなかった。 五、 午後1時40分、閉廷。  看守は、私に傍聴席にふり向くことを許さなかった。  退廷するとき、中村弁護人が看守に、「皆さんに会釈することは許してあげて下さい」と口添えしてくれたものの、わずかの時間しか振り向くことができなかった。若い看守がすぐに私を引きたてていったからである。  ふり向いて会釈した瞬間、高庭敏夫会計士、U鑑定士、岩本久人氏、M建築士、妻、次男の学、Y先生の姿だけが確認できた。 「頑張って、がんばって!」――口々に声が飛んだ。私の両眼に涙が溢れ、視界がかすんだ。それぞれの人達の思いが私にストレートに伝わってきた。  帰りの移送車の中でも涙がとまることはなかった。 (5)捏造された勾留理由 一、 売買が仮装ではなく、真実のものであるとあらゆる面から完全に証明された現在、検察が私の保釈を認めてはいけない理由とした挙げた数々の事柄が、いかに想像を絶する捏造であったか明らかになった。  今の時点で、7回前後行った保釈請求と保釈に反対する検察の意見書等を改めて読み返してみると、私を保釈させない為に、嘘に嘘を重ね、裁判官をなんとかして騙そうとしている検察官の姿があざやかに浮び上がり、怒りよりもむしろ憐憫の情を催すほどである。そこまで言うのか、というほどの嘘のオンパレードであった。 二、 平成8年3月8日、松江地検の検事藤田義清が保釈を阻止しようとしてなした準抗告申立の中で、私と弁護人中村寿夫弁護士の名誉を著しく傷つける言辞が弄されている。  曰く、「山根は、自己において作成した経過説明と題する書面につき、弁護士の助言により、その内容を自己に有利な内容に改ざんしている。」  私が弁護士と結託して文書を改ざんし、証拠隠滅を図ったというのである。検事という人種には、事実を歪曲し、直ちに判明する嘘を公式の文書に記載する特権と免罪符でも付与されているのであろうか。 三、 検事の捏造の中でも最高傑作ともいえるのは、私が暴力団山口組に関係しており、事件関係者に危害を与えるおそれがあるとするものだ。  検察は、私を逮捕した後、虚実をとりまぜて、マスコミにリークし、私を稀代の悪徳公認会計士に仕立てようとしたのであるが、さすがに、私を暴力団の舎弟とまではリークしなかった。しかし、裁判所との保釈をめぐる裏の駆け引きの中には、こっそりともぐり込ませていたのである。またしても藤田義清であった。自白しなければ絶対に保釈しない、検察の執念を見る思いである。  平成8年3月8日午前10時、中村弁護人接見。 中村「岡島氏の保釈決定はでたが、山根の保釈は却下された。ただ、却下された理由の中に『圧力をかけて罪証を隠滅するおそれがある』というのがあるが、よく分らない。」 山根「中島検事が私に言っていた山口組のことではないか、『佐原良夫が松江に行くのをこわがっている。山根は山口組と親しいから松江に行ったら何をされるか分からないと言っている。』」  弁護人がなした平成8年3月9日付の準抗告申立書を引用する、―― 『裁判官が山根に事件関係者の身体等に危害を加え又はこれらの者を畏怖させる行為をすると疑うに足る相当な理由があることを保釈却下の理由にしていることに至っては、理解に苦しむが、山根は公正証書原本不実記載・同行使罪で逮捕された直後、取調を担当した中島行博検事から「佐原を松江地検に任意で呼び出しているが、佐原が怖がって松江に来ようとしない。佐原は、山根が暴力団山口組に関係しており、松江に来ると殺されると言っている。お前は山口組と関係があるのか。」と聞かれたことがあり、まったく予想外の質問に吃驚し、一笑に付したということがあった。  山根は、暴力団に関係したことは一切ないし、暴力団に関係があると人に言ったこともない。また、税理士、公認会計士としての関与先の中にも暴力団の関係する企業などは一社もなく、山根は、開業以来暴力団などと関係のある企業に関与しないよう人一倍神経を使っていた。  山根が暴力団に一切関係していないことは、山根の身上、経歴等を調査している検察官は知悉している筈であるが、佐原が山根は暴力団と関係しており、自分の身が危険だと供述しているとすれば、検察官はその旨を供述調書の中に書き、山根の保釈に反対する理由に利用したのであろう。』 四、 また、私が終止、全面否認を通したことがよほど腹にすえかねることであったらしく、裁判所が重い腰をあげて、平成8年11月7日にようやく保釈決定をしたのに対して、公判検事の立石英生は、私の供述と公判の態度について、次のようにこきおろしている、―― 『被告人(私のこと)特有の独自の論法を展開するにとどまり、その結果、同人の検察官調書の内容は、まさに禅問答ともいうべき供述に終始している。  さらに、第一回公判期日において、被告人は、本件各犯行について全面的に否認し、弁護人共々、自己の責任を免れることのみを目的とした虚構の論理を展開している。』  これについては、ただ唖然とするばかりで、論評すべき言葉もない。よく言ってくれたものである。  「独自の論法を展開し、禅問答」をなしたのは、私を取調べた中島行博検事であり、「虚構の論理を展開」したのは、まさに立石英生検事ではないか。  真実をねじ曲げようとした検察側に、根本的な無理があり、私は単に過去の事実をそのまま述べただけのことである。  ただよく考えてみると、私を保釈させるべきではないとする意見書の中で、立石は何故私の供述姿勢に言及しているのか、その理由がよく分からない。私の供述が、検察の意見と違うから、けしからん、閉じこめておけ、ということであり、私の保釈に反対する理由になっていないのである。立石検事は論理的思考が余り得意ではないようだ。 五、 更に検察は、虚構のストーリーを正当化しようとして、私を極悪非道の悪人にすべく、日本語の中でも最低の口汚ない言葉を連発して、裁判官を誤導し、私を引き続き勾留しようとしている。再び、平成8年10月11日に立石英生検事がなした抗告の申立書の中から、適宜拾い出してみる、―― 「考え得る可能な限りの様々な不正手段を駆使して」、 「本件犯行の悪質性」、 「税金逃れの事実を隠蔽するために敢行された工作」、 「悪質極まりない犯行」、 「財務税務の知識を駆使悪用して」、 「張本人」、 「捏造」、 「罪証隠滅工作」、 「その事実を糊塗するために様々な隠蔽工作を弄した」、 「帳簿上の操作」、 「通謀を示唆する架電」、 「煽動」――。  これだけの汚い言葉を集中して投げつけられると、自分が本当に極悪人であるような錯覚に陥ってしまうほどである。  立石検事がこの申立書を書いた時点で、彼は、自らのストーリーが荒唐無稽であり、虚構であると十二分に知っていた節がある。そのような状況下で、私の人間性をも徹底的に否定するこのような言辞を平気で発することができる立石という検事は一体何者であるか、改めて彼の人間性について考えさせられる。 六、 思うに、このような一連の言葉は、全て、私にではなく、国税当局と検察当局にこそ妥当するものではないか。犯罪ではないことを、意図的に歪曲して犯罪に仕立て上げ、無実の者を犯罪人として断罪することは、まさに冤罪の捏造であり、独裁国家ならいざ知らず、民主主義の法治国家で許されることではない。  「悪質極まりない犯行」をなしたのは、国税であり、検察ではないか。国家権力が犯罪集団と化した典型的な事例である。 (6)マスコミ報道の実態 一、 平成8年1月26日の逮捕を待っていたかのように、マスコミ各社は、全国版で、検察当局が捏造した犯罪を、あたかも確定した事実であるかのように一斉に報道した。 二、 大半のマスコミが、検察側の発表もしくはリークにもとづいて報道しており、マスコミ独自の判断を放棄した検察側情報のタレ流しに終止した。 三、 マスコミによってなされた荒唐無稽な報道の極めつけは、私が脱税報酬として6億円を受け取ったというものである。その上更に、相手方の佐原良夫に対して4億円の脱税協力金を支払ったというおまけまでついていた。  検察が発表した脱税額は6億円余りである。すると、組合は、6億円余りの脱税をする為に、私に6億円の脱税報酬を払い、更に佐原に4億円の脱税協力金を支払ったことになる。  6億円余りの脱税をするために、都合10億円の謝礼金を支払う、――誰が考えてもありえないことだ。  このような荒唐無稽な報道を、朝日新聞を皮切りに、毎日新聞、読売新聞、サンケイ新聞等、一流と目されているプレスが行ったのである。 四、 社会の木鐸を自任していたはずの新聞は、一体どこに行ってしまったのであろうか。いつから、検察の手先となり、冤罪事件の片棒をかつぐようになったのか。  このようなことは、良識とか常識以前の問題ではないか。 (7)本件逮捕   一、 平成8年2月16日、午前8時半ごろ、一番に風呂に入らされた。この日、検察庁に行く予定という。  午前9時半、松江地検に連行され、本件の法人税法違反容疑で再逮捕される。  午前10時9分、被疑者弁解書なるものを作成。  「全て検察の捏造であり、いいがかりである。当然、無罪である。」と申し向け、署名指印。 二、 「君達は、こんなごまかしをよくやるね。検事としての誇りが、君達にはあるのか。恥を知れ。」 ――私は、検事中島行博を睨みつけた。中島も負けじとばかり、睨み返してきた。両腕を組んで2分位睨み合っていたであろうか、そのうち中島が目をそらした。 三、 この日のノートには次のように記されている。 「事務所がどうなるか。今、確定申告の時期だ。脱税の報道は全国的に大々的に流されるだろう。事務所のことをどうするか。真剣に考えるときが来たかもしれない。わが事務所は、これで駄目になるかもしれない。どうするか。わが人生をどのように立て直すか。  今日はどっと疲れがでたようだ。昨日の起訴、今日の再逮捕。ともかく今日は早く休んで体力を回復させることだ。今日は取り調べがないだろうが、仮にあっても、疲れたと言って拒否しよう。早く横になりたい。もうすぐ6時である。  担当の看守が、オーキューバン(バンソーコー)を一枚くれた。手の指にケガをしていたのである。 『明日から休みになるので、一枚入れておくわ。』うれしかった。このところ一寸でも親切にされると、すぐ涙が出る。涙腺がゆるみっぱなしである。この若い看守もこのごろ少していねいになった。人の情けを忘れてはならない。このような究極的な生活をしていると、特に身に沁みる。  今日は取調べがなかった。」 (8)起訴 一、 平成8年3月7日。私の獄中ノートから引用する、―― 「今日、法人税法違反で起訴されるだろう。ここからいつ出ることができるか。そろそろ身体が限界だ。義歯が昨日はずれた。片方でしか食べられなくなった。」 「一体、どのような形で起訴するのだろうか。事務所のことはどうしたらいいか。でも、しようのないことだ。ゼロ、いやマイナスからの出発ということか。どのように乗り切っていくか。少し心の整理をしなければいけない。」 「20日前、再逮捕される前までは、大きな希望があった。法人税の方は処分保留か不起訴になると思っていたからだ。今はただ、無罪を勝ち取ることだけが、唯一の道となった。ただ、それでも事務所はダメであろう。  あれこれ考えると、頭がおかしくなる。気が滅入る。身体も思わしくない。房にいると、夜も昼も、入れ替わり立ち替わり、看守をはじめいろいろな人が来て、窓から覗き込まれる。さっきも、捜検があった。プライバシーゼロの世界。  40数年、ほとんど一日も欠かしたことのない酒と薔薇。それがない。今まで私は自由気ままに生きてきた。酒と薔薇の日々であった。それが突然こんなところに放り込まれた。一体、私の人生はこれからどうなっていくのか。刑務所行きなど、夢にも考えていなかっただけに、考えがうまくまとまらない。取調が終って、張りつめていた気持が一気にゆるんで、心のバランスが崩れたようだ。  午睡が終った。2時すぎだろうか。もう起訴されているだろうか。このように思い悩むのは、私にいろいろなものに対する未練があるからであろうか。しかし、未練を断つことはできないし、いったいどのように心の整理をしたらいいのか。ちょうど20日前のような状態だ。あの時も、気力が落ち、体力がガクンガクンと落ちた。とにかく体力をつけなければ。それに専念することだ。」 二、 「午後2時頃、中村弁護士接見。起訴は私と組合長の岡島さんのみという。小島、増田、福山の3名は処分保留。  とりあえず、全員起訴という最悪の事態は避けられた。万が一、裁判で負けることになったにせよ、組合長だけは執行猶予となり、実刑にはならないだろう。  結局、私一人にターゲットが絞られたということだ。気持が大分楽になった。これで絶対に無罪を勝ちとる気力が改めて湧いてくるかもしれない。とにかく体力をつけることだ。」 三、 「平成8年3月8日、朝の9時頃、風呂に入っていたら、家族の面会を告げられ、途中で風呂を出る。  妻と二人の息子に会った途端に両眼から涙があふれた。長男に他の人と会うときは、泣かない方がよいとクールに諭されてしまった。外は、私が考えている以上にしっかりしているようだ。  このところ私の感情は激動の状態だ。精神病理学では、このような状態をどのように説明するであろうか。」  二人の息子は、大学を卒業し、横浜と東京を生活の拠点として暮していた。私が逮捕されるという不測の事態に直面した二人は、直ちにそれぞれの生活を切りあげて松江に帰ってきた。妻と事務所とをサポートするためであった。 四、 「午後4時頃、古賀氏が面会に来てくれた。あきらめて、ガクッときていたときに、「面会」の告知があった。うれしかった。古賀氏の前でこそ泣くまいと思っていたが、ダメであった。涙が出て、鼻汁が出て、ハンカチでかんだら、少し血がまじっていた。ギリギリ30分近く話ができた。会うまでは、ああも言いたい、こうも話したいと思っていたが、いざ会ってみると言葉がでない。  しかし、会えただけでなんだか元気がでてきた。力が湧いてきた。  房に戻ったら、すでに夕食が用意されていた。いつになく、うまい。今日はコロッケ二つ。」 五、 平成8年3月9日、起訴3日目のノートに私は次のように記している、―― 「昨夜はよく眠れた。少し体調が戻ってきた。身体が一番だ。気分もよい。みぞれが降っていたが、牡丹雪にかわった。  今日は、万葉の書写をノートで18ページも行った。気持も大分スッキリしてきたようだ。とにかく身体を早くもとにもどすこと。今日の夕食は温かい混ぜ寿司と焼サバと高野ドーフと野菜の煮つけ。うまかった。房内放送を聴くのも楽しくなってきた。」  本来の私がようやく戻ってきたようであった。 (9)検察側証拠開示 一、 起訴がなされた後、検察側の証拠が順次開示されていった。開示された証拠資料を謄写するため、被告人弁護側はコピー機を3台フルに使い、4〜5人で手分けして謄写作業を行った。 二、 検察側開示資料のコピーが弁護人によって次々と私の独房に差し入れられた、――  (1)平成8年4月22日差入、4月23日入房分、2人分の供述調書、6冊。  (2)同年4月23日差入、4月24日入房分、12人分の供述調書、11冊。  (3)同年4月24日差入、4月25日入房分、11人分の供述調書、12冊。  (4)同年4月25日差入、4月26日入房分、捜査報告書等、14冊。  (5)同年4月26日差入、4月27日入房分、捜査報告書等、4冊。 三、 独房に差し入れられた訴訟記録(開示証拠)の写しは、合計47冊にもなった。  狭い独房が訴訟記録であふれるようになり、私は三列にうず高く積み上げて整理した。 四、 弁護人から、全てに目を通して平成8年4月29日までに、同意・不同意の一覧表を作成するように指示がなされた。 五、 私達は、被告人弁護人側の基本方針として、検察が開示した証拠は正しいものである限り進んで同意することにした。  裁判を迅速に進め、できるだけ早く終結させることを望んでいたからである。   通常の脱税事件とは異なり、組合の経理は完全であり、不透明な金銭の流れは一切ないために、マルサ・検察の提出する原資料はそのまま同意しても差しつかえなかったのである。 六、 房内で訴訟記録との格闘が始まった。検討する日数が限られている。それに一日の時間が自由に使えない。就寝時間とされている夜の9時から、朝の7時まではフトンの中でじっとしていなければならず、書類に目を通すこともメモを書くことも許されない。更に、就寝時間とされている夕方6時から9時までの3時間は、書類に目を通したりメモを書いたりは許されてはいたものの、事実上不可能に近かった。房内には手許に灯りがなく、高い天井に一つだけ18Wの蛍光灯がついているだけの薄暗い状態であり、元来眼がさほどよくない私には無理であった。 七、 しかし、窮すれば通ず、とはよく言ったものだ。半ば寝ぼけていた私の脳細胞がフル回転を始めたのである。 八、 私は、検討結果をB4版の罫紙にまとめ、弁護人宛の「法人税法違反事件調書の同意・不同意一覧表」を作成し、平成8年4月30日、朝9時に接見に訪れた大野敏之弁護人に渡した。  尚、B4版の罫紙は、房内自弁物品として買い求めたもので、一冊330円であった。 九、 敵性証人となり得る佐原良夫及び吉川春樹両人の供述調書についても、全部不同意とすることはせずに、部分的に不同意とすることにした。他の調書についても同様であった。  それにしてもこれだけ大量の、しかも嘘の自白がギッシリつまった供述調書が用意されたのは、驚きを通りこしてあきれてしまった。  総人数25人、この中には私も含まれており、私の供述調書の中には当然のことながら、嘘の自白は一つもなかったものの、他の24人の供述調書に関しては、それぞれ濃淡の違いこそあれ、嘘の自白のオンパレードであった。  調書に眼を通し、吟味してみると、次から次へと嘘の自白が出現し、その度に赤線を引いて×印をつけていった私は、何回も気分が悪くなり、嘔吐しそうになった。 一〇、捜査報告書については、添付された原資料は間違いないもので、同意としたが、それに付されている説明は事実に反するトンチンカンなものであったので、不同意とした。  またマルサが作成した資金のフローチャートは正確なものであり、同意とした。問題とされた16億5千万円の資金の流れだけでなく、補償金総額42億6千万円の資金の流れについても、整然とB4版のフローチャート図に表示されており、感心した。これらは確かに、マルサのプロとしての仕事であった。  しかし、それらのチャート図に一定の意図を持って付された事実に反する説明については不同意とした。  その他の査察官調査書についても、査察官の評価・憶測が入っているものについては不同意とした。 (10)日常業務の処理 一、 逮捕され拘置監に収容されたことは、公認会計士としての私に致命的な打撃を与えた。私は事務所の崩壊と会計士人生の終焉とを覚悟した。  しかし、自ら投げだしてしまうことだけはしたくなかった。力尽きるまでやってみて、後は運にまかせようと考えた。 二、 幸い、岐阜の高庭敏夫公認会計士が私の事務所を支援するために駆けつけてくれた。スタッフに動揺はあるものの、それぞれが自らの職場を守り、維持していく気概は失われていない。 三、 更に、私の事務所は従来から一人一人のスタッフがプロ意識をもって仕事にあたってきており、私自身の仕事は特殊事案の判断とその処理に限られていた。  従って、事務所の顧客の動揺をおさえることができれば、事務所の維持は可能であると判断した。  平成8年3月10日、私は関係者への挨拶文をしたためて中村弁護人に託し、顧問先等の関係者への発送を依頼した。  しかし、私の挨拶文は発送されることはなかった。職員の古賀氏がワープロで清書し、800人余りの宛名書きを終えた段階でストップがかかったからである。  加山副所長と高庭公認会計士の意見として、顧問先の中には私が権力と闘っていくことに不安を感じている人達が少なからず存在するため、このような挨拶文を出すと、かえって関係先の動揺を増幅することになるのではないか、したがってしかるべき時期がくるまで発送を控えたほうがよいのではないか、ということでまとまり、発送しなかった旨、中村弁護人から伝えられた。  私は現場サイドの考えを了とし、発送を見合わせることに同意した。  いわば私の幻のメッセージは次のとおりであった。 拝啓  この度の私の逮捕並びに起訴につきましては、皆様には、多大なご心配とご迷惑をおかけし、誠に申し訳なく思っております。長年にわたって、私に大きな信頼を寄せていただいてきただけに、心苦しくお詫びのしようもありません。  しかし、この度の一連の騒動は、国税並びに検察当局が、事実にあらざる架空のシナリオによって、私を断罪しようとしていることによるもので、国家権力を背景にした弾圧であり、許すことができません。このような事態になった以上、私は身を賭して闘っていく所存であります。  私といたしましては、一刻も早く勾留を解かれ、親しくひざを交えてお話したいと思っています。当面の間、幸いにも、私の事務所は、加山副所長のもとで、高庭敏夫公認会計士の支援を得て、運営させていただくことになりました。高庭氏は、私が最も信頼をおく二十数年来の会計士としての友人です。私同様よろしくお願い申し上げます。  私が法に触れるようなことをしていないことは、裁判の結果が示すことになるでしょう。今一度、私にチャンスを与えていただき、引き続きおつきあい賜ることができますならば、これに過ぐる幸せはありません。  書面にて十分に意を尽くすことはできませんが、私の気持ちをおくみとりくださいますよう、伏してお願い申し上げる次第でございます。        敬具        皆々様 山根治   四、 事務所の日常業務に関して、房内ですべきことは概ね次の3つであった。  1.資金繰り  2.確定申告書の署名  3.青色申告の取消しと更正通知への対応 五、 事務所の資金繰りについては、通常の資金手当の心配はなかったが、予想外の国税関連の支出が発生したため、その対応に苦慮した。  広島国税局が組合の脱税を摘発すると同時に、私と私の関連会社を第二次納税義務者と勝手に決めつけ、差し押さえの挙に出たからである。ただ、国税局としても屁理屈には限界があったらしく、私と関連会社の全資産を差し押さえて換価処分することまではしなかった。  私の勾留が予想外に長引いたため、資金繰りはまさに綱渡りの状態であった。  私が291日ぶりに保釈されたとき、保釈金の支払いも重なって事務所の資金繰りはパンク寸前であり、私がまっ先に取り組んだのは事務所の資金繰りの立て直しであった。  金融機関からの融資が期待できないなかで、貸金の回収、換価可能資産の売却等できる限りの対策を講じ、3ヵ月程かけて旧に復すことができた。 六、 関与先の税務の確定申告書については、税理士として署名した。房内での署名は、200件を超えた。  確定申告書は期限内に提出することが義務付けられており、一日でも遅れると過少申告加算税というペナルティが課されるので、期限の一週間前には差し入れてもらうことにしていた。  当初は他の差入物品と同様に、房内に到達するのに3、4日かかり、更に宅下げするのにも相当な日数がかかったため、期限内に提出することができなくなるおそれが生ずる状態であった。  私は次のように申し向けて、一発かますことにした、――   山根「確定申告書というものは法定期限までに提出することになっており、一日でもずれるとペナルティがかかってきます。私は、そのことを考えて、一週間ものゆとりをもって差し入れしてもらっています。  刑務所の側がモタモタしていたために期限内に提出できなくなった場合には、どうしていただけますか。  ペナルティは税額の10%、私の関与先に負担していただく訳にはいきません。当然松江刑務所で負担して下さいますね。  まあ、税務署も刑務所も同じお国のことですし、ペナルティといってもたいしたことありませんからね。  なに、税額が1000万円としたらその10%で100万円、1億円としたら1000万円ですからね、この位の金額なら松江刑務所予算の予備費で十分賄えるでしょうね。」  私の話に耳をすまして聞いていた若い担当看守は、緊張のためであろうか、顔がいくぶんこわばり、物も言わずに管理棟に駆け込んだようであった。  以後、確定申告書については、特別扱いとなったらしく、差入れから宅下げまで、特急便となった。 七、 私が最も神経を使ったのは、組合の税金に関することであった。  仮に刑事事件で無罪となったとしても、税金についてはしかるべき対応をしておかなければ、行政サイドで一人歩きをし、各種税金の支払が確定するおそれがあったのである。 八、 平成8年3月6日、原処分庁である益田税務署は、組合に対して青色申告承認取り消しの処分を通告した。  同年3月25日、組合の四事業年度にわたる更正処分(税金の追徴)の通知が追い打ちをかけてきた。  その後、島根県と益田市から各種各年度の税金の更正処分が次々と通告されてきた。 これらの処分は、通告を受けた日から二ヶ月以内に異議の申立てか、もしくは不服審判の申請をしなければ、自動的に確定してしまう。  私は、時間稼ぎをするために、取り敢えず原処分庁に対して組合の代理人として異議の申立てをすることにした。  房内で、それぞれの異議申立書を作成し、宅下げして事務所職員に清書させ、提出した。 (11)盗聴とひっかけと尾行 一、 平成8年2月6日、午前10時45分から11時4分まで中村弁護士と面会。中村弁護士曰く、「自宅の奥さんの方に、野村証券から電話があり、『逮捕直前に山根から解約の申し入れがあった。300万円程どこに送金したらよいのか、銀行の口座番号を教えて欲しい』と言ってきた。自分にはよくわからないので、聞いてきてくれと言われた。」 山根「現在はどこの証券会社とも取引していない。かつて取引していたのは、コスモ証券だけで、2年半前にNTT株100株を売却してから一切の取引はない。野村証券など全く関係ない会社だ。検察かマルサのひっかけではないか。妻から私の隠し口座を聞き出そうとしたのではないか。」  私に隠し口座などあるはずがない。薄汚い手を使う連中である。 二、 平成8年2月8日、午前11時から11時30分まで、中村弁護士と面会。  中村弁護士曰く、「中村法律事務所と自宅の電話にザーッという雑音が入るようになった。山根事務所と山根の自宅にも同じような音が入っている。どうも盗聴されているようだ。N通信かT電気に頼んで調べてもらってもよろしいか。」 山根「徹底的に調べてもらって下さい。」 中村弁護士「もっとも盗聴してもらったほうが、かえっていいかもしれませんね。自分は皆さんに、良いとか悪いとかの判断は必要ない、事実ありのままを話せばよいと言っているんですから。」 山根「今度誰かとの電話の中で、マルサにごくローサンとでも言ってエールを送ってやったらどうですか。盗聴しているとしたら慌てるでしょうね。」   中村弁護士は、盗聴の証拠をつかんだら島根県警に告発すると言った。  私は、翌日の取調べの折に、中島行博に対して盗聴の件を伝えた。同年2月9日、午後4時30分頃である。  先日は、野村証券の名をかたった「ひっかけ」、今度は盗聴ときた。まさに何でもありの世界である。検察の正義の砦としての誇りはどこに行ってしまったのであろうか。 三、 平成8年1月26日、私が逮捕されてから、主な人物に尾行がついた。私の妻、元組合長の福山義弘氏、職員の大原輝子氏と古賀益美氏、それに中村弁護士の6人である。尾行をしたのは、マルサの連中であろう。  尾行に気がついたのは、古賀氏であった。背後に気配を感じてふりむくと、常に同じ二人がいたというのである。二人のうちの一人は、中年の小太りの女性であった。 (12)起訴後の捜査 一、 私は、平成8年2月15日、別件の公正証書原本不実記載同行使容疑で、同年3月7日、本件の法人税法違反容疑で起訴された。 二、 私の捜査は、起訴された後も終ることなく続けられた。平成8年4月から同年7月頃にかけて、私と私の関連会社及び、私と深い関係にある人達の、主に銀行口座が徹底的に洗われた。  島根、鳥取両県の主要金融機関に改めて捜査が入り、主に私に関する隠し口座を捜し出そうとした形跡がある。 三、 素人の検察事務官にはできそうもない捜査であり、おそらくはマルサの連中が手分けをして行ったのであろう。 四、 思うに、私を起訴してみたものの、検察は全く自信がなかったのではないか。  仮装売買と騒ぎたて勢い込んで起訴に持ち込んだものの、検察は起訴の時点で、検察自らが証拠を捏造していることを十二分に承知していたために、普通であれば、ほゞ100%検察の言いなりになっている裁判官ですら、無罪の判決を出すのではないかと危惧していたのではなかったか。   このために、私の余罪をなんとしても見つけ出し有罪に持ち込む必要があったのではないか。  異例とも言える起訴後の大がかりな捜査は、以上の疑念を抱かせるには十分なものであった。 三.公判の現場から (1)第一審 (ア)冒頭陳述   一、 平成8年5月7日、第一回公判が開かれ、公判検事立石英生は、松江地裁第31号法廷で冒頭陳述を行った。  立石が作成した49ページの冒頭陳述書には、4つの計算図表が別紙として添付されている。 (別紙1.)資金の流れチャート図  売買代金1,650百万円の流れが追跡されており、このチャート図自体は正しいものである。B4版、一枚。 (別紙2.)逋脱所得の内訳明細書  組合の3事業年度にわたって、費目別に逋脱(不正)所得が列挙されており、それぞれの証拠として査察官調査書が挙げられている。検察がマルサと共に捏造した中核部分である。B4版、4枚。 (別紙3.)修正損益計算書  組合の3事業年度にわたって、公表金額に別紙2.の逋脱所得を加味して計算した損益計算書。別紙の逋脱所得が虚構のものであるので、これら修正損益計算書も虚構の産物である。B4版、8枚。 (別紙4.)税額計算書  組合の3事業年度にわたって、別紙3.で計算された修正課税所得をもとに算出された法人税と脱漏税額の一覧表。修正課税所得が虚構であるので、これら各年度の脱漏税額も虚構である。B4版、1枚。 〈脱漏税額〉 @平成3年3月31日期 203,356,200円 A平成4年3月31日期 250,131,600円 B平成4年5月22日期 67,231,700円 合計 520,719,500円   二、 初公判において、検事立石英生が読み上げる冒頭陳述を、私は被告人席で聴いていた。  はじめのうちこそ、立石は、私を含めた各被告人の経歴と組合が42億6000万円の移転補償金を受け取るに至った経緯について、事実に即して述べていたものの、途中から、荒唐無稽なことを言い始めた。神聖であるべき刑事法廷の場で、虚構のストーリーが、検事立石英生によって展開されたのである。 三、 被告人席にあった私は、現実の出来ごととは思えない気持で耳を傾けていた。禍々《まがまが》しい言葉が次から次へと立石の口から繰り出され、私は胃が締めあげられる思いを味わった。 「仮装売買」 「4億円の融資」 「共謀」 「還流」 「仮装取得」 「謀議」 「実在しない財団法人松江支部」 「税務上のフィクション」 「代替資産として取得したこととして」 「捏造」 「罪証隠滅工作」 「犯行」 四、現時点で、改めて立石英生が創りあげた虚偽の冒頭陳述書を読み返してみると、当時の法廷の状況がくっきりと甦ってくる。  小太りで背の低い立石英生のしまりのない顔と、背広の胸につけられた検事のバッジとが、不協和音と共に私の脳裏を去来する。  秋霜烈日――検事の白いバッジに託された検察の理念と、立石英生の負のイメージとが余りにも離れすぎているのである。 五、 立石が無理に無理を重ねて私を罪人に仕立てあげた冒頭陳述書は、ほとんど全てが捏造であり、虚偽の作文である。  しかも、改めてこの冒頭陳述書を仔細に検討してみると、立石英生が脱税という犯罪を証明しようとして明示している証明方法が、不完全なものであり、その意味では、明らかに間違っていることが判明する。 六、 立石は、「立証方法は、損益計算法による。」と記し、法廷でも同様のことを述べた。  損益計算法は、財産計算法に対応するもので、それぞれ企業会計の損益計算書と貸借対照表に相当するもののようである。  現に、別紙3.で組合の各期の損益計算書をベースにして修正損益計算書が作成されており、これをもって損益計算法と呼んでいる。 七、 損益計算法とは、法人税法による場合には、各年度の益金から損金を差し引いて所得を計算する方法であり、財産計算法とは、年度末の正味財産から年度始めの正味財産を差し引いて所得を計算する方法である。  正規の簿記の原則が前提となっている現行法人税法のもとでは損益計算法による所得と、財産計算法による所得とは、当然一致するし、また一致しなければならない。  換言すれば、損益計算法による所得は、財産計算法による所得と一致することが確認されてはじめて、正しい所得であることが証明されるのである。  正規の簿記の原則に含まれる複式簿記の原則に準拠している企業会計にあって、損益計算法と財産計算法とは車の両輪の関係にあり、所得を計算するうえで不可欠のものとされている。 八、 ところが、脱税事件の判例を調べてみると、脱税の立証方法は原則として損益計算法によるものとされており、例外的に財産計算法によることも認められているようである。  つまり、判例は、2つの計算法のうちいずれか一つをもって立証すれば十分と考えている節がある。 九、 この背景には、次の2つの事情があると考えられる、――  一つは、法人の所得(利益)計算は、法人税法第22条第一項によって、益金の額から損金の額を差し引いた金額を所得とする、と定められており、この条文による限り、損益計算法が原則であるとしても必ずしも間違いではないと言えること、二つは、脱税で摘発されるほとんどの場合、仮装もしくは隠蔽がなされており、記帳がなされていなかったり、仮に記帳がなされていたとしても、二重三重の裏帳簿(俗にB勘という)による操作が行なわれており、正規の損益計算書と貸借対照表とを作成することが不可能であり、いずれか一方の計算法によらざるを得ないこと、 ――この二つである。 一〇、しかし、法人税法は、所得計算において、損益計算法だけで事足れりとしているわけではない。  法人税法は、第22条第一項で、所得の計算方法を規定する一方で、同条第四項で、「一般に公正妥当と認められる会計処理の基準に従って計算されるものとする」と規定している。  即ち、法人税法は、法人所得の計算は、企業会計原則に従って行うべきことを規定しているのである。 一一、現代の企業会計原則は、動態的会計理論とゴーイング・コンサーン(企業継続の原則)とを根幹に据えており、年度末における資産と負債の確定は、年度の所得を計算するうえで、必要不可欠のものである。  つまり、年度末の資産負債の額を確定(資産と負債の額を確定して一覧表にしたものを貸借対照表という。尚、貸借対照表のことをバランス・シートというが、バランスとは、資産と負債の残高のことである)しなければ、その年度の所得(利益)の計算ができないのである。  企業会計原則に従うべきことを定めた現行の法人税法にあって、貸借対照表は、所得計算をする上で絶対的に必要なものであり、単なる参考資料ではない。 一二、私が関連した組合の場合、当然のことながら企業会計原則に従い、明瞭に記帳し、正確な財務諸表を作成していた。  検察当局は、マルサの調査にもとづいて、不正と認定した16億5千万円の金の流れを正確に追跡し、冒頭陳述書の別紙1.として、「資金の流れチャート図」を作成している。資金の流れに不明瞭なものは一円も存在しない。 一三、このことは何を意味するのであろうか。  16億5千万円の不動産売買を仮装と認定し、それを根拠に不正(脱漏)所得を損益計算法によって計算した訳であるから、資金の流れが明確になっている以上、自動的に貸借対照表が出来るはずである。複式簿記の原則からして当然のことである。 一四、しかるに、検察は、修正損益計算書を、別紙3.で提示しているものの、修正貸借対照表は提示していない。資金の流れが明瞭であり、修正損益計算書を作成した段階で、自動的に完成しているはずの貸借対照表を提示していないのである。  通常、公認会計士による監査証明は、損益計算書のみを対象にすることはありえない。貸借対照表と一体になったものとして、はじめて監査証明の対象となりうるのである。  損益計算書のみであれば、一定の条件を付けた上での単なる説明の域を出るものではない。貸借対照表の裏付けがなければ、証明にはならないのである。 一五、帳簿が存在しないとか、資金の流れが明瞭でない場合であればともかく、組合のケースでは、正しい帳簿が存在し、資金の流れも整然としており、敢えて修正損益計算書を作成し、脱漏所得を計算しようとするならば、それが正しい計算であることを立証するためには、修正貸借対照表の裏付けが不可欠なのである。  これは、法人税法で規定している「一般に公正妥当と認められる会計処理の基準」(法人税法第22条第四項)が当然に要請していることである。 一六、では、検察は何故しなかったのか。何故、修正貸借対照表を提示しなかったのか。  検察は提示しようにも、できなかったのである。検察が捏造した荒唐無稽な嘘が誰の目にも明らかになるために、できなかったのである。 一七、たとえば、佐原良夫の側に結果的に残留することになった4億円を例にとりあげて検討してみよう。  この4億円の性格をめぐって、検察の考え方は二転三転する。  検察はこの4億円について冒頭陳述のみならず最後まで明確に説明しようとしなかった。その時々の文脈に応じて適当に説明らしきものを加えていたにすぎない。  改めて、整理してみると次の5つを使い分けていたようである。  1.佐原の会社に対する譲渡担保にもとづく組合からの貸付金。  2.組合が支払った佐原個人に対する脱税協力金。  3.山根が支払った佐原個人に対する脱税協力金。  4.佐原個人に対する組合からの貸付金。  5.佐原個人に対する山根からの貸付金。  1.の譲渡担保にもとづく組合からの貸付金とする見方は、マルサの捜索令状に示されていたもので、検察も思い出したように、論告要旨の中で触れている。しかし、控訴趣意書の中では、態度を一変させ、自ら否定している。  この見方に立つと、4億円は、佐原の会社に対する貸付金として組合の貸借対照表に残留する。  2.組合が支払った佐原個人に対する脱税協力金とする見方は、私を逮捕勾留した後に、検察がマスコミにリークしたものである。  この見方に立つと、4億円は、組合側からは社外流出となり、貸借対照表には残留しない。  3.山根が支払った佐原個人に対する脱税協力金とする見方は、2.と同様、検察がマスコミにリークしたもので、控訴趣意書の中でも触れられている。  この見方に立つと、4億円は、組合としては、山根に報酬として支払ったものとみなせば、社外流出として貸借対照表に残留しないし、山根に対する貸付金であるとみなせば、山根に対する貸付金として貸借対照表に残留する。  4.佐原個人に対する組合からの貸付金とする見方は、冒頭陳述書に示されているもので、論告要旨の中でも触れられている。  この見方に立つと、4億円は、佐原個人に対する貸付金として組合の貸借対照表に残留する。  5.佐原個人に対する山根からの貸付金とする見方は、冒頭陳述書に示されているもので、論告要旨の中でも触れられている。  この見方に立つと、4億円は、組合としては、山根に報酬として支払ったものとみなせば、社外流出として貸借対照表に残留しないし、山根に対する貸付金であるとみなせば、山根に対する貸付金として貸借対照表に残留する。  以上についてまとめると、―― 貸借対照表への計上(適要) 1.貸付金400,000千円(佐々木の会社への貸付金) 2.なし(社外流出。佐々木に対する脱税協力金) 3.なし(社外流出。山根への報酬) 4.貸付金400,000千円(山根への貸付金) 5.貸付金400,000千円(佐々木への貸付金) 6.なし(社外流出。山根への報酬) 7.貸付金400,000千円(山根への貸付金)  これを更に整理してみると、―― 1.組合の貸借対照表上に計上される場合  (1)佐々木の会社への貸付金400,000千円  (2)山根への貸付金400,000千円  (3)佐々木への貸付金400,000千円 2.組合の貸借対照表に計上されない場合  の4つのケースに集約されることが判る。  即ち、この4億円をめぐってだけでも、4つの異なった貸借対照表が存在することになるのである。  これは、一つの損益計算書に対して、4つの異なった貸借対照表が存在することを意味するものであり、現行の企業会計原則を根幹におく限り、絶対にありえないことである。  ありえないことが何故起こったのか。検事立石英生が冒頭陳述の別紙3.で明示した修正損益計算書が誤っているからだ。誤っているからこそ、このような矛盾が生じたのである。 一八、このように、4億円に焦点を合わせて検討してみただけでも、検察のとらえ方は二転三転どころではない。七転八倒といったところである。  検察は、複式簿記が支配する企業会計の領域で、真実をねじ曲げて虚構のストーリーを押し通そうとしたために、このような結果を招いたのである。  複式簿記を相手に嘘をつき通すことは容易ではない。立石のような企業会計の素人には尚更のことである。 一九、以上、立石英生は、冒頭陳述において、法人税法の意味するところを曲解し、脱税の立証を損益計算書のみでしようとした。それは、同人が、平成10年3月24日に行なった論告求刑の際にも引きつがれた。  貸借対照表の裏付けを欠いている損益計算書は、単なる説明の域を出るものではなく、いかなる意味においても証明などと言えるものではない。 (イ)公判検事 立石英生 一、 第一審は、平成8年5月7日の第1回公判を皮切りに、平成10年10月15日の第32回公判で結審し、平成11年5月13日の第33回判決公判で幕を閉じた。  公判廷の傍聴席には、常に2人のマルサの姿があった。黒っぽい背広を着用しネクタイを締めた、おきまりのドブ鼠スタイルである。 二、 検事立石英生は、第一審の33回に及ぶ公判廷に、平成9年2月18日の第11回公判、同年8月12日の第20回公判及び平成11年5月13日の第33回公判以外の全てに公判検事として出廷した。 三、 私は、被告人席から立石英生という人物を具さに観察した。  背が低く小太りの立石英生は、おもむろに検事席から立ち上がり、下腹を少しつき出すようにして証言席に近づき、ヘラヘラした口調で尋問をし、身体を大きく見せようとするためであろうか、肩をゆするクセがあった。  被告人とか弁護人に食ってかかるときには、きまって声が甲高くなり、口唇が突出し、ひょっとこさながらの顔付きとなった。  私は、立石英生にコメディアン検事なる肩書きを付与することにした。 四、 コメディアン検事立石英生が、刑事法廷でヘラヘラと支離滅裂なことをしゃべり始め、私は被告人席から覚めた視線で立石の道化芝居を冷ややかに見つめていた。法廷で演じられたのは、喜劇であると同時に悲劇であった。  荒唐無稽な言葉が繰り出されることから喜劇であり、マルサに繰られる道化であることに本人が気づいていないことから悲劇であった。  私の中では、立石英生に対する憎悪の感情が次第に薄れ、憐憫の情が支配するに至った。私は法廷という劇場で、立石英生が演ずる悲喜劇を冷徹に見つめていたのである。 五、 立石英生は法廷に多くのものを証拠と称して持ち出してきた。しかし、それらは全て検察のストーリーに都合のよい証拠ばかりであり、都合の悪い証拠は隠しているらしいことが判ってきた。  とくに、供述調書(検察官面前作成調書―検面調書)のかなりの部分が法廷に開示されておらず、検察の偽りの主張を突き崩すためにも開示が必要であった。 六、 平成9年2月18日、中村弁護人は、開示されていない9人の供述調書の開示を求めて、証拠開示の請求を松江地裁に対して行なった。  同年5月6日、同年2月18日付の開示申立について、裁判所は職権発動をしないとして、却下した。 七、 平成9年12月2日、中村弁護人は、再度証拠開示の請求を行なった。このたびは、とくに必要な2人の供述調書にしぼって行なったのである。  同年12月16日、長門栄吉裁判長は検察官に対して証拠開示の勧告をした。  平成10年1月13日、勧告に従って立石英生は、弁護側が請求した証拠を開示した。不承不承であった。 八、 立石英生は、2回にわたる弁護側の証拠開示請求に対して異議を唱え、平成9年3月3日付、及び同年12月2日付の意見書を松江地裁に提出している。  立石は、2つの意見書で、現行刑事訴訟法における当事者主義を形式的にふりまわし、 「『何か有利な証拠が見つかるかも知れない』程度の漠然たる期待のもとに検察官手持ち証拠の開示を求めることは典型的なフィッシング・エキスペディションとして許容されるべきではない。」  として、裁判所の訴訟指揮権を発動すべきではないと申し立てた。  立石は刑事裁判を単に勝敗のみを競うスポーツかゲームのように考えていたようである。  しかも、同じスポーツでもスポーツマンシップを基本とするスポーツではなく、ゲームについても、フェアなルールにもとづいたゲームではなく、どのような不正な手段を用いてでも単に勝てばよいといった類のスポーツであり、ゲームであったようだ。 九、 立石は、フィッシング・エキスペディションという片仮名がよほどお気に入りのようで、4回も繰り返し使っている。ちなみに、フィッシング・エキスペディションとは、証拠あさりという程の意味合いのものであろう。  立石は意見書の中で、四の五のと屁理屈をこねまわしているが、要は、何としてでも隠したまゝにしておき、法廷に出したくないのである。  立石英生を支配していたのは、正義の砦たる検察官としての矜持でもなければ、真実を追求する検察官としての秋霜烈日の精神でもなかった。  自らが捏造した虚構のストーリーを何が何でも法廷で貫徹させるために、必死になって足掻いている姿は、哀れとしか言いようのないものであった。 一〇、立石英生が隠匿していた供述調書は、26通にも及ぶ大量のもので、その内容も驚くべきものであった。稿を改めて、「検面調書、その詩と真実」及び「その他検察官言行録」で詳述する。 一一、立石英生は、中央大学法学部出身である。中央大学法学部といえば、数多くの優れた法律専門家を輩出している名門だ。  司法試験を目指して勉学に励んでいたときの立石英生は、真面目な学徒として理想に燃えていたことであろう。  公判検事として私の前に現れた立石英生と、純粋であったに相違ない法律を学ぶ学徒としての立石英生とのイメージ落差は余りに大きく、私は唯とまどうばかりであった。 (ウ)論告求刑 一、 捏造による断罪が更にエスカレートするのは、立石英生が作成した論告要旨である。平成10年3月24日、第30回公判廷で検事立石英生は、論告求刑をなし、そのとき彼が作成した論告要旨は248ページにも及ぶ『力作』である。 二、 当時私は、この荒唐無稽な論告要旨を詳しく分析し、『論告要旨における問題点―その欺瞞と誤謬―』と題する文書(16ページ)を作成し、弁護人に渡している。弁護側の最終弁論に資するためである。  驚くことには、事実に明らかに反する記述で、事実に反することが直ちに証明可能なものが48もあり、立石の論理矛盾、自己矛盾と考えられるものが6つもあった。立石は、直ちに嘘と判ることを法廷の場で堂々と開陳し、自らの陳述が自家撞着しているのに気がついているのかいないのか判らないが、平気で述べているのである。虚構のストーリーを無理やり証明しようとするものであるから、自己矛盾等は当然の帰結であると思われるものの、法廷で平然と述べるに至ったのは通常人の理解を超えるところである。異能の人なのであろう。  何故このような支離滅裂なシロモノが作成されるに至ったのか、その理由を憶測すると、私を直接調べた検事中島行博と同様に、検事立石英生も、経済社会と企業会計の実情にうとく、法人税法についてもほとんど理解が及んでいないことに起因するようである。  企業会計と法人税法の基本を知らないからこそ、平気で大胆な『論理』を展開できたのであろう。裏で指南しているマルサの偽りの言い分を、十分に咀嚼しないまま、片っ端から安易にとりあげて、なんとか文章に仕立て上げた結果である。  立石には悲劇であり、第三者には喜劇である。コメディアン検事立石英生の面目躍如といったところである。  歪んだ法律知識(立石の言葉によれば、独自の見解)をベースに、企業会計と税法の論点に関してはマルサの繰り人形と化して、酒を浴びるほど飲んで、夢幻の中で書き上げたものと評する以外、言いようのないものである。 三、 立石英生は、論告では、「本件事案が悪質かつ重大な事犯であるとともに、被告人らの刑事責任は重いことは明らかであって、とりわけ本件各事件につき中心的役割を果たした被告人山根の犯情は極めて重大であると言わざるを得ない」と断罪し、私に対して「懲役3年の実刑」を求刑した。  この時点では、私の無実を証明する多くの証拠が法廷に開示され、立石英生が通常の理解能力を有してさえいれば、このような断罪は到底なし得なかったであろう。  まさに信じ難いことが、検事という国家権力の名のもとに行われたわけであり、ここで断罪すべきは私ではなく、数多くの証拠を捏造してまで私を冤罪に陥れようとした立石英生ではないか。権力を持った検事という名の無法者が、今の日本に少なくとも一人存在する訳であり、今も尚、立石英生が同様のことを日本のどこかでしているのではないかと考えると、肌寒い思いがする。 四、 私はさきに、マルサの大木洋を「切れ味の鋭い日本刀をやたら振りまわして遊んでいる訳のわからないガキ大将」と形容し、危険極まりない存在であると評した。  この伝でいけば立石英生は、日本刀に加えて実弾をこめたピストルをもてあそび、時折面白半分にぶっ放しては喜んでいる国家公認の岡っ引きとでも言えようか。  検察官立石英生は、捏造した事実をもとに勝手気ままに論断し、論理矛盾もおかまいなしに悪口雑言を浴びせて断罪する特権を国家から与えられているようだからである。  しかも、本人はカルト信者よろしく、自らを正義の味方であると信じ込んでいる節がある。困ったことである。  検察の中には、死に至らしめる国家公認の凶器を与えられた岡っ引きのカルト集団が存在すると言ったら言いすぎであろうか。 (エ)最終弁論と意見陳述 一、 平成10年3月24日に、検察官立石英生が行なった論告求刑を受けて、私を含めた3人の被告人は、三人の弁護団と度々会合を開き、最終弁論にそなえた。 二、 平成10年5月26日、第31回公判廷で、弁護側は509ページに及ぶ弁論要旨を準備して、最終弁論を行なった。中村寿夫主任弁護人のほか、松原三朗及び大野敏之弁護人が立ち会った。 三、中村主任弁護人による最終弁論の陳述が終った後、私は意見陳述を次のとおり行った、―― 平成10年5月26日        意見陳述  裁判を終結するのに際して、一言申し上げます。  この事件の本質は、佐原良夫という詐欺師に私と組合とが騙されたことにあります。そのような佐原という人物を見抜くことの出来なかったのは私の不徳の致すところであり、その不明を深く恥じている次第であります。私を心から信頼して下さった組合員の皆様にはお詫びのしようもございません。  国税の査察が入ったり、三人の組合員の方々が逮捕までされ、連日のようにあることないことがスキャンダラスに報道され、言葉に言えない位のつらい思いをなさったことに思いをいたす時、組合の方々に対して、深くお詫びを申し上げると共に、この償いは私の一生をかけてさせていただく所存でございます。 また、私の部下として、私を信頼して忠実に職務を果たして下さった小島さんまでが逮捕され、起訴されるに至り、結果的に多大なご迷惑をおかけしたことは、誠に心苦しく、この場で改めて、深くお詫びする次第であります。 更に、三百日近くも拘留され、社会的に大きな汚名を着せられた私に対して、従来と変わることなく、私の事務所から離れることなく、仕事を依頼して下さっている数多くのクライアントの皆様には感謝の気持ちで一杯です。  国税当局はともかくとして、私がこれまで厳正かつ公正であると信じきっていた検察当局までが、私の必死の説明を全て無視する形で起訴をし、偽りの事実を構築してまで、私と組合とをムリヤリ断罪しようとしていることに関しては、ただただ唖然として申し上げる言葉もございません。起訴をする前に、今一度冷静に真実を見据えてもらえなかったことが返す返すも残念であります。  私は日本における裁判制度を信じています。この事件では、何ら隠されているものはなく、その全てが法廷にさらけ出され、明らかになっています。事実を事実として捉え、公正な裁きがなされることを固く信じていることを申し上げ、意見陳述を終わります。        山根治 四、 平成10年10月15日、第32回公判廷で、検察は論告要旨の補充を行ない、弁護側も弁論要旨の補充を行なって、結審した。  判決の宣告は、平成11年1月19日とされていたが、同年2月25日に変更された。その後、更に、同年5月13日へと再度変更された。 (オ)判決 一、 平成11年5月13日、松江地裁第13号法廷で、第32回公判が開かれ、長門栄吉裁判長が判決文を読み上げた。右陪席には、第1回公判から第31回公判までの佐藤拓判事にかわった山口信恭判事が座り、左陪席には、第13回公判からそれまでの次田和明判事にかわった奈良嘉久判事が座った。  判決書の記名は、裁判長裁判官長門栄吉と裁判官奈良嘉久の2名のみであり、「裁判官佐藤拓は転補のため署名押印することができない」旨の記載が判決書の末尾になされていた。 二、 判決書は、本文が440ページに及ぶものであり、別表一.二、及び別紙1(二葉)、別紙2(4葉)、別紙3(8葉)が添付されていた。  尚、当日法廷で読み上げられたものは、52ページの判決要旨であり、判決書は後日交付された。 三、 判決の内容は、本件無罪、別件有罪というものであり、完全無罪を信じていた私には意外なものであった。  懲役1年6ヶ月、執行猶予3年、長門栄吉裁判長が主文を読み上げたとき、私の顔から血の気が引いた。執行猶予付きとはいえ、有罪だ。傍聴席がざわついている。  しかし、肝腎の本件は無罪である。少なくとも最悪の事態だけは避けることができた。私は次第に落ち着きをとり戻してきた。 四、 私は第1審判決後、親しくしている800人程の人達に事情説明のための文書を作成し、送付した。(*「参考資料2」を参照) (2)控訴審 (ア)控訴趣意書   一、 仮装売買による脱税(本件)に対して無罪を言い渡した第一審判決に対し、松江地方検察庁は控訴した。  平成11年12月20日、松江地方検察庁の検事栗原雄一は、広島高等裁判所の松江支部に宛てて、控訴の理由を控訴趣意書(平成11年(う)第28号)として提出した。  本文298ページに2つの別表が付された大部のものである。 二、 栗原雄一が作成した控訴趣意書は、さきに立石英生が作成した論告要旨と大同小異のものであった。同年12月28日、私は控訴趣意書を仔細に検討分析し、「検察側控訴趣意書に対する批判」と題する13ページの文書にまとめ、中村弁護人に手交した。控訴審の弁論に資するためである。  全体が支離滅裂な作文であることは論告要旨と同列であり、敢えて小異を挙げれば次のようになろう。 三、 立石英生は、私と組合の人達に対して悪口雑言の限りを尽くしたのに対して、栗原雄一は、それに加えて、本件について無罪判決を下した第一審の裁判官に対しても無能呼ばわりをし、悪態をついている。そのためであろうか、控訴趣意書は、論告要旨よりも50ページ程分量が多くなっている。  それにしても、この人達は悪口にかけては天性の才能を有しているようである。 四、 検事栗原雄一は、控訴趣意書の中で、複数の点において、原判決が認定してはいないことを認定していると嘘をついて平然としている。  日本語をまともに読むことができないのであろうか。この人には、義務教育の綴り方教室で、もう一度日本語の勉強をしてもらわなければいけないようだ。 五、 栗原雄一が、実質課税の原則は行政裁判において一般に承認されているほか、刑事裁判においても確定されているなどと事実に反する勝手な主張をしているのは立石英生と同断であるが、立石の場合、仮装だ、架空だといっている手前、余り前面に出していなかったのである。  つまり、仮に、仮装売買でなかったとしても、実質課税の原則からすれば、犯罪を構成し脱税であると主張している訳で、第一審においては、「仮装売買でなかったとしても」というような、いわば一歩引いた主張は余り強調したくなかったのであろう。  実質課税の原則は、租税回避行為を防止するための徴税の論理であり、このような徴税の論理によって脱税という犯罪が成立することは、ありえないのである。  脱税(タックス・イヴェイジョン)と租税回避行為(タックス・アヴォイダンス)とは明確に区別されており、わが国には、脱税を罰する法律はあるが、租税回避行為を罰する法律は存在しない。  罪刑法定主義を定める日本国憲法のもとでは、栗原雄一が主張する独自の見解は、ナンセンス以外の何ものでもない。  この人物は、本当に司法試験に合格しているのであろうか、疑わしい限りである。 六、 栗原雄一は、更に驚くべき論法を持ち出し、何が何でも無罪判決を覆し、有罪に持ち込もうと画策した。暴論である。  組合は、利益を繰り延べるために、租税特別措置法に定める特例制度を活用した。圧縮記帳といわれるものである。  組合は、この特例制度を利用して、16億5千万円の不動産を取得したのであるが、この不動産を取得したこと自体が、特例制度の趣旨に反しており、従って不正行為と認定できるなどと、とんでもないことを主張しはじめたのである。  栗原はこの特例制度の趣旨に反していることについて、微に入り細にわたって駄言を弄している。検察官は税法は苦手のようであるので、全てマルサの入れ知恵であろう。第一審の無罪判決にあわてた広島国税局が大木洋と藤原孝行の二人を急ぎ本局に戻し、控訴審にあたらせているからだ。「第二章 マルサ事案の概要と結末」の「三.一審判決」で述べたとおりである。 七、 そもそも、税法の立法趣旨に反しているというのならば、行政上の課税処分をすればよいだけのことであり、国税当局と違う解釈をして申告を行ったからといって、脱税という犯罪が成立することなどありえないのである。罪刑法定主義の建前から当然のことである。実質課税の原則を持ち出してみたり、立法趣旨を持ち出してみたり、なんとも忙しいことである。  この人は、もう一度予備校にでも戻って、憲法をはじめとする基本法の学習をする必要がありそうである。 (イ)公判検事 梶山雅信 1.弁論要旨 一、 平成13年2月19日、松江地裁31号法廷において、広島高等検察庁松江支部検事梶山雅信は、自ら作成した弁論要旨を読み上げ、第二審が結審した。 二、 弁論要旨は、7ページというわずかな分量のものではあるが、検事梶山雅信という人物を明確に浮かび上がらせるには十分である。 三、 梶山雅信は、さきに栗原雄一が作成した控訴趣意書にふれ、二度にわたって「既に控訴趣意書において詳細に論証をしたとおりである」と言及している。  すでに述べたとおり、控訴趣意書は、立石英生が第一審で述べた論告要旨を更に上まわる荒唐無稽なものであり、論証はおろか、説明の域にも達していないものであった。  このような控訴趣意書について、梶山は、「詳細に論証」がなされたものと称した。  梶山がまともに控訴趣意書を読んでいないとすれば、明らかな職務怠慢であるし、十分に読み込んでいるとすれば、何をか言わんやである。今の検察当局には、歯止めをかけるチェックシステムが存在しないか、あるいは存在していたとしても機能不全に陥っているのではないか。 四、 弁論要旨をしめくくるにあたって、検事梶山雅信は、次のように言ってのけた、―― 『売買を仮装し、巨額の益金を圧縮する方法により敢行した本件法人税逋脱(脱税)行為は、税理士兼公認会計士である被告人山根が専門知識を駆使して仕組んだ極めて巧妙な犯行であり、このような行為が犯罪として処罰されなければ、収税の公平が阻害されるとともに健全な国民感情にも背馳し、著しく社会正義に反することとなる。  よって、速やかに原判決を破棄した上、被告人らに対する適正な裁判を求めるものである。』  冤罪でひとたび逮捕し、断罪をした以上、数多くの証拠を捏造あるいは隠匿してでも、なにがなんでも有罪に持ち込もうとしている検察の姿勢がここには明確に示されている。検察は、自らの犯罪的行為を封印して組織防衛をするためには、無辜の人間を一人や二人抹殺しても構わないと考えているのであろう。 『健全な国民感情にも背馳し、著しく社会正義に反する』ことをなしたのは一体誰なのか、改めて問いかけたい。 2.教壇に立つ検事 一、 「先生は現職検察官」――新聞の社会面に、かなり大きな見出しで写真付きの記事が掲載された。 「K大(神戸市東灘区)の今年度後期講義「刑法各論」(3、4年生対象)の教壇に神戸地検の現職検察官が立っている。現時点で単位を伴う検察官による講義は異例という。学生からも「現場を踏んでいるだけに分かりやすい」と好評だ。   教えているのは同地検の梶山雅信総務部長(52)。大阪や広島で高検勤務の経験もあり、財政経済犯罪など刑事畑に精通している。  梶山部長は「現場の実態が役立つのなら、喜んでいろんなお話をしたい」と話している(毎日新聞、平成15年11月18日付)。 二、 私の捏造冤罪事件に加担した検察官は、名前が表に出ているだけで22名にのぼる。  梶山雅信もその一人であり、一生忘れることができない名前である。  その梶山が広島高検から神戸地検に移り、しかも大学の教壇に立って、法律を教えているというのである。  梶山雅信が何をしようと、私は敢えて異を唱えるつもりはない。  ただ、前途有望な若い法学徒に対して、あまり現場の実態とやらを話さないほうがいいのではないか、あるいは、現場の実態を話す勇気があるのなら、せめて反面教師として話して欲しいものである。  国家権力を背景に組織をあげて冤罪を捏造し、いかにして裁判官を騙して有罪にもっていくか、――このような梶山雅信自らが行なった犯罪的行為を、教壇で赤裸々に語ったら学生には大いにうけることであろうが、心ある純真な学徒は、そのような検察官に失望し、ひいては、法律を学ぶ意欲をも失いかねないであろう。  それにしても、K大学の経営陣と教授会は大胆な人選をしたものである。 3.意見陳述 一、 平成15年2月19日、中村弁護人は、控訴審における最終弁論を行った。その後で、私は弁護人のアドバイスを受けて最終陳述を行なうべく、原稿を用意していた。  しかし、前川豪志裁判長は、私の意見陳述を許可しなかった。  以下は、当日準備したものの、法廷で読み上げることができなかった幻の陳述書である。        意見陳述  公正証書原本不実記載、同行使の容疑で逮捕されてから、5年が経過しました。  当時を振り返ってみるに、何故犯罪者として逮捕され、糾弾されなければならないのか、全く理解できませんでした。この5年間で、全ての事情が判明した現時点でも、全てについて冤罪以外の何ものでもないという思いは、強まることこそあれ変わることはありません。  千葉物件の売買が仮装であったとする検察当局の勝手な思い込みに端を発した1000万円の売買の登記については、第一審で当然のことながら無罪とされたものの、農地の売買登記と、賃貸借権設定の仮登記については、第一審で不当にも有罪とされてしまいました。農地の売買の登記については、私が農業者でないために、農業者である岡島信太郎さんに、私が農業者の資格を得るまでの間、私にかわって農地を取得してもらっただけのことであり、真実の所有者と登記上の所有者との間に全く相違がないものであります。農地法の上から農業者でない私は、形式的にはもちろん、実質的にも農地の所有者になることはできないからであります。  賃借権の仮登記については、検事が5年前に私の自宅で逮捕状を私に提示したとき、何のことなのか事実についての記憶が全くなく、したがって全く理解ができなかったものです。  その後、事実が判明するにつれて私の中に驚きを通り越して怒りがこみあげてきたことをまざまざと想い出します。  権利証がない場合の実務上の便法として司法書士の業界で通常なされていたことを、専門家である司法書士のアドバイスによって行ったことが懲役刑を伴う罪に問われたからであります。  私が行ったことといえば、司法書士によって作成された書式に印鑑を押したことであり、当時、私は不動産登記法の詳しいことなど専門外のことであり、知る由もありませんでした。不動産登記に関する専門家である司法書士が、顧客に対して不正なこと、しかも懲役刑に問われるような不正なことを勧めるなどということは夢にも考えることができなかったのであります。  しかも、「不正なこと」をアドバイスし、かつ全てのお膳立てをした当の司法書士は、逮捕されていないばかりか、この件に関して在宅起訴さえされていないのです。公正さに欠く検察当局の極めて恣意的なやり方について、私としては、とうてい納得できるものではありません。  次に、法人税法違反事件について申し述べます。逮捕当時、大型脱税事件の主犯として、担当検事によって、事実に反することがマスコミに度々リークされ、その都度、私は悪徳公認会計士として全国に恥をさらすことになりました。当時の各新聞の切り抜きは現在私の手許にあり、当時いかに検察がデタラメな捜査をし、私を極悪人に仕立て上げるために敢えてウソの情報をマスコミに漏らしていたのか、それらは生々しく物語ってくれます。  第一審において仮装売買であったと強弁する検察の主張が退けられ、無罪とされたのはけだし当然のことでありました。平成10年3月24日付でなされた『論告要旨』なるものは、オソマツ極まりないもので、本当にエリートとされる検察官の手になる文書であるのか疑ったほどです。私はこの論告要旨を分析し、同年4月1日付で「『論告要旨』における問題点―その欺瞞と誤謬―」と題する16ページに及ぶ文書を弁護人に提出しております。明らかに事実に反する記述で、かつ単なる水掛け論ではなく、事実に反することについて明確に証明が出来る事柄が、驚くことに48もありました。更に『論告要旨』の記述に関して自己矛盾をきたしている点が6ヶ所ありました。検察当局がウソの犯罪を創作しようとしたことの当然の帰結であります。  検察は、平成11年12月20日付で、当法廷に『控訴趣意書』を提出し、ウソの上塗りをいたしました。私は、この『控訴趣意書』を分析し、同年12月28日付で「検察側控訴趣意書に対する批判」と題する13ページに及ぶ文書を弁護人に提出しております。『論告要旨』同様にウソのオンパレードであり、同一人物が記述したとはとうてい思えない自己矛盾に満ちた作文であります。更に、いたるところで事実と異なることが検察官の憶測によって論断されています。どんなウソをついても、ともかく被告人を有罪にすればいいという姿勢が明らかであります。  許し難いのは、実質課税の原則について、第2審の裁判官の判断を誤らせようとしていることです。  即ち、検察官は「租税法上、実質課税の原則が存在する以上、租税法の解釈適用に当たっては、私法上の法形式にとらわれないで、経済的実質に従うべきであるから、原判決が判示するような『私法上の法律行為が形式的に有効でありさえすれば、それがいかに経済的に見て不自然、不合理であっても、およそ逋脱行為に該当しない。』などということがあり得ないのであって、この理は、行政裁判においては一般に承認されているほか、刑事裁判においても確定されている」と主張しています。  この点については、日本税法学の草分け的存在であり、現代の日本における税法学の第一人者とされている日本大学教授北野弘久法学博士が、最終弁論要旨添付の「鑑定所見書」の3〜6ページにかけて明確に所論を展開され、「検察官の主張は税法学的に誤りである。」と断定されていることを改めて指摘しておくにとどめます。北野教授は単に税法学における権威であるにとどまらず、過去税務関連の裁判において300にも及ぶ鑑定所見書を作成されるなど、税の実務に通暁されている方でもあります。  原審において逋脱の罪で有罪とされた2つの件、即ち、圧縮記帳引当金の益金不算入と貸倒損失の処理に関しては、第一審の判決後、私達公認会計士、税理士業界で大きな話題となりました。このような事案で立件されたケースは過去全くなく、したがって判例が存在していません。実務家の立場からすれば、仮装隠蔽といったような作為の全くないこのような事柄をもって、公認会計士、税理士の資格を事実上剥奪する意味合いをもつ懲役刑に問われるものとすれば、恐くて仕事をやっていくことができないといった声が全国から多数寄せられてきました。当法廷で申し述べましたように、判決後に私と面談した広島国税局の2人の調査官でさえ首をかしげていたくらいです。  更に、税法学上の所見が前に述べました北野教授から寄せられており、それは最終弁論要旨の添付書面である「鑑定所見書」の8〜12ページにわたって明確なる所論が展開され、2つの事案に関して共に、「租税逋脱犯の不成立」が結論付けられております。  北野教授は、「鑑定所見書」の結語として、「以上の検討で明らかなように、本件は、税法学の通常の理解をしておれば、およそ租税逋脱犯なるものが存在しないことが容易に判明する事案である。検察官は、実質課税の原則に対する正当な理解をしないで、適法・有効な本件代替資産(圧縮資産)の取得行為を租税逋脱行為と認定するという誤謬を犯した。また、圧縮記帳引当金の益金への戻し入れをしていないことは単なる事後処理上のミスにすぎない。また問題の債権に対して『回収不能』という認定を行ったことが妥当であるかどうかは価値判断の問題にすぎない。右両者の不申告を原判決は租税逋脱行為と認定するという誤謬を犯した。本件は、税法及び税法学への無知から生じた不幸な事件である。本件には法人税法159条違反として刑事責任を問われねばならない事実は全く存在しない。被告人を有罪とすることは誰の目からみても、疑いもなく冤罪である。検察官及び原審裁判所の無知が厳しく問われねばならない。原判決は破棄されねばならない。そうでなければ、著しく正義に反する。」と述べて下さいました。  私は、この意見陳述を終わるにあたり、思いがけなくも多大なご迷惑をおかけした、岡島信太郎さん福山義弘さん、増田博文さんを始めとする組合の皆様方、並びに小島さんに対して改めてお詫びを申し上げる次第であります。  私は共同被告人共々、この第二審の公正な法廷の場で、忌まわしい刑事被告人という肩書きを取り去っていただき、晴れて全面無罪の判決がいただけるものと信じていることを申し述べ、意見陳述を終わらせていただきます。        平成13年2月19日        山根治 4.判決 一、 平成13年6月11日、広島高等裁判所松江支部において、第5回公判が開かれ、宮本定雄裁判長が判決文を読み上げた。裁判長は、第1回から4回まで担当していた裁判長裁判官前川豪志が退官のため、裁判官石田裕一は転補のため出席することができない旨申し述べ、判決文の代読を行った。右陪席には第1回公判から第4回公判までの石田裕一判事にかわった吉波佳希判事が座り、左陪席には植尾伸一判事が座った。  判決末尾には、裁判官植尾伸一の名前のみが記され、「裁判長裁判官前川豪志は退官のため、裁判官石田裕一は転補のためいずれも署名押印することができない」旨記載されていた。 二、 控訴を棄却する、――宮本裁判長は判決の主文を読み上げた。  一審判決が踏襲されたわけで、私の懲役1年6ヶ月、執行猶予3年はそのまま変らないということだ。  一審判決が破棄され、完全無罪となることを期待していた私は、一瞬力が抜けてしまった。傍聴席はざわつき、知人の何人かは静かに法廷を後にした。私への気くばりであったろう。  三人の弁護人もガックリと肩を落としていた。私の公認会計士と税理士の資格に傷がつかないように完全無罪かあるいは、せめて罰金刑に持ち込むと勢い込んでいただけに、拍子抜けしたようであった。  北野弘久日本大学教授の鑑定所見書を添えて臨み、必勝を期していただけに尚更であった。 三、 裁判長による判決理由の朗読が始まった。私は、判決の主文以上に、その理由が気になっていた。私を主犯とした大型脱税事件について、一審の松江地方裁判所は無罪としながらも、その認定のプロセスが誤っており、とうてい納得できるものではなかったからである。同時進行している税金の裁判(行政)において、刑事事件としては無罪であったとしても、多額の税金の徴収が認定される余地を残しているのが一審の判決における事実認定の内容であった。  判決理由の朗読が進むにつれて、私の中にふつふつと喜びがこみあげてきた。一審の誤りをただし、真実の事実認定をかなり詳しく行っているではないか。当然のこととはいえ、検察の主張していた架空売買が事実無根であることを明確な言葉で判示しているではないか。それは、検察側の虚構のシナリオが完全に崩壊したことを意味するではないか。 被告人席に座っていた私は、一つのことをなし終えた充足感に満たされ.身体が熱くなった。思わず立ち上って、大声で叫びたい衝動にかられた。 平成五年、広島国税局のマルサに急襲されてから八年、マルサ・検察がしかけてきた仁義なき戦いが一つの終止符を打った。 5.無罪(本件)の確定 一、 平成13年6月25日、広島高検は上告を断念。マルサ事案(本件)に関する無罪判決が確定した。  詳しくは、「第二章 マルサ事案の概要と結末」においてすでに述べたところである。 二、 平成13年7月4日、私は、マルサ事案の無罪が確定した段階での近況報告をとりまとめ、800人程の関係者に送付した。(*「参考資料3」を参照) (3)上告審 一、 平成13年6月12日、私は控訴審において、一部有罪とされたことを不服として、最高裁判所に上告した。 二、 上告審にそなえて、あらたに、3人の専門家の鑑定所見を徴求した。  控訴審における北野弘久教授の鑑定所見は、稿が改められ、再度上告審の審査に添えた。   鑑定所見を寄せて下さったのは、次の四氏である。  (1)北野弘久氏。日本大学法学部名誉教授、税理士、法学博士。  (2)船山泰範氏。日本大学法学部教授。  (3)三木義一氏。立命館大学教授、法学博士(一橋大学)。  (4)山田二郎氏。元裁判官、前東海大学教授、弁護士。 三、 平成13年8月31日に、中村弁護人は、上告趣意書を作成し、最高裁判所に提出し、更に、翌14年9月9日、上告趣意書(補充書)を提出した。   最高裁判所の折衝窓口は、当初は後藤調査官であり、次いで芦澤調査官にかわった。中村弁護人は1回、最高裁に足を運び、後藤調査官と面談した。 四、 通常、最高裁の審理は内輪の書面審査のみであり、法廷が開かれることはない。   しかし、下級審の判決を変更するような場合には、法廷が開かれることがあり、私の場合、弁護人は法廷が開かれるであろうとの見通しを持っていた。 五、 平成15年9月20日、最高裁判所第一小法廷から、同年9月18日付の「決定」が特別送達され、上告棄却が通告された。  「裁判官全員一致の意見で、主文の通り決定する」として、末尾に次の5人の裁判官の名前が記されていた。   裁判長裁判官 深澤武久    裁判官 横尾和子   裁判官 甲斐中辰夫   裁判官 泉 徳治   裁判官 島田仁郎  その後の詳しい経緯については、「第六章 一. 10年間の身分の変遷」の「(6)前科者―以前に法を犯して刑罰を受けている者―」の二項で述べる予定である。  最高裁判所は、私にとって沈黙の伏魔殿であった。 四.冤罪の捏造と断罪の基本構図  (1)悪魔の証明 一、 平成2年4月10日、組合は、私の仲介によって佐原良夫との間に不動産売買契約を、結んだ。当然、当事者間には売買の意思の合致があり、法的に有効な契約であった。ところが、一方の当事者である佐原良夫が契約条件を履行しなくなり、トラブルが発生した。  佐原は、契約条件の履行をまぬがれるために、履行を求めた民事裁判の法廷で、ウソの供述をはじめたのである。即ち、形の上では、売買契約となっているが、本当は、税金逃れのために売買を仮装したものであったと言いはじめたのであった。  民事裁判を有利に運ぶために、佐原はマルサに対して嘘の密告をし、マルサはそれに飛びついて、組合と私とを脱税で摘発した。 二、 この売買契約においては、契約時点である平成2年4月10日の当事者の意思の合致がポイントであるため、一方の当事者である私達が、契約は真実のものであり、仮装ではないと、いくら叫んでもどうしようもないのである。こちら側からの100%の証明は不可能である。先方は、嘘であっても売買ではなかったと言い張っている以上、ストレートな形での意思の合致は第三者的には確認できないのだ。  何かをしたことの証明は可能であるが、何かをしなかったことの証明は不可能だ。  後者の不可能な証明のことを俗に悪魔の証明という。  検察とマルサが私に対して無実であるならば潔白を証明せよと迫っているのは、まさに悪魔の証明を迫っていることであり、先に、「大木洋をキャップとするマルサが、私に対してまさに悪魔の証明を迫っていた」と述べたのは、このことである。  三、 例えば、近年増えているという、痴漢冤罪事件がそうである。  電車の中で痴漢であるといって女性に騒ぎたてられ、痴漢として告発された場合、男性が何もしていなくとも、無実を証明することは極めて難しい。痴漢行為など何もしていないことを100%証明することは不可能であり、状況証拠等の傍証で立証するしか方法はない。 四、 あるいは、収賄に関する冤罪事件もそうである。  賄賂を贈った人物(贈賄者)が、賄賂を受けとった人物(収賄者)を名指しにした場合、収賄者とされた人物が、仮に真実賄賂を受けとっていなくとも、受けとっていないことは証明できない。二人だけの密室の状態で行なわれたことを、一方の当事者が、何らかの理由で嘘の自白をした場合、もう一方の当事者はお手上げであり、賄賂などもらっていないといくら主張しても証明にならないのである。もともともらっていないことを証明することなどできないからだ。まさに、芥川龍之介の「藪の中」の世界である。  そもそも、賄賂の授受があったというのであれば、捜査当局は当然のことながら、金の流れを明確に証明する義務がある。少なくとも贈賄側においては金の出所が、収賄側においては金の使途が明確にされなければならない。  しかし、贈賄者とされた人物が、全く嘘の自白をしていて、もともと金銭のやりとりなどなかったとするならば、金銭の流れなど捜査当局としては明らかにしようがない。  そこで用いられるのが嘘の自白の強要である。収賄者と名指しにされた人物を逮捕勾留し、自白をしないと保釈しないなどと脅したり、あるいは、無罪放免を餌に利益誘導しながら、嘘の自白を迫るのである。  私の場合も同様であったので、このような違法な取り調べは普通になされているに違いない。  安易な逮捕と不当な長期にわたる勾留こそ冤罪を生みだす温床ではないか。 五、 「冤罪十年」と題して、検察官、裁判官、あるいは、拘置所の生々しい実態を公表された森喬伸氏(元松本英語学校理事長)も、一人の検事から悪魔の証明を求められたようである。 『ところが、有田検事は「それじゃ、やっていないことを証明しろ」と言う。これは無理な話だ。やっていないことをやっていないと証明することくらい難しいものはないと、その時つくづく思い知らされた。』(月刊経営塾1999年8月号、58ページ)  森氏は私より100日も多い391日もの勾留生活を強いられ、結果的には全面無罪を勝ち取られたものの、破産に追い込まれたという。私は自ら冤罪事件を経験しただけに、森氏の四回にわたる痛切ともいえる手記を読んで、検察官と裁判官に対して改めて強い憤りの気持ちが蘇ってきた。  同じような体験をした者の一人として、森喬伸氏に心からなるエールを送り、再び第一線でご活躍されることを祈ってやまない。 六、 10年前、私に対して悪魔の証明をつきつけたマルサは、ガサ入れから2年6ヶ月後に、藤原孝行を告発人として検察に虚偽の脱税の告発をし、検察は刑事法廷の場で私に悪魔の証明を求めた。  双方とも正面切っての証明は不可能であったので、傍証をいかに準備するかの戦いとなった。  マルサと一体となった検察は、国家権力の名のもとに、数多くの傍証を捏造し、私を断罪した。  私達は、重戦車の前に引きずり出された竹槍部隊であった。  しかし、所詮虚構は虚構である。虚構の重戦車は、真実の竹槍によって、ことごとく粉砕され、法廷に消えていった。 (2)証拠、その改竄の軌跡 一、 真実の売買であることを立証する重要な証拠が、国税当局に嘘の密告をした佐原良夫の自宅からマルサの家宅捜索によって発見され押収されたことは、前に述べたとおりである。佐原が密かに録音していたテープと反訳文である。   真実の解明のためにはその開示が必要だとする私の再三の要求にも拘らず、マルサの責任者であった大木洋は、一貫して隠し通した。自ら創り上げた虚構のシナリオが崩れるからであろう。 二、 ところが、この重要な証拠が刑事法廷には一転して提出されることになった。   マルサとしては隠し通すことができなかったからである。  平成6年2月8日、私はマルサの藤原孝行に私が作成した11点の資料を手渡し、それぞれの資料のページ数を藤原に確認させた上で、同人の受領印を押捺させている。  この中に、マルサが虚偽のストーリーを押し通すために、極めて重要な証拠をひた隠しにした経緯を詳しく綴った「第三申述書(平成2年9月6日、佐原良夫が組合に出向いた件について)」(*「参考資料1」を参照)が含まれていた。  このとき提出した3通の申述書は、マルサでの質問顛末書にかわるものであるため、当然検察に提示されており、マルサとしては証拠を隠そうにも隠すことができなかったものである。 三、 法廷に開示されたのは、平成8年2月23日付捜査報告書であり、作成者は、松江地方検察庁検察事務官来栖修とされ、宛名は同地検検察官検事藤田義清となっており、次のように記されている、――        捜査報告書 法人税法違反等 農事組合法人益田市畜産協同組合 ほか六名  右の者らに対する頭書被疑事件について、平成五年九月三〇日光栄水産株式会社において広島国税局収税官吏大蔵事務官が領置した「9/6益田畜産テープ(マイクロカセット入袋)をダビングし、そのダビングテープで録音内容を翻訳したので別添のとおり報告する。  なお、右マイクロカセットテープは、平成二年九月六日佐原良夫が福山義弘方を尋(ママ)ねた時に録音していたものである。 四、 この捜査報告書に添付された反訳文は35ページに及ぶものだ。  今の時点で改めて読み返し、仔細に検討したところ、(聴きとれません)とのコメントが付されているのが9回、(二、三分聴きとれません)とのコメントが付されているのが2回、更に末尾には(以下判読できず)とのコメントが1回記されていることが認められた。 五、 法廷に正式の開示された反訳文は、明らかに改竄されたものであった。  どこがどのように改竄されたのか、あるいは、いつの時点で誰の手が加えられたのか私には知る由もない。  佐原良夫自らが手を加えたのか、あるいはマルサの段階で改変されたのか、更には検察段階で改竄されたのか定かではない。  明確に言えるのは、法廷に提出された反訳文から重要なポイントがスッポリと抜け落ちていることである。  何故このように断言できるのか。  一つには、マルサのガサ入れ直後に、私は複数の組合員から、平成2年9月6日に佐原良夫が千葉からわざわざ益田まで何のために来たのか、詳しく聞き出していたためであり、  二つには、その時の事情を最もよく知る立場に会った前組合長の福山義弘氏が、被疑者として検察官の取り調べに応じて供述した調書があったためである。この時作成された多くの検面調書は、当初法廷に証拠として開示されることがなかったものであり、弁護側の度かさなる強い要請を受けた裁判所が重い腰をあげて検察官に開示勧告をした結果、公判検事立石英生がしぶしぶながら開示するに至ったことはすでに述べたとおりである。 (3)証拠、その捏造の軌跡 一、 マルサが原案を創り、検察が仕上げをした脱税の虚構のシナリオに沿って、多くの証拠が捏造された。以下、どのような細工によって証拠が捏造されたのか明らかにする。 二、 私は、松江刑務所拘置監で、検事中島行博の取調べを40日間にわたって受けたのであるが、中島の尋問の全ては、虚構のシナリオに沿って、中島が私に問いかけ、私はそれらを単に否定することの繰り返しであった。  もともと脱税ではないことを脱税と極めつけてストーリーが創られているため、中島の尋問も誠に奇妙なものであった。  後に、検事藤田義清や同立石英生がこの問答を称して、「山根が禅問答をしている」と難詰をしているが、私からすれば、訳の分らない禅問答をしかけているのは中島行博であって、いわれなき中傷をされていると言うほかはない。 三、 このような禅問答の中でも、私が中島の面前で思わず吹き出してしまったことがあった。中島があまりにおかしなことを、しかも大真面目な顔をして問いかけてきたからである。 中島「ちょっとこの資料を見てくれませんか。あんたが書いたものだね。」 ――中島が私に示したのは、山根会計の事務用箋に太いエンピツでなぐり書きしたものであった。こんなナメクジのような字は他人が真似できるものではない。 山根「ええ、そうですよ。」 中島「これについてウチの者がこんな分析をしたんだが見てくれませんか。」 ――『「メモ」の分析結果は、次のとおりである』として何かグダグダ記されている。何回読み直しても何のことかよく分からない。意味不明である。 山根「目を通してみたんですが、よく分りませんね。」 中島「お前が自分で書いたものが分らないというのか。」 ――「あんた」が急に「お前」にかわった。 山根「いや、私のメモではなく、この分析とやらの内容が理解できないんです。」 中島「とぼけるんじゃあない!」 ――急に声を張りあげた。熊のような大男が目の前で咆哮した。横にいる渡壁書記官が固まっている。   山根「そんなこと言われても、クマったクマったと言うほかないじゃないですか。」 ――中島、とうとう本気で怒り出した。黒ブチの眼鏡の奥で、熊の目が三角になっている。 山根「では、検事さんに申し上げますが、あなたはこの分析が理解できるんですか。何がどうだと分析されているんですか。」 中島「オレには分らないからお前にきいているんだ。」 ――面白い威張り方をする男だ。さすが人間離れをしている。私が思わず吹き出してしまったのは、このときであった。  私は心からおかしいと思って笑うとき、どうも肩を上下にゆするクセがあるようだ。笑って肩が上下に動くと、次にきまって涙が出てくる。このときもそうであった。  涙をハンカチで拭いて、ひょっと前を見ると、それでなくとも大きい中島の顔が一層大きくなっていた。熊がふくらんでいたのである。 山根「私が自分で書いたものなら、答えようもあるんですが、私のメモを誰がどのように考えて分析したか分らない、こんな訳の分らないものを示されたって答えようがありません。」 中島「じゃ、お前のメモはどうなんだ。これはどういう意味なんだ。」 山根「そう言われても、7年も前の私の単なるなぐり書きにすぎないもので、何のことか自分でも分かりません。」 中島「山根はいま自分で書いたものなら答えようがあると言ったばかりではないか。とぼけるんじゃあない!」 ――再度声が大きくなり、眼が三角になっている。中島は元来さほど複雑な人物ではないようである。 山根「こんなことを言い合っていてもキリが無い。あなたにも分るように説明してあげるので、少し頭を冷やして私の話を聞きなさい。」 ――中島は検事とはいえ、私よりもひとまわり以上も年下の若造である。しかも司法試験を5回目で合格したことを恥ずかしげもなく自慢にしているような男だ。  私は中島の目を見すえて、次のように話した。 山根「私の会計事務所には、現在300軒前後の顧問先がある。300もの経営体が命がけで努力して、毎日懸命に立ち向っている。  その人達の仕事の一部を陰でお手伝いするのが私の仕事だ。いわば、私の頭の中では300もの経営体が同時進行しているわけである。  事務所の日常の仕事は、10名の優秀なスタッフが処理をしてくれるが、どうしても私でなければできない仕事が生じてくる、一ト月5件位はあるだろう。その他、臨時の仕事が最低でも年に10件は入ってくる。つまり年間70件は私が自分で処理をする。  一件について平均して5つ位のケースを想定してプランを練り、シミュレーションを重ねて、結論を出し、顧客に提示することにしている。  私はパソコンを全く使わないので、全て手計算である。そのため一つのケースで事務所用箋を10枚位使って考えることが多い。その時点で自分の頭に浮んだことを片っぱしからメモするので、当然なぐり書きになる。  すると、一件で50枚として、年間70件では3,500枚になる。あなたが示した私のメモは、今から7年前のものだ。一年で3,500枚とすれば7年間では24,500枚になる。  そのメモは、その24,500枚のうちの一枚である。しかも、成案になる前のもので、破棄されたものだ。  組合の件は、あなた達には特別のものかもしれないが、私にとっては、ワン・ノブ・ゼムだ。成案については、何年経ってもしっかり覚えているが、破棄したシミュレーションなど覚えているはずがない。プロとして納得ゆく仕事をしていくためには常に頭の中を空にしておかなければならない、つまり、先入観があれば、いい案がでなくなるからだ。  従って、私が覚えていないと言ったのは、事実その通りであって、とぼけている訳ではない。私に向ってこのような事情も知らないで、「とぼけるな」と度々どなりつけたのは失礼千万だ。フザケるんじゃない。失言を取り消して私に謝罪しなさい。」 ――中島は、私の話の途中から、フーセンがしだいにしぼんでいくように、存在感が薄れていき、熊のぬいぐるみになった。  しかし、中島は、謝罪しようとはせずに、早々にこの話を打ち切った。渡壁書記官はただ黙って人形のように固っているだけであった。 四、 起訴された後、私の独房には厖大な量の裁判資料が差入れられた。  その中に、このとき中島行博が私に提示した「メモ」と「分析結果」とが、検察側の証拠資料として含まれていた。  過去の亡霊が眼の前に現われた心境であった。  それは、2通の捜査報告書であり、一つは松江地方検察庁検察事務官中西武の作成になる平成8年3月25日付の、今一つは、同地検検察事務官来栖修の作成になる同年3月26日付の捜査報告書であった。  現在改めて読み返してみても、整合性の全くない意味不明のものとしか論評のしようのないものだ。ただ単に、私のイメージを悪くするために創作されたつじつま合わせにすぎないものであった。捏造である。 五、 この他に、法廷には数百点の証拠資料が提出され、それらの多くは、摩訶不思議な説明が付けられている誠に奇妙なものであった。  下司の勘ぐりの見事なまでの見本といってよく、数多くのマルサ、検察官それに検察事務官といった人達が、これだけ多くの資料を虚構のストーリーに合わせようとして、捏造の接着剤で張り合わせていった努力には、なんだか頭の下がる思いさえしてくる。 (4)検面調書、その詩と真実 一、 刑事法廷に提出される重要な証拠の一つに、検察官面前作成調書、略して検面調書がある。  わが刑事法廷にも、複数の検事によって作成された数多くの検面調書なるものが提出された。  それらは、マルサと検察とが合作した偽りのストーリーを肉付けし、補強するために用意された、いわば詩であり、真実とはほど遠い想念の産物であった。 二、 検事達が創り上げた供述調書は、あまり出来映えがよいとは言い難い詩であった。   一流の詩人は、真実にあらざることを高らかに唱い上げ、読者に真実の感動を与えるものである。ゲーテの「詩と真実」はその最高傑作であろう。  検事という名の詩人達は、真実にあらざることを供述証書によって高らかに唱い上げたまではよかったが、他の誰にも真実の感動を与えることができなかった。嘘を真実らしく唱い上げる技術にいささか難があり、作品がいかにも真実らしいレベルに達していなかったのである。  更に、複数の検事たちが思い思いの詩を創り上げたため、作品同士が互いに不協和音を発するに至り、収拾がつかない状態になったのである。 三、 一方で、虚構のシナリオ作成の謀議に参加しながら、正直に真実を唱い上げる供述調書の作成をした不心得な検事もでてきた。マンガの世界である。  当然このような作品は総司令官である田中良とその配下である藤田義清によって厳しく選別され、排除された。虚構のシナリオを崩すものだからである。 四、 このようにして、松江地裁第31号法廷には、三流の詩が陸続と並べられ、法廷には不協和音を主調とするシンフォニーが鳴り響いた。  タクトを振るのは、背の低い小太りのコメディアン検事立石英生であり、彼が懸命になればなるほど、聴衆の失笑を買った。 五、 当初法廷に提出された検面調書は概ねウソの自白のオンパレードであり、真実の検面調書は法廷に開示されることなく隠匿されていた。  公判検事立石英生が裁判長の勧告によって、いやいやながら開示した26通の真実の供述調書がこれであった。この他にも、多くの真実の供述調書があったものと思われるが、立石英生は頑として開示しようとはせず、闇に葬った。検察官の権限だそうである。 六、 以上の事実は、刑事裁判において当然の如く扱われている検面調書の特信性が、単なる幻想にすぎないことを如実に物語る。いわば、検面調書特信性の神話が崩壊したのである。 (5)基本構図の崩壊―自滅 一、 マルサと検察とは私を断罪するために、虚偽のシナリオを作成し、国家暴力を背景に強引に実行に移した。  彼らは、多くの無辜の人間を逮捕、あるいは逮捕をちらつかせて、脅したり、すかしたり、騙したりして嘘の自白を引き出して、もっともらしい供述調書を作成した。  更には、証拠の捏造、あるいは改竄までが組織ぐるみで実行された。正義の砦が犯罪行為をしたのである。 二、 しかし、彼らが創作し、捏造した厖大な量の証拠は、私を断罪するのにほとんど完璧のようであったが、一つだけ致命的な欠陥を持っていた。  それは、真実ではないということであった。 三、 虚偽の証拠が多くなればなるほど、それらは一人歩きをし、あちらこちらで摩擦を引き起し、互いに消耗して自滅していった。  私達、被告人弁護側は、凶暴な暴力集団に対して、ほとんどなすすべもなく無力であったが、一つだけ強力な武器を持っていた。  それは、真実という名の武器であった。 四、 私は、強大な権力を背景にした暴力集団のなすがままになるほど柔順ではなかった。彼らに蹂躙されるがままになるほど素直ではなかったのである。  私には名もない大工の子として生を享けた誇りがあった。いわば非名門の誇りである。逆境に陥るたびに、私の原点ともいうべきこの誇らしい気持がどれだけ私を鼓舞したことか図り知れない。  私には権力もなければ財力もなかった。ただ私には、両親から授かった平均よりもやゝ上まわる頭脳があり、強靭ではないまでも、なんとか耐えていくだけの肉体があった。 五、 マルサと検察とが、総力をあげて創りあげた巨大な構築物は、偽りの重さに耐えかねて崩壊をはじめ、自滅していった。難攻不落の城が炎上して消えていったのである。  無罪の認定をしながらも、認定のプロセスが不十分であった第一審の判決は、いわば大坂冬の陣であった。外堀が埋められたのである。  完璧な無罪の認定をした第二審の判決は、いわば大坂夏の陣であった。本丸が炎上し、豊臣家が滅んだからである。  しかし、私は大工の倅であり、徳川家康ではなかった。私には、兵力もなければ財力もなく、あるのは一本の真実の竹槍であり、爛々と光る2つの眼と職人の血を引いた矜持であった。  五.検察官中島行博の生活と意見 (1)被疑者面前作成調書―被面調書 一、 検察官が被疑者を尋問して作成する供述調書のことを、検察官面前作成調書略して検面調書という。度々述べたところである。  考えてみれば、被疑者は全く同じ時間だけ、検察官と向き合って、話しをしたり問答したりしているわけである。検察官が作成する検面調書があるならば、被疑者が作成する調書があってもおかしくはない。 二、 私は小さい頃から人の話を聞くのが大好きであった。とりわけ私と違った生活をし、異なった人生経験をもった人に接すると眼が輝いたものである。  検察官中島行博の場合もそうであった。現職の検事なるものに接したことが全くなかったのである。  もっとも元検事で弁護士をしている人種には、今まで4人だけ接したことがある。ヤメ検といわれる人達で、どういうわけか私が知っている4人全てについて、余りいい印象が残っていない。  民事に疎く、やたらに顧客の顔色をうかがう男であったり、闇世界にどっぷりとつかり、その手先となって糊口をしのいでいる男であったりした。  中島行博との出会いは、もちろん私が望んだものでもなければ、中島が望んだものでもなかった。  たまたま、私が極悪非道な会計士であり、中島が経済通の新進気鋭の検事であったことから、二人の出会いが生じたのである。 三、 中島の一挙手一投足が私には新鮮であった。彼はまた自慢話が得意で、私が合の手を入れると彼の話は際限なく続いた。  独房に放り込まれている私には話し相手がなく、その意味からも中島はまことに貴重な存在であった。  検察官中島の取調べ自体は、概してうっとうしく、ときには胃の痛むこともあったが、一方で、彼との話し合いの時間を楽しみにしているもう一人の私がいたようである。 四、 私は、主に松江刑務所取調室で40日の間、検察官中島行博と接し、面談した。彼の話した内容は、ほゞ正確に私の獄中ノートと彼の作成した検面調書に記されて残っている。  ノートと調書とを改めて読み返し、中島を中心にしてまとめてみることにした。題して、「検察官中島行博の生活と意見」、公認会計士であった私の作成になる、いわば被疑者面前作成調書、略して被面調書といったところである。  ただ、この調書は、中島行博が私に語ったことのみをベースにしており、真偽についての裏付け調査は一切行っていない。 (2)経歴 一、 中島行博は、昭和31年4月、岡山県津山市に生まれ、高校時代まで中国山地の津山ですごした。本名、中島行博。別に「イラ検の熊五郎」ともいう。被疑者山根治が親愛の情をこめて奉った名前である。  司法試験の受験に関して定評のあった中央大学法学部に進学し上京、刻苦勉励の末、5回目で司法試験に合格し、司法修習生となる。立派なものである。  その後直ちに検事の道を歩むこととなり、長崎地検を皮切りに、新潟地検、東京地検を歴任し、私と出会った当時は、広島地検の検事として主に経済知能犯を担当していた。  当時の松江地検には、脱税事件のような経済事犯を処理できる検事がいなかったため、急遽広島地検にいた中島行博に白羽の矢が当たり、マルサをてこずらせた一筋縄ではいかない主犯格の私を担当することとなった。  身柄を拘束するために私の自宅にさっそうと現われた中島は、黒ブチの眼鏡をかけ白い検察官バッジを背広の胸に光らせた、上背のあるなかなかの偉丈夫であった。容貌は今一つであったが、もちろん男は顔ではない。  尚、事務所職員の小島氏を逮捕尋問し、後に公判検事をつとめることになった立石英生は、大阪地検堺支部から呼び寄せられている。立石もなぜかまた、中央大学法学部出身であった。  二人共、検察内部ではつとに経済通として知られ高い評価がなされていた。 二、 中島には2人の子供がおり、不倫の経験は今のところなく、同人の妻も同様に不倫経験はないものと推定され、外見的には円満な家庭生活を送っている。前科前歴もない。  中島行博の教育熱心なことは、検察内部ではよく知られており、たとえば、社会勉強のために、小学生の長男を刑務所見物に連れていき、独房とか雑居房の実態を具さに見せたという。検事による刑務所視察ともなれば、刑務所側としては大変な気づかいであったろう。所長以下幹部が整列して出向かえ、所内の巡視は、所長あたりが先導役となっていわば大名行列の観を呈するものであったに違いない。田宮二郎演ずる、「白い巨塔」の財前五郎医学部教授の総回診と同列のものであったろう。  中島行博は、自分よりはるかに年上の人達が腰を折り、もみ手をして接遇してくれる生の姿を、息子にしっかりと見せつけることによって、いやが上にも父親の尊厳が高まる快感を覚えたことであろうし、収監され人間扱いされていない、社会の底辺で呻吟している多くの囚人たちを、目の当りに見せることによって、日本社会の現実の一端を息子に体感させようとしたのであろう。  最愛の息子のために通常ではとうていできないことを、検事の職権で敢行し、もって親を敬い日本社会に貢献する人材を育てようとするなど、余人の思いつくところではない。まさに、子弟教育の手本であり、親の鑑と称すべきである。小さい頃から、親の職場を見学させ、徳育を施しかつ社会性を身につけさせる、誠に立派と言う他はない。 三、 検察官中島行博はまた部下思いでも知られている。  忠実な女房役である渡壁書記官を実の弟のように可愛がっていたのは、端から見ていて誠にうるわしい限りであった、  私の尋問が半ばにさしかかった頃、中島行博が背を丸めるようにして顔を私に近づけ、猫なで声で私に話しかけてきたことがあった、――   中島「山根サン、松江で日本海のうまい魚を食わせるところ教えてよ。」 山根「・・・。」 中島「いや、このところうまいもの食ってないんでね。松江刑務所で食事の用意をしてくれるんだが、今一つでね。」 山根「・・・。」 ――オレは、三食ムショのメシだ。   中島「それにね、この渡壁君もよく頑張ってくれているんで、ねぎらってあげようと思ったんだ、渡壁君とうまい魚を食ってキューッと一杯やりたいんだよ。」 山根「・・・。」 ――オレは、酒など飲めやしない。 中島「ま、そういうことで、魚のうまい店教えてよ。」 山根「・・・。」  中島は天性の楽天家というべきであろうか、あるいは、このように強靭な神経の持主でないと検事がつとまらないというべきであろうか、私はある種の感動さえ覚えて、二つの店を教えることにした。  一つは寿司屋であり、今一つは小料理屋であった。共に魚料理には地元で定評があり、包丁一本、日本全国どこでも通用するきっぷのいい板前がとりしきっていた。  私は中島が差し出した検察庁の用箋に、店の名と略図を書いて中島に渡した。中島は折りたたんで、嬉しそうにポケットにしまいこんだ。  何日かの後、中島は取調べ中急に思い出したように、小料理屋のほうに二人で行き魚料理を堪能した旨私に報告し、謝意を表した。なかなか律儀な人物である。 四、 その時の飲食代は、あるいは松江地検の調査活動費(調活費)名目の裏金で賄われたものと推認されるが、あるいは中島が身銭を切ったのかもしれない。  ちなみに調活費名目の裏金の存在は、元大阪高検公安部長であった三井環氏が内部告発に踏み切った(『告発!検察「裏ガネ作り」』―光文社刊)ところのもので、検察庁内部では公然の秘密であった。  尚、私の捜査に関連した中島行博を含む検事達が、松江市内の某料亭で捜査会議と称して宴席をひらき、「あの目ざわりな中村弁護士をなんとかしょっぴくことはできないか」などと言い合って盛り上がっていたことが私の耳に届いている。この時の支払いもあるいは調活費名目の裏金によってなされた可能性が高い。  私はいわゆる情報公開法にもとづいて開示請求をし、松江地検の平成7年度と8年度の小切手振出済通知書、支出回議書、支出依頼書、請求書(飲食を伴う打ち合せに関するもののみ)の全てを取り寄せて精査したが、その結果、当該料亭への支払いも小料理屋への支払いも共になかったからである。 五、 裏金であったのかあるいは身銭であったのか定かではないものの、中島行博が部下の渡壁書記官の労をねぎらうための行動を実行したことは称賛に値することであって、中島の温かい人間性を窺い知ることができる。 (3)尋問 一、 検察官中島行博による本格的な取調べが始められたのは、平成8年1月28日、午後1時からであった。松江刑務所管理棟の一室である。  看守に連行されて部屋に入ると、正面に中島が窓を背に座っており、左横に渡壁将玄書記官がノート・パソコンを前にして控えていた。  私は、中島に向き合った机に席を与えられた。部屋には暖房が全くなく寒くて仕方ない。中島に対して暖房を要求したところ、中島の指示によって石油ストーブが入ってきた。 中島「昨日あんたが、検察は暖かいところで仕事をしていて、被疑者は火の気のないところへ放り込むのか、と文句をつけたので、それではお互い同じ条件でやろうと思って、敢えてストーブを入れてもらわなかったんだ。私は寒さに強いんでね。」 ――そうだろう、90kgはある熊のような大男だ。ヘンなことに気をつかって意気がっている。 二、 中島の取調べは、マルサと検察が勝手に創り上げたストーリーに沿ってなされ、その意味では典型的な誘導尋問であった。  中島の私に対する尋問は、手許にある正式な記録の上では、平成8年1月28日付に始まり、同年3月4日付で終わる45通の検面調書に残されている。  面妖としか評しようのない尋問の連続であり、これらを称して起訴状を書いた藤田義清と公判を担当した立石英生の二人の検察官が「禅問答」と評したのは、ある意味で正鵠を射ている。  たしかに、中島行博は、若くして奥義を極めた禅の高僧であったに相違ない。 三、 中島の取調べはほとんどが雑談に費やされた。取調べ終了の予定時刻が近づくと、中島は「さあ、少しは仕事もしなくっちゃ」とか言いながら腕まくりをし、背スジをピンと伸ばし、禅僧にヘンシンしていった。それまでのふくれた顔がいくぶん引き締まり、心なし声色も変わっていった。熊が禅僧に変身するのである。変態である。 四、 中島は、当初私の経歴とか、組合に関与していった経緯などを問いかけてきた。この段階は普通の尋問であって、禅問答ではなく、目の前にいるのは単なる検察官中島行博であった。  ところが、事件の核心にふれる部分に至るや、中島の問いかけが一変した。同時に禅僧への変態が始まり、事実に反することを前提とした絵空事が空念仏さながら展開されたのである。 五、中島は、古式禅問答にはとても見出せないような珍妙な問いを発し、私に答えるように促した。  私は答える前に、念のため次のように問いかけてみた。 山根「あなたは今、面白い問いかけをなさったんですが、私は自分の思った通りのことをしゃべってもいいんでしょうか。」 中島「もちろんいいですよ、いやそうしてもらわないと困る。」 山根「ただ、私の正直な気持を微妙なところまで表現するためには、私のネイティヴ・ランゲージを使ってお答えするのが一番なんですがね。それでいいでしょうか。」 中島「ネイティヴ・ランゲージ?それは何のことだ。」 山根「いやなに、出雲弁のことですよ。」 中島「出雲弁?」 山根「はい。」 中島「どういうことなんだ。」 山根「私、普段仕事をする場合に出雲弁が分らない人が多いために、やむなく慣れない標準語を使っています。たしかに、単なる意思の伝達ということでは、標準語で十分です。  しかし、気持の微妙な綾までは伝えることはできないんです。」 中島「オレも出雲弁なんてはじめてだが、とにかく話してみてくれ。」 山根「ではお言葉に甘えて。 『だらくそ、よもよも、そぎゃんだらつけたことええたもんだわ。そげなこと、しんけでもえわんわね。だらか。ほんにせえたもんだわね。どげん答えてええか分らんがね。』 中島「・・・なんだ、それは。」 山根「あなたの問いに対する私の素直な気持を、子供の頃から慣れ親しんだ正統出雲弁で話すとこうなるんですよ。」 中島「どんな意味なんだ。」 山根「標準語に翻訳いたしますと、―― 『アンポンタン、よくもそのような訳の分らない理不尽なことが言えたものだ。そんなこと、気狂いでもいわないだろうよ。アホか、すっとこどっこい。どのように答えたらいいのか分からないじゃないか。』 ――位の意味でしょうかね。 六、 中島の大きな顔が更にふくれて、本気で怒っているようであった。私は予め中島の許可を得ておそるおそる話しているのに、何か気に障るところがあったのであろうか。心ならずも天下の検事サマに失礼なことをしたとするならば、反省しなければならない。 中島「供述調書にそんな方言を載せるわけにはいかない。他の検事も目を通すものであるし、法廷に証拠として提出されるものであるから、誰にも分るようなものでなければいけないんだ。」 七、 中島と私との間で供述調書の書き方について話し合った末、結局、私の出雲弁の交じった標準語を中島が正しい標準語に直し、更に品のいい言葉に置きかえ文体をととのえた上で、中島が私の代わりに口述し、渡壁書記官がノートパソコンに録取することで落ちついた。  従って、私の供述調書は嘘の自白ではないまでも、中島による二重のフィルターを通したものである。  一つは、出雲弁が標準語に転換されていることであり、今一つは、全体に下品な私の言葉づかいが余所行きの上品な言葉づかいに転換されていることだ。  改めて、私の供述調書を読み返してみると、山根治の名前を騙ってしゃべっているのは誰だ、と思わず詰問したくなるほどである。現実の私は供述調書の私のようには標準語を話すことができないうえに、とてもあのような品のいい話し方などできないからだ。なにせ、自慢ではないが、私は非名門の生まれだ。  私にはまともな標準語など死ぬまで話すことなどできそうもないし、そのようなことをするつもりも全くない。しかし、話し方だけはひょっとして変えることができるかもしれないので、今後は供述調書の中にいる私を見習って、私が常日頃頻発している品のない言葉を謹み、上品な言葉づかいを心がけてみようか。 八、 中島と私との間に交された禅問答がいかなるものであったのか、また私がいつもの私とは違っていかに上品な言葉づかいをしているのか、供述調書の中から適宜拾い出してみることとする。 中島「・・・何故不当ではないですか。具体的に説明して下さい。」 山根「私は検事が何故不当であると言っているのか分かりません。当然私は正当だと思っています。」 (平成8年1月30日付供述調書) 山根「私はその質問自体がナンセンスだと思います。」 「そのような誘導尋問による質問には答えるわけにはいきません。私は、「トンネル」とか「形」という言葉は、明らかに一つの意図をもった言葉であり、誘導尋問だと思います。」  「「環流」とか「迂回」という言葉は、特定の意図を持った言葉であり、特定の意図を持った誘導尋問にはお答えのしようがありません。」 (同年1月31日付、供述調書) 山根「すでにこれまでの私の説明で尽きていると思うので、これ以上お答えする必要は認めません。」 (同年2月1日付、供述調書)   山根「検事の質問はあまりにも意地悪な質問なので、今の段階で答えようがありません。」 (同年2月3日付、供述調書) 山根「そのような見方をされるのは勝手ですが、実態と違っているとしか言いようがありません。」 (同年2月4日付、供述調書) 山根「結果論であれこれ言われてもお答えのしようがありません。」 (同年2月7日付、供述調書) 山根「検事がおっしゃっている疑問自体、おかしいのではないかと思っています。」 (同年2月14日付、供述調書) 山根「この件につきましては、今まで何度となくお答えしていることで、これまでの説明で尽きていると思います。」 (同年2月29日付、供述調書) 九、 ほとんどの供述調書の中では、現実離れしたヨソヨソしい問答に終始し、品のない日本語は決して登場しないのであるが、二回だけ必ずしも品がいいとは言い難い日本語が登場したことがあった。  「馬鹿な経営者」と「下司の勘ぐり」とである。 一〇、「馬鹿な経営者」については次のような経緯があった。  平成8年2月4日、中島が現実の会社経営者なら到底考えそうもないことを前提にして、意地悪な質問を執拗に繰り返すので、さすがの私もキレたのである。 山根「一寸待ってくれ。君が検事だと思うから、こちらも黙って聞いているんだ。ふざけんじゃない。そんな御託をゴタゴタ並べやがって。いいかげんにせんか。」 中島「なんてこと言うんだ。」 山根「ヤカマシー!今度は黙ってオレの言うことを聞け。バカヤロー。」 中島「・・・。」 山根「そもそも君が考えているような経営者が現実にいると思うのか。バカバカしいったらありゃしない。そんな経営者なんていないし、万一いたとしても、そんな君が考えるような馬鹿な経営者なら、会社なんてたちどころに倒産だ。  君は経済の現実などろくに知りもしないくせに、知ったふうなことを言うんじゃない。会計士のオレに向って何てことを言うんだ。バカヤロー。」 一一、「馬鹿な経営者」をめぐる私と中島とのやりとりの実際は以上のようなものであったが、検面調書の上では誠に上品な私が登場するのである。 山根「検事が勝手に想像するような、そんな馬鹿な経営者はいないと思います。検事がおっしゃっているような経営者なら、会社経営などやっていけるわけがないからです。」 (同年2月4日付、供述調書) 一二、「下司の勘ぐり」についても同様であった。  バカヤロー、オタンコナス、アンポンタンといった私の日常用語で中島をひとしきり叱りつけた後にでてきたのが、「下司の勘ぐり」であった。  下司とは、こっぱ役人というほどの意味合いをもった言葉である。中島もこの言葉を知っていたとみえて、検事である自分に対して下司呼ばわりされたのが、いたくプライドを傷つけたようであった。  この「下司の勘ぐり」という言葉を供述調書にのせるのせないで、ひとしきりもめた末に、結局調書にのせることになった。  私の言ったとおりの言葉を録取しないのならば、今後の取調べには一切応じないと突っぱねたからである。  中島は、仏頂面になり、正面を向かずにいくぶん顔をそむけて、私の言い分をブツクサと口述し、書記官に録取させた。  このとき作成された供述調書はどこへ消えたのであろうか、ついに法廷に開示されることはなかったし、従って私の手許にも残っていない。幻の検面調書である。 (4)問答 一、 供述調書として残された尋問と応答は、中島と私との間のいわば建前の問答であった。お互い激しくぶつかり合いながらも、質問する中島も答える私もどこかとりすましたやりとりに終始している。  その最大の理由は、検面調書の作り方そのものにあることは、すでに述べたとおりである。つまり、中島が私の答えを自分なりに理解してとりまとめ、私の答えと称して自ら口述して、書記官に録取させているからだ。本音が出てくるはずがない。  中島と私との間に交された問答は、以上の建前としての尋問の十倍をはるかに超える時間を費やしてなされた。いわば本音のぶつかり合いと言ってよい。  以下、私の獄中ノートをもとに、二人の本音の問答を再現する。 (ア)「リーク」   1. 平成8年1月31日、午後3時。取調べの冒頭、私は中島に向って厳重な抗議を申し入れた。 山根「検察はマスコミに対して、あることないことリークしている。何てことをするんだ。デタラメを言うことはやめてくれ。」 中島「オレはリークなんかしていない。それにデタラメとは何だ。本当のことじゃないか。」 山根「あなたは、検察の代表として職務上私に接しているわけであるから、あなたを通じて検察に文句を言っているんだ。いいかげんなことをマスコミに流さないようにして欲しい。   逮捕された上に、あることないこと書きたてられていたら、オレの信用がますます落ちて、地元で仕事をすることができなくなってしまう。」 中島「信用が落ちる?地元で仕事をしていく?山根はそんな寝ぼけたことを考えているのか。  大体、検察が乗り出して逮捕までした場合、まずほとんど立件する。立件したら日本の場合、有罪率は99.87%だ。  あるいは、有罪であろうと無罪であろうと、逮捕されたらそれだけでまずその連中の社会的生命は抹殺される。ことにあんたのような会計士の場合、信用で成り立っているわけだから、再起したケースはないんじゃないか。  山根も夢のようなことなど考えていないで、いいかげんに観念したらどうか。」 2. マルサの大木洋と同じような心理作戦を、今度は組織ぐるみでやっている。逮捕という現実があるだけに、私の心は大きく動揺していた。  たしかに、この時点では、私の事務所は崩壊し、私の会計士人生は終わるであろうとは考えていたものの、自ら投げ出してしまうつもりはなく、やれるところまでやって、その時々で考えていけばよい位の気持ちであった。 (イ)「自決の慫慂」 1. 中島は、私を逮捕した直後から、 「山根の人生はもう駄目だ。早く身辺の整理をすることだ。悪あがきするだけ無駄というものだ。」  といった趣旨の発言を取調べのたびに繰り返し、私の気力を阻喪させることに意を注いだ。とどめを刺すつもりであったろうか、中島は私に自殺を暗に慫慂する内容の話を仕向けてきたのである。   2. 取調べも半ばにさしかかったある日、中島はさりげなく自らの体験談を語り始めた。 中島「最近のことなんだが、広島で殺人事件があって、オレが担当することになった。犯人は山根と同じ50才前半の男で、以前にも殺人罪で無期懲役を食らい仮釈放されたばかり。シャバに出てみたところが、男の女房が他の男と一緒に暮らしていることが判った。奴っこさん、頭に血が昇ったんだろうね。乗り込んでいって、女房とその母親とをメッタ刺しにして殺してしまったんだ。  すぐに逮捕されて、私のところにきたって訳だ。」 山根「あなたは経済犯が専門ではないんですか。」 中島「いや、そんなことはない。こんなこともやらされるんだ。」 山根「いろいろな経験をするわけですね。」 中島「うん、そうだ。ところが、この男、取調べの途中で死んでしまった。」 山根「何があったんですか。」 中島「拘置所で自殺しちゃったんだよ。」 山根「なんですって。拘置所で自殺?そんなことできるんですか。房内には刃物とかひも類のような自殺ができるようなものは一切持ち込むことができないし、その上に、一日中看守の目が光っているわけですからね。」 中島「それが、首を吊ってしまったんだよ。」 山根「ヒモとかバンドなどないのに、どうして首を括ることなんてことができるんですか。」 中島「あまり具体的に話して誤解を与えてはいけないが、ま、一つの話しとして聞いてくれたらいいだろう。  その男は、外窓の鉄格子にシーツを巻きつけて首を吊ったんだよ。  仮釈放の身で、二人殺したわけで、よくいっても無期懲役を打たれる、生きて二度とシャバに出ることはできないと悲観して自ら命を断ったんだろうな。」 3. 中島行博という人物は、私に罪があろうがなかろうがともかく逮捕して、拘置所にぶち込んで自由と人間としての尊厳性とを奪い取り、マスコミには嘘の情報をタレ流して大騒ぎさせ、連日の取調べでは、耳もとで「お前の人生は終わった、もう駄目だ」とお経の如く囁きかけ、とどめとして、早く楽になる方法をさり気なく耳打ちする、――  この一連のプロセスを見事にやってのけた。おそらく、検察庁に内部マニュアルでもあって、それに忠実に従ったのであろう。その意味では、中島は極めて有能かつ任務に忠実な検察官であった。  たしかに、私が死んでしまえば、検察としては万々歳であったろう。私がいなくなれば、多くの関係者は総崩れとなり、嘘の供述調書が完璧なまでに整えられ、虚構のシナリオは目出度く貫徹されたことであろう。 (ウ)「タマリ」   1. 平成8年2月2日、私は中島に対して議論をしかけてみた。 山根「あなた方は、脱税だといって大騒ぎしているが、仮に脱税とした場合、タマリは一体どこにあるんですか。」 ――「タマリ」とは、脱税によって貯えられた資産のことで、主に隠匿された預貯金、株式、債券あるいは貴金属をいう。 中島「たしかに、それはそうだ。隠匿しているものはないんだからな。」 山根「タマリのない脱税なんてあるんですか。」 中島「・・・。」 山根「それに組合が脱税したというのなら、組合は脱税したことによって、どんな利益を得たというんですか。脱税をしてどんな得があったというんですか。」 中島「それはそうだが、払うべき税金が払われていないではないか。どうなんだ。」 山根「議論をすりかえないで欲しい。私の問いに対する答えになっていない。それにあなたは払うべき税金が払われていないと言うが、もともと払うべき税金など存在しない。全て損金で出ているか、あるいは償却資産となって利益は合法的に消えているからだ。」 中島「・・・。」 2. この日は、これ以上議論は進まなかった。企業会計と税務の実際に接していない中島の限界だったのであろう。  二日後の同年2月4日、私は再びタマリを持ち出した。中島は待っていましたとばかりに猛然と反論してきた。陰の指南役であるマルサに手とり足とり教えてもらってきたに違いない。  熊の雄叫びは五分位続いたであろうか、私が適当に半畳を入れていると次第におとなしくなっていき、10分もすると中島のいつものパターン通り、熊のぬいぐるみにおさまった。中島は、なんとも素直で分かりやすい純真な人物であった。  マルサ仕込みの付け焼刀が私に通用するはずがない。なにせ私は、商業高校一年生のときから簿記をたたきこまれ、その後、長く実務の世界でもまれてきた男だ。なめたら、あかんぜよ。 3. その後、何回か、思い出したように中島のほうからタマリの議論を持ち出してくるようになった。  その都度、中島の議論は精緻になってはきたものの、所詮にわか仕込みの付け焼刀の域を出るものではなかった。  咆哮する熊が、かわいらしい熊のぬいぐるみにヘンシンする一人芝居が、松江刑務所の一室で展開された。観客は、私と渡壁書記官の二人だけであり、中島の見事な演技に、拍手を送る観客はいなかった。 (エ)「レバレッジド・リース」 1. 平成8年2月5日のことであった。中島は突然おかしなことを言い始めた。 中島「一つ一つを見ていくと問題はないようだが、全体として見た場合、どうもおかしいんだよな。」 山根「何がどうおかしいというんですか。」 中島「経済的合理性というか、社会的規範というか、そういうもので見ると全体がゆがんでいるんだ。どんなに山根が、自分は間違ったことはやっていないと思っていても、法によって罰せられることはあるんだよ。」 山根「もしや、あなた、実質課税の原則なんていうものを念頭においているんじゃないですか。」 中島「ま、そういうことだ。」 山根「冗談じゃない。そんなもの持ち出してきて脱税だ、犯罪だなんてやられたら、たまったもんじゃない。どうかしているんじゃないですか。」 中島「実はこんなこと被疑者に言うべきことではないんだが、うちの内部でもいろいろと意見があってね。」 2. 中島は、検察内部で仮装売買の線では立件できないとする意見が再び出てきていることを暗に匂わせたのである。  従って、仮装売買の構成が崩れた場合にそなえて、仮に真実の取引であったとしても、脱税であると強弁しようとしているのは明白であった。 3. 私はなんとか中島を説得しようと試みた。 山根「実質課税の原則というのを、あなたは本当にご存知なんですか。誰かさんの入れ知恵でしゃべっているんじゃないですか。」 中島「もちろん知っているさ。オレはいささか税法には自信があるんでね。」 山根「それは結構なことです。じゃ、お尋ねしますが、不正行為の一切入っていない事例で、実質課税の原則を根拠として脱税とされた事例があるんですか。」 中島「・・・。」 山根「あるはずがないと思いますが、もしあるのなら、調べてから後で教えて下さい。」 中島「・・・。」 山根「実質課税の原則というのは、不正行為あるいは違法行為がなくとも、取引の実態から課税上の弊害が生じている場合に、課税できるというほどのもので、あくまで徴税サイドの理屈にすぎないものです。  このようないいかげんな物差しを犯罪である脱税の根拠にするなんて、開いた口が塞がらない。」 中島「・・・。」 山根「ところで中島さん、レバレッジド・リースをご存知ですか。」 中島「なんだそれは?」 山根「金融商品の一つで、大手の会社が盛んに節税対策として売り込んでいるものです。」 中島「フーン。」 山根「たとえば、100人から1億円ずつ集めると100億円になりますね。そのお金でたとえば航空機を購入して航空会社に貸し付けるんですよ。  100人の人達は組合をつくったことにして、手続きその他一切のことは大手の会社が代行するシステムなんです。  当初は、組合に航空会社から入ってくるリース料よりも減価償却費のほうがはるかに大きいものですから、組合としては大幅な赤字が生じます。この赤字を100人それぞれが自分達の節税に利用するわけです。  つまり、1億円の金融商品を買うだけで、利益の繰り延べができるんですよ。  このレバリッジド・リースなど、実態からすれば一人一人は単に1億円の金融商品を購入するだけで、航空機など関係ないんですね。組合といっても形だけのものだし、自分達が買ったことになっている航空機の現物を一度も見たこともないんです。  これなんか、あなたの言う経済的合理性だとか、実質課税の原則を持ち出してきたら、たちまちアウトになるんじゃありませんか。」 中島「・・・。」 山根「しかも、現在でも堂々と金融商品として売られており、税金の面でさえ否認されたケースはないはずです。  ましてや、更に一歩進めて、脱税と認定されたなんて聞いたことがありません。」 4. 検察当局は、何がなんでも私を立件しようとしていたのであろう。この日の議論の後でも、このテーマについては、中島と何回ともなく話し合った。  中島は私の説得に対してあいまいな受け答えに終始し、取調べの最終日であった平成8年3月4日、彼は、「山根の言っていることに嘘のないことはよく分かった。最終判断は、私ではなく、主任検事がすることになる。」と私に申し述べ、逃げてしまった。 5. 私は結局、仮装売買をタテに脱税で立件された。仮装売買の線が崩された場合にそなえて、予備的に実質課税の原則の屁理屈が用意されていた。  実質課税の原則を根拠として、脱税という犯罪に問うことができないことは税務の常識に属することである。我が国には、脱税を処罰する法律は存在するものの、租税回避行為を処罰する法律など存在しないのである。  中島を含む複数の検事が、私を立件し、しかも予備的とはいえ、常識では考えられない実質課税の原則などを持ち出してまで、私を有罪に陥れようとしたことは、検察が社会正義の砦であることを放棄し、犯罪集団に堕したことを自ら宣言するものであった。   (オ)「素人考え」 1. 平成8年2月27日、逮捕33日目のことであった。  組合長岡島信太郎氏の取調べにあたっている藤田義清検事が、岡島氏を脅して虚偽の自白を引き出した、――  中村弁護人から信じられない話を聞いた私は、中島に対して検察の取調べの非をなじり、厳重に抗議した。二人の間には険悪な空気が漂った。 山根「検察の片われであるあんたの顔なんて見たくないし、話もしたくないね。」 中島「オレだってそうだ。山根は今まで出会った中で最低の男だ。」 山根「君だって検事として最低の奴だ。」 中島「何だって。山根は今まで検事に会ったことはないだろう。」 山根「検事くずれの弁護士、ヤメ検にはかなり会ってるんだ。皆、ロクな奴はいなかったね。」 中島「・・・。」 山根「あとお互い9日のしんぼうだ。一生君とは会わないだろうし、会いたくもないね。顔を見るのもいやだ。  犯罪製造集団じゃないか、君達は。何が正義の味方だ。」 ――売り言葉に買い言葉であった。  中島は、私が一向に音をあげないし、頑としてシナリオ通りに嘘の自白をしようとしないばかりか、生意気にも時々噛みついてくるので、このところかなり苛ついていた。  イライラ検事、略してイラ検、しかも中島は熊を思わせる大男である。私は中島に対して、密かに『イラ検の熊五郎』なる愛称を奉ることにした。  この日はイライラがピークに達したらしく、時折椅子から立ち上がっては、私の前を虚ろな目付きをしてウロチョロと徘徊し、眉を寄せて頻りに何か考えるふりをした。  イラ検の熊五郎が痴呆症にでもなったのかと他人事ながら心配したほどであった。 2. 擬似徘徊性痴呆症が一時的に寛解した中島行博が、気を取り直したように大きく息を吸い込み、ドッカと椅子に腰を下ろすや、私に向って猛然と喚き出した。  咆哮が始まったのである。 中島「大体考えてみろ。こんな小細工が社会的に通用すると思っているのか。  こんなことは素人の考えだ。せいぜい会計事務所に勤めている古手の職員が思いつくようなチャチなことだ。専門家である会計士としては、『そんなことやめなさい』といって中止させるのが当たり前だ。  それをこともあろうに、自分で考えて、しかも実行に移すんだからな。お前みたいな奴は気狂いだ。どうかしてるよ。  お前は本当にヘンな会計士だよ。」 3. 私は一瞬防御の姿勢をとって身構えた。本当にパンチか足げりが飛んでくると思ったのである。猫パンチならまだしも、熊パンチならたまったものではない。  幸いにも肉体的暴力は私の杞憂に終り、ほっと胸をなでおろした。 4. それにしてもよく言ってくれたものである。会計事務所の古手の職員、――中島には偏った思い込みがあるのではないか。  たとえば、わが山根会計事務所の職員についていえば、十年以上にわたって勤務しているベテラン揃いで、半数の職員のキャリアは二十年を超える。  それぞれ事務所で長年会計の実務に携わり、責任ある仕事をテキパキこなしてきた優秀な人達だ。まさしくプロフェッショナルであり、たとえ資格がなくとも素人などと軽々しく言える存在ではない。一人一人が、パブリック・アカウンタントであり、資格などなくとも立派に通用するプロである。たとえ税理士という資格を持っていても、まともな仕事がほとんどできない、どこかの役所の古手よりは、はるかに優れている。  そのようなプロフェッショナルを十把ひとからげにして、中島は素人と評し、素人考えとこきおろした。更には勢い余って、私に対して面と向って気狂いとののしり、ヘンな会計士であると言い放った。  私もいくつか猫パンチを繰り出して応酬してみたが、擬似徘徊性痴呆症が十分に寛解していないイラ検の熊さんをまともに相手にしていても大人気ない、と思い直し聞き流すことにしたのである。 (カ)「前門の虎、後門の狼」 1. 平成8年2月24日、逮捕30日目のことであった。  中島は、一つの熟語を持ち出し、どうだ参ったか、と言わんばかりに私に向き直った。私を攻めあぐんでいただけに、自分に活を入れようと思ってひねり出したもののようであった。 中島「今の山根は、いってみれば『前門の虎、後門の狼』ってところだな。ま、いずれにしても逃げ道がないってことだ。」 山根「それはまた、どういうことですか。」 中島「前門には仮装売買という虎がおり、後門には公正証書原本不実記載という狼がいるってことだ。虎から逃げることができたとしても、ちゃんと狼が控えてるって寸法だ。」 山根「つまり本件は無罪となっても、別件で有罪になれば、資格に傷がつき会計士として仕事ができなくなることでは同じだというんですか。」 中島「ま、そういうことだ。」 2. およそ漢籍の素養など想定できない中島の口から、いまどきめったに耳にしない熟語がでてきたのには、驚いた。  この日以後も、何回か中島の口からこの言葉が繰り出された。常日頃余り縁のない言葉を、自らの仕事の現場でうまい具合に使うことの出来たことで得意になっていたのだろう。 3. 山根「中島さん、あなたは『前門の虎、後門の狼』とおっしゃいますが、もしやそれは、『前門の熊、後門の猫』の間違いではありませんか。」 中島「え?なんだって?そんな言葉が本当にあるのか。」 ――中島、少し慌てている。単純明快な人柄が、もろに現われた。 山根「いや、いまひょっと思いついたんですよ。」 中島「・・・。へんなこと言うんじゃない。」 ――何故か、中島怒っている。 山根「なにもへんなこと言ってはいませんよ。」 中島「それはどういうことなんだ。」 山根「私にとっては、本件こそが重要なんで、別件なんて本件に比較したらどうでもいいことです。  仮に本件があなた達の陰謀通り有罪になってごらんなさい。私を含めた10人以上の人達が、破産に追い込まれることになってしまい、眼もあてられない。私だけならまだしも、私を信頼してついてきてくれた組合の人達まで、そんなことに巻き込んでしまっては、私としては死んでも死に切れない思いがするでしょうよ。」 中島「しかし、別件とはいえ有罪になれば、会計士の資格が駄目になってしまうんじゃないか。」 山根「そうでしょうね。しかし、それは私一人のことで他の人達には関係のないことです。  もともと会計士の資格なんて、メシを食うためにやむなく取得したものだ。長年この資格によってメシを食わせてもらってきたんだから、未練がないと言ったら嘘になるが、それほどのものではない。  私だけでなく、多くの人達が破産の憂き目に会うことを思えば、会計士の資格なんて屁のようなものだ。」 中島「やけに強がっているが、本当にいいのかな。」 山根「いい訳ないでしょうが。あくまで比較の問題だ。  私にとって、全体を100%とした場合、本件のウェイトは99%位で、別件は1%位のものだ。  ところで、さきほど、前門の熊と言ったのは、中島さん、実はあなたのことなんですよ。」 中島「なんだって。」 ――中島が目をむいた。また怒っている。 山根「そのあなたが、ああでもない、こうでもないと言って議論をふきかけてきて、強引に私をねじふせようとしてきたのは、もっぱら本件の仮装売買のことであって、別件のことなんて、ほとんど二人の話題にのぼってないじゃないですか。」 中島「・・・。」 山根「だから、前門で私を脅しあげているあなたさえ退治すれば、後門には何がいようとどうでもいいことなんです。後門にドラ猫でもいて私に歯向かってきても、せいぜい私の顔を爪でひっかく程度が関の山だ。命に別状はない。  私が思いつきで、『前門の熊、後門の猫』と言ったのは、ま、このような意味合いと思って下さい。」 4. 『前門の虎、後門の狼』――中島が勝ち誇ったように何度となく私に申し向けたこの言葉は、検察の、いわば敗北宣言であった。  中島は私を取調べたかなり早い段階で、私の供述に嘘がないことを知り、検察が組織をあげて構築した断罪のシナリオが虚構であることを十二分に知っていたのである。  本件では負けるかもしれないが、別件で私の息の根を止めてやる、――はからずも犯罪集団の一員に加わってしまった中島のせめてもの虚勢であり、敗北宣言にも等しい、引かれ者の小唄であった。 (キ)「謝辞」 1. 中島は、40日の取調べの中で、私に三回、自らの机に両手をついて私に頭を下げた。頭を下げ、謝辞を表明したのである。   2. 一回目は、平成8年2月1日のことであった。  同年1月31日の午後の取調べの折、中島は例によってピント外れの難クセをつけ、私をいじめ始めた。 中島「山根は、取引の両方から利益を得ているんじゃないか。」 山根「そうですよ。何か問題でもあるんですか。」 中島「双方代理のようなことをして、会計士の職業倫理に反しないのか。」 山根「私は双方の仲介をしただけで、双方代理なんかではない。何を言っているんですか。あなたに会計士の職業倫理なんて言われる筋合いはない。」 中島「それにしても、山根はヘンな会計士だな。会計士の分際でそんなことしていいのかな。ま、会計士フゼイはそんなことしても平気なんだろうな。」 3. この時は、取調べの初期の段階で、中島という人物がよく把握できていなかったので、とりあえず何も言わずに引き下がった。  夕食のために独房に帰って改めて考えたところ、次第に腹が立ってきた。放っておくわけにはいかない。  夜の取調べの時、私は開口一番、中島に向って強く抗議し、訂正を求めた。 「昼の取調べの時、あなたは私に対して『会計士フゼイ』だとか『会計士のブンザイ』とか言われたんですが、これは、私個人を侮辱するだけでなく、公認会計士全体を侮辱するものだ。訂正した上で、謝って欲しい。」  私の抗議に対して、中島はそんなこと言った覚えはないと言ってつっぱり、謝ろうとはしなかった。なんとも強情な男である。   4. 翌2月1日の取調べの冒頭、中島は頭を下げて、次のように言った。 「『会計士フゼイ』など自分としては言った覚えがなかったが、念のためここにいる渡壁書記官にきいてみたところ、一度だけ言ったようだ。誠に申し訳なかった。」 5. 二回目は、同年2月21日のことであった。  中島はこの日の取調べの始めに、いきなり次のように切り出してきた。 中島「どうも山根の言っていることは嘘ではないようだな。」 山根「当然のことですが、改まって何故そんなことを言うんですか。」 中島「いや今日の午前中に、山根が宅下げに出したノートを見せてもらったんだよ。オレに言っていることと同じことが書いてあったんでね。」 山根「何ですって。あなたにそんなことをする権限があるんですか。私が問題点をこと細かく記して弁護人に渡そうとしたノートを、勝手にのぞき見するんですか。それでは騙し討ちと同じじゃないか。  あなたは私と信頼関係を築いて話し合いをしたいと、申し出たばかりじゃないですか。そんな騙し討ちをしておいて信頼関係を口にするなんて、白々しいにも程がある。」 中島「たしかに、無断で山根のノートを見たのは申し訳なかった。おわびする。」  これが二回目の低頭であり、叩頭であった。 6. 平成8年年3月6日、この日は、中島の取調べの最終日であった。中島は、姿勢を正し、改まった口調で次のように言った。 「40日もの間びっしりとつき合い、根を詰めて捜査にあたったのは、山根さん(この時はさん付であった)を含めて今までに3回程しかない。以前の2つも、私にとっては忘れることのできない思い出となっているが、山根さんについても同様だろう。  お互いいろいろ言い合ったが、山根さんは一生懸命に思い出し、積極的に取調べに応じてくれた。感謝している。これで会うことはないと思うが、どうか元気でお過ごし下さい。」  この時、頭を下げたのが三回目であり、最後のものであった。私も丁重な礼をもって中島に返した。 7. たしかに、中島が発する意地悪な質問に対して、私は逃げることなく正面から向っていった。  私が考えてもみなかったような観点から、根掘り葉掘り意地悪な質問をしてくるので、当初は勝手にしろとばかりに放っておいた。しかし、いずれ法廷で同じような質問をされることになるとの中島の一言によって、方針を変更し、即答できない点は独房に帰ってじっくり考えてから答えることにしたのであった。  私の思考回路とは全く異なる方向から、思いがけない質問がとんでくるので、少なからずとまどったのは事実である。全体の整合性を考えながら、中島が求める回答を準備するのは大変なことであった。  このとき痛感したのは、私の場合、嘘でなく真実であったから耐えることができたということだ。40日間の尋問は想像以上に重いものであった。  仮に少しでも私の中に偽りが入っていたとしたならば、中島の厳しい追及をかわすことなど到底できなかったであろう。 8. 中島が作成した供述調書は、面妖な禅問答であると同時に、中島の挙足とりの尋問に対して、私が時に油汗を流しながら、必死になって思い出し考えぬいた回答がギッシリ詰まっている問答集でもあったのである。 9. 中島は私に都合3回頭を下げた。初めの2回は、私に謝ったものであり、その意味での謝辞の表明であり、3回目は、私に感謝の意を述べたものであり、その意味での謝辞の表明であった。 10.中島が深々と頭を下げ、被疑者たる私に謝意を述べたとき、私の涙腺は思わずゆるみ、中島に対する憎しみの情が昇華し、急激に薄らいでいくのを覚えた。  中島とすごした閉鎖空間での40日間は、私にとっても間違いなく生涯の想い出として残る貴重な日々であった。 (5)問わず語り   一、 中島行博は、話好きの男であった。とりわけ検事として自ら体験したことを語り出すと、生々と精気が漲り、誇らしそうであった。  私は、会計士という職業柄、多くの人から、さまざまな問題について相談を受け、それぞれしかるべき回答を求められる。  私の仕事の第一歩は、まず相談者の話をじっくり聞くことから始まる。必要な情報を得られるように誘導しながら、徹底的に話を聞くのである。従って私の場合、長々と他人の話を聞くことはさほど苦痛ではない。むしろ楽しみでさえあるといってよい。  どのような状況に置かれている人でも、わざわざ私のところに相談に来る人は、真剣勝負をしている人生の一断面を携えてくるわけである。  じっくり話を聞くうちに、私の中に共感が生じ、相談者の人生の一断面を、私もいわば共有する立場になる。その人の人生の一部分が私の想念の中で、私の人生と合致するようになると、楽しみの領域を超えて喜びの領域に入っていく。  いずれにせよ、私は珍しい話を聞くのが大好きで、一流の聞き上手であると自負しているだけに、話好きの中島とはピッタリと息が合ったのである。  題して「問わず語り」――中島のプロ並みの話術が展開される。 二、 「鬼検事」 「オレが検事として初めて赴任したのは長崎地検だった。  地元のチンピラが警察に逮捕されて、オレのところに連れてこられたことがあった。長崎にのさばっているワルの一人で、飲み屋などから、みかじめ料(用心棒代)をせしめては、しのぎにしている暴力団の下っ端だった。  ところが、一軒だけみかじめ料を出し渋ったスナックがあった。示しがつかないと思ったんだろうね。見せしめのために、こやつ店に対していやがらせを始めた。   スナックのママが警察にかけ込んだが、今一歩のところでなかなかしょっぴくところまでにはいかなかった。そこらの呼吸をよく心得ていたんだな。  ところがある日、いつものように店に嫌がらせをしていたんだが、勢い余って、店の入口のドアを蹴っとばしたところ、その拍子にドアのガラスにヒビが入ってしまった。  警察はしめたとばかり喜んだというね。器物損壊と威力業務妨害でご用となった。  このチンピラが見せしめのために店に執拗な嫌がらせをしたんだから、オレも見せしめのために、実刑を喰わせてやることにしたんだ。判決は、懲役8ヶ月の実刑だった。  この情報は長崎の暴力団にまたたく間に拡がり、ドアを蹴っ飛ばしただけで8ヶ月の実刑を喰わせた鬼検事ということで、一寸した話題になったらしい。  オレが長崎地検から転出したときには、チンピラ共が集まってお祝いの乾杯をしたというね。」   三、 「越山会会長」 「新潟地検高岡支部にいたときのことだった。西山町の町長が手錠腰縄つきでオレの前に連れてこられた。  西山町といえば、田中角栄が生まれた町で、そこの町長を三十年も勤めている男だった。  田中角栄の後援会組織である越山会の会長をしており、角栄の一の子分であった。  この町の土建屋が二人程この男にくっついて長年の間、町の公費を食いものにしていたんだね。それがふくれにふくれ上がり、十数億円になってしまった。さすがに隠し切れなくなって、背任罪でご用となったって訳だ。  このとき、できるだけ迅速に取調べをするように、上からの指示があってね。なんせ、77才という高齢だし、半年程前にガンの手術をしていたので、いつ死ぬか分らない状態だったんだからな。  さすが田中角栄が信頼した男だ。潔ぎよかったね。あんたとはえらい違いだ。自分の手帳を出して、積極的に捜査に協力してくれた。  取調べの合い間に、角栄のことや娘の真紀子のことをいろいろと話してくれたね。  田中角栄もこの間死んでしまったが、今太閤ともてはやされた風雲児にしては哀れな末路だったな。刑事被告人となってからも政界の闇将軍として君臨したまではよかったが、一の子分であった竹下登という島根の策士に寝首をかかれ、やけになってオールド・パーをぐいぐいあおったというね。その結果が脳溢血だ。   竹下登といえば、山根の地元じゃないか。竹下とは親しくしているのかな。いない?竹下登と親しくできるほど、山根は偉くないというんだな。それはよかった。つい口がすべって悪口を言うところだった。  それにしても、晩年の田中角栄は、脳溢血患者特有の泣きジジイの状態で、テレビで見ていても気の毒だったな。今太閤が泣きジジイになったらおしまいだよね。」 四、 「ウンコ男」 「東京地検にいたときに出会った男は忘れることのできない存在だ。40才台の男で、刑務所を出たり入ったりしている奴だった。20才すぎてからは、ほとんど刑務所の中で過ごしていたんだろうな。  出所しても3千円とか5千円位の一寸した無銭飲食でつかまって、逆もどり。これを繰り返していたようだ。  この男が小菅の拘置所にいたとき、房内に自分のウンコを塗りたくったものだから、小菅の方でも手を焼いてほとほと困ってしまった。ウンコを食器になすりつけたり、壁や畳にこすりつける訳で、小菅が音をあげて検察の方になんとかしてくれないかと泣きついてきた。  オレは小菅まで行ってみたよ。看守や実際に房内を掃除した5人程の受刑者に会って話を聞いたんだ。皆んな顔をしかめて口々に言ったね。「いくら拭いても臭いがとれない。あんな臭い思いをしたのは生まれて初めてのことだった。」  そこそこの経験をしてきている連中が口を揃えてあれだけ言いつのるんだから、よっぽど臭かったんだろうな。結局、一ト月位その房は使用できなかったようだ。 オレは何とか、器物損壊罪という罪名を考えついて起訴したんだがね。収容先については小菅が断ったものだから、八王子の刑務所へ行くことになった。その後、精神鑑定をして精神病院へ送ったよ。  しばらくして、病院にいる男からオレのところに一通の手紙が届いた。精神病院よりもまともな刑務所のほうに移してくれという内容だった。早速オレは精神病院まで出向いて会ってみた。男はオレにすがるように嘆願したね。「あんな連中と一緒にいるのはいやだ。気持ちが悪い。普通の刑務所のほうがよっぽどましだ。なんとか移してくれ。」まったく、そういうオマエは何だっていうんだよ。  結局、シャバでは生活ができない男だったんだな。」 五、 「ドイツの判例」 「一つ、ドイツの判例を教えてあげよう。トルコからの移民の男が妻を殺した。妻が他の男と浮気をしたんだね。トルコでは夫が妻の浮気の現場をおさえて制裁のために妻を殺したとしても、何ら罪に問われることはない。こんな女、殺して当然だと思って本当に殺してしまった。ところが、ドイツの裁判所はその男のことを有罪としたんだ。  いくら自分では罪がないと思っていても罰せられることがある訳だ。山根の場合も同じだ。  たとえば、リクルート事件がそうだ。NTTの真藤にせよ、代議士の藤波にせよ、本人には全く罪の意識がなかったようだ。しかし、罪に問われているんだな。もっとも第一審では真藤は有罪、藤波は無罪だったがね。ただ、藤波の無罪判決は、検察内部ではえらく評判が悪いものだったね。いくら裁判では無罪でも、政治家としては二度と再び立ち上がることはできないだろうな。  広島地検でのことなんだが、広島県内では名の知れた農協の組合長を背任であげたことがあった。2千万円程の資金流用だった。この組合長はもともと資産家で、不動産のほかに、億単位の預貯金を持っていた。だから、使い込みする気持ちなんて全くなく、すぐに返せばいい位の軽い気持ちで組合の金に手をつけた訳だ。本人には罪の意識などまるでない。  「何で逮捕する前に私に一言いってくれなかったんだ。すぐに2千万円を組合に返すから、なんとか許してくれないか。」と私に泣き言を入れてきたが、後の祭りだ。キッチリと事件にして、起訴してやったね。  ま、このように、自分では全く罪の意識がなくても罪に問われることが往々にしてあるわけだ。山根の場合も同じだよ。」  平成8年3月5日、午前10時10分から同11時まで、松原三朗弁護人との接見があった。私にはドイツの判例の話がよく理解できなかったので、松原弁護人にぶつけてみた。 「ドイツの殺人の例は、法律の錯誤の問題で、山根の場合とは全く関係がない。検事のいいかげんな話に惑わされないように。」  これが松原弁護人のコメントであった。 六、 「粗製ガソリン脱税事件」 「ついこの間扱った事件なんだがね。粗製ガソリンを密造しては税金をごまかして、しこたま儲けた一味が一網打尽になった。名古屋とか大阪にも拠点を置いて、かなり手広く荒稼ぎしていたようだ。中心メンバーが五人逮捕されて、その内の一人がオレのところに連れてこられた。  この男、警察の捜査段階では、ちゃんと罪を認めていたくせに、オレの前に出たら、供述を翻し、否認に転じ、知らぬ存ぜぬの一点張りとなった。  否認などしていると当然保釈は認められない。すでに起訴されて4ヶ月にもなるが、保釈されていない。当分駄目だろうな。他の4人は素直に白状して認めたから、起訴と同時に保釈さ。いくら意地を張ってみてもどうしようもないのに、馬鹿な男だ。  山根の場合も同じことだ。信念をもって全面否認をしているようだが、否認している限り、いくらたっても保釈はされないだろうな。  早くシャバに出て、身辺整理をしたほうがよくないか。冷静に考えたらずっと賢明だと思うよ。  オレの前でとりあえずいったんは認めておいて、法廷で実際のことを堂々としゃべればいいではないか。判断は裁判官がすることだし、その裁判官の前で、オレが作った供述調書を否認して、真実をしゃべれば済むことだ。  早く保釈されてシャバに出たければ、ここでとりあえず認めたことにするんだな。悪いことは言わないよ。」  日本の裁判制度において、検面調書がいったん出来上がり、それが法廷に証拠として提出されると、よほどのことがない限り、覆されることはない。いわば検面調書の特信性については知悉していたので、私は敢えて反論せず、中島の饒舌を聞き流した。 七、 「手形パクリ事件」 「山根のところから押収したものの中から、面白いものが出てきたが、この手形パクリ事件って一体何なんだ。  なんだって、会計士の守秘義務があるから話すことはできない?ま、いいだろう。  でも、あんたの作成した調査報告書は読ませてもらったよ。なんせ押収品だからな。ここに出てくるT弁護士ってのはオレもいささか知っているんだ。検察のOBだからな。  Tが検事として東京地検の特捜部にいたときのことだった。九州のK町の町長が多額の使途不明金を出したことがあった。この事件の主任検事となったTは、上司の許可を得ないで部下の検事をひきつれて、K町に乗り込んだ。このとき福岡空港で週刊誌の記者にバッチリと写真に撮られ、スキャンダラスに大きく報道されることになった。  このことが一つのきっかけとなって、Tは検察をやめたってわけだ。弁護士になったTは、もっぱら闇世界がらみの仕事を手がけ、そのためだろうな、Tの稼ぎは弁護士としては断トツだ。  それにしても、山根はよくここまで調べ上げたな。感心するよ。これだけでも立件できるんじゃないか。  なに?そんなことしたら藪へびだって?・・・フーン、M地検の検事正がからんでいるのか。そんなら無闇にいじくることはできないな。」  昭和16年生まれのM地検の元検事正は、現在は退官し広島で弁護士事務所を開いている。  自家用ヘリコプターを乗り回すほど羽振りのよかったヤメ検のT弁護士は、その後大型詐欺事件の共犯者として逮捕され、公判中である。 六.その他検察官言行録 (1)田中良 一、 松江地方検察庁次席検事。マルサ事案の統括責任者。中央大学法学部卒。  検察内部で一部慎重論があったにも拘らず、強引に逮捕・起訴に持ち込み、マスコミに虚実とりまぜた情報をリークし、元来ほどほどのワルでしかなかった私を稀代の悪徳公認会計士に仕立て上げた中心人物。 二、 事務所の職員古賀益美氏が回想する、―― 「そう、あれは、平成6年6月30日、天気のいい日曜日のことでした。私、その日は休みだったんですが、やり残した仕事がありましたので、事務所に出ていました。お昼の弁当を買いに出たんです。買い求めた弁当を手にビルに向っていました。午前11時30分頃のことです。  何気なく前に目をやると、頭の毛がかなり薄くなった中年の男が、山根ビルの様子をうかがっているんじゃありませんか。  テレビで見たあの顔です、起訴のとき、テレビの記者会見の席で、「背景に大型脱税が・・・」なんて、上眼をつかい冷たい顔をしてしゃべっていたあの男、田中良に間違いありません。しっかり録画もしてあるんですから。  陰気臭くて、しかも憎らしく思っていた相手です、忘れるわけがありません。」 三、 「下腹がふくらんだ中年体型の田中は、胸のところに水色と紺の太い縞のあるポロシャツを着て、山根ビル隣の家電量販店の前で、タバコをふかしながら、山根ビルをじっとうかがっていました。獲物を狙っている蛇のようでしたね。  私、ビルの入口にさしかかったとき、急に思い直して、引き返すことにしました。田中が何をしているのか、近くでゆっくり観察しようと思ったんです。  すると、むこうも気がついたんでしょうね。慌てて家電量販店の中に入っていってしまいました。まるで子供がワルサを見つかってしまった時のように、オドオドとパニクっていました。きっと、うしろめたいことをしていると思っていたんでしょうね。  私も急いで店に入ってサッと見回してみたんです。いましたねえ。向うも陳列棚から少しばかり首を出して、こちらを見ていたんです。二人共、亀みたいな感じで。  しばらく陳列棚を挟んで、お互い相手の様子を探り合っていたんですが、いつの間にか見失ってしまいました。」 四、 「それにしても、田中はびっくりしたんでしょうね。中年のおばさんが何やら買い物袋を小脇にかかえて、露骨に後をつけてきたんですから。検事として、今まで人を追っかけたことはあるんでしょうが、人から、しかもわけの分からない中年のおばさんから追っかけられて逃げ回ったなんてのは、初めての体験だったんでしょう。なんせ、慌てていましたからね。  私、伊丹十三の「スーパーの女」のワンシーンを思い出しました。スーパーの店長と、指で商品に穴を開けてまわるお婆さんの場面ですよ。二人が、スーパーの陳列棚をはさんで、相手の出方をうかがいながら、抜き足、差し足、忍び足といったシーンでしたね。当事者の二人は真剣勝負ですから大真面目ですが、第三者から見ればなんとも滑稽な場面になってしまうんですね、  私達の場合、さしづめ『晴れた日曜日の昼日中、買物帰りの中年女性にうしろめたい行為を見とがめられて追跡され、やっとのことで逃げおおせた、これまた中年の下腹のでた地検ナンバーツーの検事』といった図柄にでもなるのかしら。」 五、 「田中が何のために山根ビルを偵察していたのか、本人に直接尋ねてみないと分かりません。  おそらくは、山根会計事務所がどうなったのか確認するために見に来ていたんでしょう。  山根所長が逮捕されたのが、1月の末でしたから、5ヶ月も経っています。そろそろ事務所が潰れてもいいころだと思ったんでしょう、通常であれば、そうでしょうからね。  だってそうでしょう、検察としては山根所長の拠点がなくなってしまえば万々歳だったんでしょうからね。  裁判費用も賄えなくなるし、更には、事務所がなくなってしまえば、頑として否認を通している所長も気落ちの余りやけっぱちになって、嘘の自白をするかもしれないじゃないですか。それこそ検察の思うつぼですよ。  田中良としては、とっくの昔に潰れていてもおかしくない山根事務所がどうも以前と変ることなく営業をしているらしいとわかって、いまいましいような気持でいたところを、いきなり怪しげな女が出てきて、あろうことか検事サマをつけまわし始めたんで、さぞかし驚いたことでしょうね。」 六、 「その後も、田中良は、私が確認しただけでも、2回、山根ビルを偵察にきていました。  田中はよほど気にしていたんですね。」 (2)藤田義清  一、 松江地方検察庁三席検事。マルサ事案の主任検事。  公判前に、主任検事として田中良と共にマスコミに偽りの情報をリークし、私の保釈請求に対して、嘘を重ねて却下するように裁判所を誤導した人物。  組合の代表者岡島信太郎氏を逮捕し、尋問、虚偽の自白を強引に引き出した検事の一人。 二、 平成8年1月26日、朝7時前に、藤田義清は、広島国税局の3人のマルサをひきつれて、益田市の組合の代表者岡島氏宅に赴き、岡島氏の身柄を拘束し、益田から松江地検に移送した。 三、 平成8年2月27日、午前9時30分、中村弁護人と接見。組合長の岡島氏が藤田義清の誘導尋問に引っかかり、無理矢理嘘の供述をさせられたという。岡島氏は組合の責任者であるだけに、大変なことになった。  中村弁護人は岡島氏との接見の際、直ちに供述調書の訂正を申し入れるように、力をこめてアドバイスした。 四、 同年2月28日、午前9時30分、中村、松原両弁護人と接見。岡島氏にも接見し、ウソの自白をした供述調書の訂正を引きつづき申し入れることと、真実でない自白を絶対にしないように改めて強く要請した旨、伝えられる。 五、 同年2月29日、午前9時30分、松原弁護人と接見。岡島氏に接見し、嘘の自白調書の訂正について尋ねたところ、岡島氏は次のように話していたという。 「昨日、藤田義清に供述の訂正を申し出たところ、藤田は血相を変えて、えらい剣幕で机をバンバン叩き、足を踏み鳴らして私を威嚇し、どなりまくりました。このため昨日は一日中供述調書の作成ができないほどでした。今後はどんなに脅されても、藤田の手には絶対に乗らない、真実ありのままのことしか供述調書にはのせないと心に誓い、腹をすえて取調べに向かいます。」  松原弁護人の報告を聞き、少し安心する。 六、 同年2月29日、岡島氏がウソの供述について訂正を申し入れてから二日後に、検察官藤田義清はしぶしぶながら訂正の供述調書を作成した。岡島氏が訂正に応じなければ、今後の取調べを拒絶する旨、強く申し渡したからである。    同年2月29日付の供述調書の全文を掲げる。 『先日、千葉の土地建物の取り引きについて、事情を話しました。  その中で、取り引きに至るいきさつや当時の状況などは、そのとおり間違いありません。  ただ千葉の土地建物の取り引きについて、私が、形だけのものだと思っていたとなっている部分については、不本意ですので、訂正して下さい。  先日の二月二七日、弁護士先生に調べの状況などについてお話ししたことがありました。  その時に弁護士先生から  不本意な点があれば調書の訂正をしてもらいなさい と言われたのです。  検事さんは、私の言うことがおかしいと思われるかも知れませんが、当時、私がそう思っていたと言っているのですから、そのとおりの調書にして下さい。  そうでなければ調書に応じることが出来ません。  岡島信太郎印 』 七、 この時作成された検面調書は、当初法廷に開示されることなく、隠匿されていた。藤田義清は、マルサ事案の主任検事であるだけに、自ら作成したこのような供述調書は、ことさら表に出したくなかったのであろう。  被告人弁護側の度重なる開示要請によって、第一審の審理が終わりにさしかかったとき、裁判長が開示勧告をし、不承不承に公判検事立石英生が開示したいわくつきのものであり、この時開示された26通の検面調書のうちの1通が、これである。 (3)立石英生 一、 大阪地方検察庁堺支部検事。第一審の主たる公判検事。第一審の33回にわたる公判廷のうち、第11回、第20回及び第33回以外の全ての公判廷に、検事として出廷。  中央大学法学部卒。山根会計事務所の職員小島泰二氏を逮捕し、尋問を担当。 二、 平成8年1月28日付で始まり、同年3月17日付で終る立石英生の作成になる小島氏の供述調書は13通である。  小島氏は、組合担当の職員ということで逮捕勾留され、私を突き崩すための重要な人物として、他の被疑者もしくは参考人とは違った取調べが、立石英生によってなされた形跡がある。 三、 小島氏は山根会計事務所の古参の事務職員で、私が全面的に信頼していた人物であった。一流私立大学を出て、人柄もよく、仕事もよくできたからである。  その小島氏が逮捕され、立石英生の取調べを受けてから全く別人になってしまった。  私は当初、小島氏が逮捕されたショックによるものと考えていたが、それだけではどうにも説明のつかないことがいくつもあり、腑に落ちない思いを抱きつづけてきた。 四、 この度私の10年間を客観的に見つめ直すために、裁判関連の資料をじっくりと読み直したところ、今まで気がつかないことがいくつか分かってきた。  その結果、小島氏が私にとって別人のようになってしまったのは、逮捕という衝撃の他に、立石英生が小島氏に対して通常では考えられないことを仕掛けたからではないかと考えるに至った。 五、 小島氏は平成8年1月26日、別件で立石によって逮捕され、40日間の尋問を受けた。その後、釈放され、本件では立件されることなく、在宅のまま初公判に臨んでいる。  その間、立石は小島氏を脅し、なんらかの取引を持ちかけたのではないか。あるいは、小島氏がなんらかの行動をするように仕向けたのではないか。私の疑念は、ほとんど確信に近いものとなった。 六、 しかし、確信したと言っても、直接小島氏に問い質し、確認した訳ではない。保釈中は、事件関係者との接触は禁じられており、この保釈条件を破ると再び収監されるおそれがあったため、一切小島氏とは直接話をしたことはなかった。又、裁判が終了してからも、小島氏に対して強い不信感を抱くことになったため、一切の接触をしていない。  従って、小島氏と立石検事との間で、拘置所内という密室でいかなるやりとりがあったのかは、私の推測の域を出るものでない。  このため、立石検事が密室の中でどのようなことを小島氏に対して仕掛けたのかについての憶測は差し控え、供述調書と法廷調書のみにもとづき、小島氏の真意からはるかにかけ離れた偽りの自白が、どのようにして供述調書の上でなされたのか明らかにする。 七、 「供述調書の足跡その1」  立石が作成した小島氏の供述調書において、まるで別人格ともいえる小島氏が登場する。  まず、私を呼び捨てにしていることが注目される。  平成8年1月28日付の第一回目の供述調書において、小島氏は、わざわざ「以下、山根公認会計士のことは、言い慣れているので『山根所長』と呼ばせていただきます。」と言っていながら、それ以後の供述調書では一転して「山根」と呼び捨てにしている。  私は小島氏の上司であるだけでなく、ひと回り近くも年が上である。元来、小島氏は全ての人に対して長幼の序を弁えている礼儀正しい人物であった。それが逮捕という異常事態にあったとはいえ、余りにも不自然である。  不自然な印象が拭い切れなかったため、何回か調書を読み直していたところ、あることに気がついた。  小島氏の供述調書の初回は、同年1月28日付であるのに、第2回目は、同年2月10日付になっているのである。ここに12日間の空白がある。  この間小島氏は、私と同様に松江刑務所拘置監に勾留されており、連日のように立石英生から取調べを受けていたはずだ。12日間もの間供述調書が作成されていないはずはない。不自然である。  何通かの供述調書が作成されたものの、法廷に開示されることなく隠匿されたのではないか。その中では、私のことを「山根」と呼び捨てにしないで、「山根所長」と呼んでいたのではないか。この12日の間に、立石は小島氏にたっぷりと毒を吹き込み、洗脳作業を行なっていたのではないか。 八、 「供述調書の足跡その2」  次に私に対する印象について、にわかには信じ難いことを供述している。  小島氏は、同年1月28日付の供述調書において、昭和54年9月ごろ山根会計事務所の職員採用に際して、私と初めて面談したときの印象について次のように述べている、―― 「山根所長とは、面接の際に初めて顔を合わせ、最初の第一印象は、若いくせに生意気な感じを受けました。」  その当時、私は37才であり、開業して3年しか経っていなかった。小島氏は27才、私より十歳年下であった。  この供述調書が拘置監の房内に差し入れられ、眼を通したとき、私は気分が悪くなり、嘔吐を催しそうになった。全幅の信頼を置いていた小島氏が、私に対してこのような見方をしていたことが私を打ちのめしたのである。  「若いくせに生意気な感じ」を本当に小島氏が抱いていたとすれば、その後の私とのつきあいは、猫をかぶった虚飾に満ちたものとなる訳で、私の頭は混乱し、収拾がつかなくなった。  しかし、ここに立石英生によって悪意に満ちた囁きがなされていたとするならば、それなりに納得できるのである。 九、 「供述調書の足跡その3」  小島氏は、同年2月10日付の供述調書で、吉川春樹と佐原良夫の両人について次のように述べている、―― 「私から見れば、吉川が、あの悪名高い投資ジャーナルの中江滋樹と関係があることや、証券を取り扱う商売をしているなどと聞いていたことから、およそ地道な商売を営むものとは思えず、一攫千金を目指す、いわゆる「山師」というイメージを持っていました。  それで、そのような得体の知れない吉川やその仲間である佐原などという男と、単なる顔見知りというだけにとどまらず、仕事上のつき合いをするなどしておりましたので、私から見れば、吉川や佐原は付き合うのを避けるべき人種の人達のように思われました。」  小島氏は吉川、佐原両名との接触はほとんどなく、このような考えを持っているはずがない。私は当時、両名を全面的に信頼していたので、仮に小島氏が私から両名の情報を得ていたとしても、「山師」というイメージを抱くことはまず考えられないことである。  私がいかに怪しげな人物と接触し、怪しげな取引をしたのか、小島氏に語らせているのは、間違いなく立石英生であった。しかも、投資ジャーナルの中江滋樹氏のことまで持ち出す念の入れようであった。 一〇、「供述調書の足跡その4」  仮装売買が焦点とされた本件について、小島氏は一部事務的なことに携ったものの、核心に触れる部分については全く知る立場になかった。  それにも拘らず、小島氏は供述調書の中では、微に入り細にわたって仮装の核心について語っているのである。全て検察のシナリオ通りであった。  本件が無罪となった場合に備えて用意された別件についても同様であった。  小島氏は他の被疑者と異なり、別件に関しては私から直接指示を受けて実行した本人であるだけに、別件について最終的に無罪を勝ちとることができなかった最大の原因は、小島氏による偽りの自白であると言っても過言ではない。虚偽の自白をたくみに誘導したのは、立石英生その人であった。 一一、「供述調書の足跡その5」  公正証書原本不実記載に問われた農地の登記について、小島氏は次のように虚偽の自白をしている、―― 「実体的な権利を反映した登記ではなく、農地法の規定を無視した、不実の登記であることは間違いありません。  しかし、私とすれば、登記申請段階で、そのような事情は分かっており、けっして正しいやり方だとは思っておりませんでしたが、このようなやり方は希有なものではないと思っていたことと、山根の指示があったことから、今お話しした処理をしたのです。」 ――平成8年2月21日付、供述調書  更に、同じく賃借権の仮登記について、小島氏は次のように虚偽の自白をしている、―― 「ですから、この賃借権設定の仮登記については、実体としての賃借権は存せず、実体的な権利関係を反映させるのが登記であるという原則からすれば、実体にそぐわないものであり、その意味では不実の登記ということになりますし、そのことは私も山根も分かっていたことでした。」 ――同年2月13日付、供述調書 一二、立石英生の作成になる小島氏の供述調書は、私を犯罪人に仕立てあげることを目的として創られた虚偽のものであり、悪意に満ちたものである。今の時点で読み返してみても、気分が悪くなる程だ。調書からは、悪意の吹矢が今なお放射され続けており、鏃に仕込まれた毒素が私の体内を還流するからであろう。 一三、「法廷での供述―呪縛からの開放その1」  立石と小島氏との間で何らかの取引がなされたことは、法廷における二人の話のやりとりと微妙な雰囲気とによって推測することができた。  小島氏は、平成9年6月3日の第16回と同年6月17日の第17回の公判廷において、被告人として証言台に立ち、立石英生と弁護人との質問に答えている。  小島氏の供述調書が偽りの自白に満ちたものであったため、被告人弁護側はそれを法廷の場で訂正すべく、小島氏に問いかけ、小島氏は法廷では真実の供述に終始した。釈放されて一年以上もたっており、立石英生のいわば悪魔の呪縛から解き放たれたからであろう。本来の小島氏が甦ってきたのである。  これに対して、立石英生は、ときには色をなして怒り、ときには猫なで声でさとしながら問いかけたものである、―― 「小島さんの担当は私でしたよね。二人で信頼関係を築いた上で、一つずつ供述調書を作っていきましたね。私は決してあなたに真実でないことを無理に自白させたりしていませんよね。  それなのにどうして今になってそんな違ったことを言うんですか。一体どうしたというんですか。」    立石英生は、法廷における速記録では、以上のような紳士的な質問をしたことになっている。  しかし、私は被告人席で、立石英生と小島氏との実際のやりとりを至近距離で見つめていたのである。  弁護人が小島氏から次々と真実の供述を引き出すたびに、検察官席にいる立石は、思わせぶりな溜め息をついたり、舌打ちしたりして、供述している小島氏にしきりに圧力をかけていた。立石のボディ・アクションは見事なもので、その度に余り気の強くない小島氏は、落ち着きを失い、弁護人に助けを求めるしぐさをした。呪縛の残渣が完全には払拭されていなかったのであろう。  しかし、立石が懸命に試みた呪縛のフラッシュ・バックは、法廷では実ることなく徒労に終った。 一四、「法廷での供述―呪縛からの開放その2」  別件での農地の登記については、法廷では松原弁護人の質問に答えて、小島氏は一転して供述調書を否定し、全く異なる真実の供述をしている、―― 松原「そうすると、取得資金が山根から出て、しかし名義は岡島さんになるということについて、あなた自身は疑問に思うところはありませんでしたか。」 小島「疑問に思いませんでした。」 松原「なぜ疑問に思わなかったんでしょうか。」 小島「少なくとも財産を処分しなくちゃいけないということは、これははっきりしたことでした。で、山根先生はいわゆる農業者じゃありませんから、直接移転することははっきり言って、ものの処理上できないと、これも分かっておりました。で、できないもんですから、農業者の岡島さんにお願いをしたということなので、そのことがものすごく大変なことというのは全然思っていませんでした。」 松原「所長(山根)が持てないので、組合財産を処分する上において、組合長の岡島さんにとりあえず持ってもらうということだから、何の疑問もなかったと、こういうことですかな。」 小島「はい。」 ―平成9年6月3日、第16回公判、速記録 一五、「法廷での供述―呪縛からの開放その3」  別件の賃借権の仮登記についても、法廷では検察官立石英生の質問に答えて、小島氏は一転して供述調書を否定し、全く異なる真実の供述をしている、―― 立石「ここで、このファックスの資料を見てほしいんだけど。「保証書制度の趣旨からは若干問題がありますが」っていう記載があるんだけど、これについてはどういう意味だと理解されたんですか。」 小島「全く意識していません。」 立石「意識していない。」 小島「はい。」 立石「どういう問題があるんですかというふうに、A.I(司法書士)さんのほうに聞かれたこともない。」 小島「聞いてません。」 立石「ここまで大きな問題になるとも思っていなかったということになるのかな。」 小島「全く思ってません。」 ――同年6月17日、第17回公判、速記録 一六、検事立石英生にとって、所詮刑事裁判とは仁義なき戦いであり、どのような不正かつアンフェアな手段を弄してでも、勝てばよいといったゲームでしかなかった。広域暴力団とどこが異なるというのであろうか。  暴力団は、不法なことをすると罰せられることを常に意識しているのに対して、立石を含む一部の検察官は、いかなる不正なことをしようとも絶対に罰せられることがないと高をくくっているわけで、この点、暴力団よりもたちが悪い存在であると言えようか。  社会正義という能面をかぶったこの人達は、偽りの素顔が世間に露呈されることなく、法曹界という極めて狭い陰湿な空間の一部で、今後とも隠花植物の如く増殖を続けていくのであろうか。 (4)花崎政之 一、 松江地方検察庁検事。第一審の第5回及び第11回公判廷に、検察官として出廷。 二、 平成8年1月27日、花崎は、司法書士のA.I氏を東京のA.I司法書士事務所に尋ね、参考人として事情聴取した。  A.I氏は、別件の一つである公正証書原本不実記載・同行使に深く関連した人物で、逮捕された山根会計事務所の職員小島氏の幼ななじみであった、  登記の便法として、抹消することを前提として一時的に賃借権の仮登記をし、その後に本登記をすること(これが罪に問われた)を考え出し、提案したのが登記のプロであるA.I司法書士であった。  しかし、立件されたのは、私と小島氏のみであり、この案を提示し、代理人として登記手続きを行った登記のプロであるA.I氏は、立件されていないばかりか、単なる参考人扱いであり、被疑者にさえなっていない。立件するかどうかは、検察官の単なる思いつきでどうにでもなるものらしい。 三、 花崎が同年1月27日に作成したA.I氏の供述調書では、A.I氏はこの登記の方法を自らが教えた経緯にふれ、登記制度の趣旨からは問題があるとの認識を持っていたと述べ、以下のように供述している、―― 『そこで私は賃借権の仮登記を設定し、保証人二名を作った上で保証書による移転登記の方法を教えたのです。  その方法だと、通常の移転登記の場合に比べ、仮登記費用1,000円に私共の手数料を含めても三万円位の費用が余分にかかる程度で済むのです。  ただこの方法は、あくまで保証人を作るために架空の賃借権の仮登記をする訳ですから、登記制度の趣旨からは問題があります。  しかし、小島泰二が私の古くからの知り合いであり、親しくしていたこともあって、そういった方法があることも教えたのです。  もっぱら小島泰二とのやり取りだけであったと思います。山根とは一度も会っておりませんし、電話で話したこともありませんでした。』 四、 平成8年1月26日、私は別件で逮捕された。その逮捕状には、私が『情を知らない司法書士をして』違法な登記をさせた旨が記してあった。  『情を知らない』どころではない。当の司法書士本人が、自らこの方法を提案して小島氏を通じて私に登記を勧めていたのである。私も小島氏も、この登記が法に触れ罪に問われることなど夢にも考えていなかった。  逮捕の翌日、はじめてA.I司法書士の事情聴取をして、逮捕状の記載が誤っていたことに気づいた検察当局は、その後何食わぬ顔で、 『情を知らない司法書士をして』 という文言をそっと削り取った。誰を起訴し、誰を起訴しないかの決定が、極めて恣意的になされていることを端的に示すものであると同時に、杜撰な逮捕劇の一端を示すものである。 (5)長谷透 一、 広島地方検察庁検事。  平成8年1月26日、長谷透は、益田に赴き組合の常務理事増田博文氏の身柄を拘束し、尋問した。 二、 増田氏は、組合の中でも最重要人物の一人であり、私が主に交渉したのは増田氏であった。マルサ事案の細部にわたって理解し、知っている人であった。  そのためであったろう。増田氏に対する長谷検事の取調べは熾烈を極めた。長谷は連日のごとく、大声をあげ、テーブルを叩いては恫喝し、床を足で踏み鳴らしては威嚇した。 三、 検事長谷透は、増田氏を睨みつけながら、せせら嗤い、次のように言い放った、―― 「裁判なんて、言ってみればゲームのようなもんだ。どっちに転ぶか判らないが、裁判官も我々検察官と同じ法律の専門家だ。同じ釜の飯を食った仲間だから、同じような考え方をするんだよ。ゲームと言っても、100%近い確率で我々が勝つゲームなんだ。お前が一人頑張っても、こうなったからにはどんなにあがこうが、どうしようもないだろうな。ま、蟷螂の斧ってところだな。  それにお前達の弁護人ってのは一体何だ。民事は少しばかりかじっているらしいが、刑事事件はまるでド素人だというじゃないか、ま、こっちにとってはどうでもいいことなんだがね。」 四、 増田氏は逮捕勾留と過酷な取調べによって、胃潰瘍を発症し、平成8年7月11日、益田市内の病院で胃の全摘手術を行った。  長谷透の常軌を逸する拷問にも等しい過酷な取調べの、歴然たる一つの結果であった。 五、 長谷透が、増田氏をあの手この手で締めあげ、執拗に嘘の自白を迫った供述調書は、平成8年2月13日付のものをはじめとして、同年3月7日付のものまで、合計15通が法廷に開示され、私の手許に残っている。  増田氏は終始、長谷の恫喝に屈することなく、毅然とした態度を貫いた。増田氏の供述調書は、長谷透の脅しを背景にしたいかなる誘導尋問にも大筋では全くぶれるところのない見事なものであった。 (6)横山和可子 一、 鳥取地方検察庁検事。  山根会計事務所の職員大原輝子氏と古賀益美氏及び吉川春樹を尋問。 二、 大原氏は、私が昭和51年に開業した一年後に入所した最古参の職員であった。会計事務所の職員としては超のつくベテランであり、私の事務所のシンボルのような存在であった。事務所の経理をも担当しており、事務所の金銭の動きは全て掌握していた。 三、 横山和可子は、大原氏を被疑者として在宅のまゝ取調べたが、常に逮捕を匂わせ、大原氏を脅した。  大原氏はいつ逮捕されてもいいように、取調べのために松江地方検察庁に出頭する際には、常に下着等の着替一式を持参していた。 四、 横山は、大原氏を取調べて、合計で21通の供述調書を作成した。それらは、平成8年1月30日付で始まり、同年3月6日付で終っている。  大原氏の供述調書が房内に差し入れられ、ひととおり目を通したとき、さすが大原氏と感嘆したことを鮮明に思い出す。  複雑な金銭の流れが整然と調書に表現されており、見事なものであった。  大原氏の芯の強い毅然とした性格が、いかんなく発揮されており、横山のいかなる誘導尋問にも一切まどわされることはなかった。  自ら知っていることは、理路整然と陳述し、自ら知っていないことについては、決して憶測して陳述したりしてはいなかった。  その点、立石英生によって嘘の自白を連発させられた小島氏とは決定的に異なっていた。 五、 今一人の職員古賀益美氏は、大原氏よりいく分若手であり、私の秘書的役割を担っていた。私の個人的なことを含めて事務所の内実を知る立場にあった。  当初、古賀氏を取調べたのは、松江地方検察庁副検事の野津治美であったが、後に横山和可子にかわった。 六、 横山は松江地方検察庁の3階にある一室で古賀氏を尋問した。それは検事の右手、書記官の後ろにマジックミラーとおぼしき横長の大きな鏡のある部屋であった。  古賀氏は次のように語る、―― 「横山和可子は、丸顔で小太り。男まさりの野太い声は、廊下を隔てた控え室まで響いた。顔のつくりは、必ずしも上等とは言い難い。尋問の途中、ときおり立ち上がっては、パンツのポケットに手をつっこんで、肩をゆするようにして歩き回る癖があった。」 七、 検事横山が、なんとか嘘の自白を引き出そうと、やっきになっていたので、なんということをするオンナだと思って、目をつぶって黙っていたところ、検事は次のように悪態をついたそうである。 『こうなった以上、山根会計がつぶれることは間違いない。アンタはこれからの生活をどうするんだ。え?山根の人生もこれで終わりになるのに、山根に忠義だてをしているアンタも、かわいそうな女だ。』    古賀氏は、横山の、恥ずかし気もなく人前にさらしている顔をまじまじと見つめ、心の中でつぶやいたという。 ――これからの生活のことなど、余計なお世話だ。かわいそうな女だなんて、アンタにだけは言われたくない。一度、横の鏡と相談してみたらどうか。  横山は、松江市の某開業医の親戚だという。 (7)永瀬昭  一、 松江地方検察庁副検事。  組合員藤原洋次氏(参考人)の尋問を担当。平成8年6月10日の第一審第2回公判廷、同年7月9日の同第3回公判廷及び同9年8月12日同第20回公判廷に検察官として出廷し、同9年1月14日の第9回公判廷に、検察側申請にもとづき、証人として出廷している。 二、 検面調書の中でも、副検事野津治美とともに、副検事永瀬昭の調書は、捏造の度合いが際立っていた。理路整然としていて、マルサの捏造プランを忠実にトレースしているものであった。いわば、供述調書のデキが余りにも良すぎたのである。 三、 藤原氏は、確かに組合員であり、私との接触も数回はあったものの、架空取引とされた不動産の売買の経緯の詳細については、ほとんど知る立場になかった。  このような藤原氏から、永瀬昭は、架空取引の核心に触れる供述を見事に引き出しているのである。藤原氏に対する尋問がどのような状況でなされたのか、公判記録にもとづいて、明らかにする。   四、 中村主任弁護人は、次のように証人尋問している。 「いろんな検察官が、山根会計士の悪口を、組合の人達、関係者に取調べの過程で、ことあるごとに言っていたようですが、表現はともかくとして、山根会計士の評価について証人が言及されたことはありましたか。」 五、 これに対して、永瀬昭は、次のように証言した。 「山根会計士は、今回の事件について全面的に否認しているとは言いましたが、非難なり人物評価は特にしていません。」 六、 中村弁護人は更に証人を追及する。 「本件について悪いのはみんな山根で、あなた達は悪くないんだ、山根に騙されたんだというようなことを言ったことはありますか。」 七、 この尋問に対して、永瀬証人はシドロモドロになってしまい、法廷で次のように口走った。 「組合員は山根会計士を全面的に信頼してついていっただけじゃないか。それで天辺にいた山根会計士は否認し、自分には責任はないと言って責任逃れをしているよ。だから、こんな変な格好(脱税の嫌疑を受け、組合員が3人も逮捕されていることか――山根注)になっているんだね、という話はしました。」 八、 永瀬昭は、法廷でうまく取りつくろうとしたものの、藤原氏の尋問にあたって、私の悪口を言いつのり、悪いのはみんな山根で、あなたは何も悪くないんだ、山根に騙されて食いものにされたんだという趣旨のことを、申し述べていたことを、自ら明らかにする羽目になった。  山根会計士と同じように否認していると、山根と同じように逮捕され罪人になるとほのめかして、事実に反するウソの供述を引き出したのである。 九、 事実、藤原氏の供述調書は、私に対する悪意に満ちており、私が逮捕拘留中に松江刑務所拘置監に弁護人から差し入れられ、初めて目を通したとき、大きな衝撃を受けたものである。  私は、藤原氏については、それなりの人物評価をしていただけに、信じられない気持ちであった。  私の知っている藤原氏とは全く別の人物が、供述しているとしか思えなかったのである。 一〇、供述調書を作成する際に、永瀬昭が、藤原氏に対して、逮捕をチラつかせたかどうかについて、大野敏之弁護人と永瀬とのやり取りは次のようなものであった。 大野弁護士「藤原さんは、参考人であり、被疑者ではなかったようですが、あなたは何故黙秘権の告知をしたのですか。逮捕もありうるよ、と言ったんですか。」 永瀬昭「この事件で、同じ組合の岡島信太郎さんと増田博文さんとが逮捕されています。あなたについては参考人として事情を聴きますが、場合によったら逮捕もありうる被疑者という立場になりますので、言いたくないことは言わなくてもいいという権利(黙秘権)があることを伝えておきます、と言いました。しかし、逮捕もありうるとは言っていません。」  語るに落ちるとは、このことであろう。逮捕を露骨にチラつかせていることは明白であり、いくら「逮捕もありうるとは言っていない」と強弁しようとも、通用するはずがない。 一一、以上により、私の悪口を言い、私を徹底的に悪者扱いにした上で、山根と同じように否認したりすると、逮捕され犯罪人になると暗にほのめかして脅しあげ、ウソの自白を引き出そうとしていたことが、法廷の場で明らかにされた。 一二、永瀬証人に対する弁護人尋問の途中で、公判検事立石英生は、2回にわたって口をはさみ、異議をとなえた。ウソの供述を引き出したプロセスが暴かれるのを必死になって食い止めようとしたのであろう。 一三、第一審判決で、永瀬昭作成の検面調書は、信用性に欠けるものとして排除されたのは、いうまでもない。 (8)野津治美 一、 松江地方検察庁副検事。  組合員宅和勇一氏(参考人)の尋問を担当。平成8年6月10日、第一審の第4回公判廷に検察官として出廷し、同9年2月4日の第10回公判廷に、検察側申請にもとづき、証人として出廷している。 二、 副検事永瀬昭の作成になる藤原氏の供述調書同様、宅和氏の供述調書も余りにも出来すぎていたために、野津治美は自ら墓穴を掘るはめに陥った。 三、 宅和氏は、永瀬昭が尋問した藤原氏と同様に、組合員であったものの、架空取引とされた物件の売買の詳細については、ほとんど知る立場になかった。  そのような宅和氏が、野津治美作成の検面調書の中で、売買の核心に触れることを、こと細かに述べているのである。  何故、このような奇妙な供述調書が出来上ったのか。公判記録にもとづいて、明らかにする。 四、 「逮捕をするぞ」とは言っていないと強弁しているものの、逮捕をチラつかせて脅しながら尋問したことについては、永瀬昭の場合と同じである。 五、 しかし、野津治美は、参考人の場合には黙秘権の告知が必要でないにも拘らず、敢えて黙秘権の告知をし、その理由として、調べを進めるにしたがって、将来被疑者の立場になる可能性があるからだ、と証言している。  しかも、「逮捕されている2人の組合員と同じように、宅和氏にも責任があり、罪に問われてもおかしくない」と宅和氏に言った旨、証言する。 六、 このようなことを、検察庁の取調室で、面と向って言われたとしたら、どうであろうか。  まさに、逮捕をチラつかせて脅しているに等しく、いくら、「逮捕するぞ」とは言っていないと、言い募っても通るものではない。 七、 野津治美の威圧的な言辞の故であろうか、宅和氏は、供述調書の中で野津のことを終止「先生」と呼んでおり、野津は、宅和氏が「先生」と言い続けるのにまかせていた。  「先生」と言わされるような力関係の中で野津は尋問をし、供述調書を作成したのである。 八、 更に、本当のことを言っていないようだから、ポリグラフ(嘘発見器)にかけると言ったのではないか、との尋問に対して、野津は、「ポリグラフというものがあるとは言ったが、ポリグラフにかけるとは言っていない」と言い募り、松原弁護人の更なる追及に対して、「あなたの言うことは、信用できない。ポリグラフにかければ、それが確認できるとは確かに言った。しかし、ポリグラフにかけるとは言っていない。」とシドロモドロになって、必死になって弁解した。 九、 被告人席にいた私は、証人席で自ら証言している言葉の意味を把握することができず、ある種、錯乱状態に陥っている野津治美に対して、哀れみの情を禁じえなかった。 一〇、野津は、脱税事件のような難しい事件は初めてであると証言し、税金の繰延べ(圧縮記帳)と架空取引との関連について、弁護人から具体的に尋問されると、全くお手上げの状態であった。税法について、ほとんど無知の人物であり、このような人物が、脱税事件で断罪する一翼を現実に担っているのである。  もっとも、税に関する無知は、ひとり野津だけの問題ではなく、私の事件に関与した全ての検事に言えることだ。 一一、以上、野津は、「お前の言うことは信用できない。ポリグラフにかければ、すぐに判ることだ。もし素直に話さなければ、逮捕されている2人の組合員同様、逮捕することになる。逮捕されたくなければ、こちらに全面的に協力して素直に供述することだ。」と申し向けながら、宅和氏の尋問をし、自らは税金のことはほとんど理解していない状態で、虚構のシナリオに沿って、偽りの供述調書を創り上げていったのである。  公判の速記録は、このようなプロセスを、生々しく雄弁に物語っている。 一二、公判検事立石英生は、弁護人尋問を3回にわたって強引にさえぎり、異議をとなえた。シドロモドロになっている野津治美に、助け舟を出したつもりであろうが、無駄な抵抗であった。  一審判決において、野津治美の作成になる供述調書は、信用性に欠けるものとして、ほとんどの部分が排除された。けだし、当然のことである。 一三、平成8年1月26日、朝7時、野津は検察事務官2名、女性事務1名及びマルサ2名と共に、山根会計の職員古賀氏宅に臨み、家宅捜索を行った。  マルサは、SとEの2名であった。 十四、古賀氏は語る、―― 「総勢6人で、自宅の家捜しが始まったんです。携帯電話でしきりに連絡をとりながら、写真をパチパチとっていましたね。  本をパラパラめくってみたり、数十本ものビデオテープを一本一本最初から最後まで丁寧に見たり、私の服のポケットまでひっくりかえしていました。布団とか枕は手で押して確認したり。  服の担当は若い女性でした。私、この女性に尋ねてみたんです。「捜査官ですか」って。すると女性は「いえ、事務です。応援に狩り出されちゃって。こんなこと初めてなんです。」って言ってましたね。  お昼どきになったものですから、マルサのEが弁当を買いに行き、私にも一つわけてくれました。七珍弁当でした。  午後の2時頃まで続いたんでしょうか、ろくに押収するものがないようで、拍子抜けしていましたね。私、山根所長の秘書的な役割をしているものですから、きっと何か大切なものを自宅に隠している違いないと思ったんですね。バーカ、そんなものないよーだ。  野津はまるで仕事でもしているかのように陣頭指揮をしていたんですが、一体何をしたんでしょうね。大げさに5人も引き連れてきたりして。」   一五、「家宅捜索の翌日、午前11時松江地検に行きました。だって来いって言うんですもの。  取調べ室は、私が思っているより狭い部屋でした。白髪まじりの野津治美が、グレーの三つ揃えの背広を着て、窓を背に座っていました。  野津は取調べをする前に、脅すように言いましたね。 『これからあなたに今回の事件について聞きます。あなたの知っていること、見たこと聞いたことを隠さず述べて下さい。ただし、黙秘することもできます。また場合によったら逮捕されることもありえます。』  黙秘とか、逮捕とか、その後の取調べでも、野津は繰り返し言っていましたね。  後に自分の供述調書に目を通して分かったんですが、私は被疑者ではなく、参考人だったんですね。」 一六、「野津は、思わせぶりな口調で私に、『車はどこにあるんですか』なんて聞いてきました。私、運転免許は持っているんですが、実際に運転したこともないし、車など持ったこともないんで、野津にそう言いますとね、なにやら紙を持ち出して、もったいぶってチラチラさせるんですよ。  やっとのことで見せてくれたんですが、私の本籍地に私と同じ名前で久留米ナンバーのスターレットが昭和63年に登録されているんです。あの町は同じ苗字の人が多いところで、同姓同名の人がいたのが分かりました。  私がどこかの宗教団体みたいに、車の中に証拠資料でもつめ込んで逃げまわっているとでも思ったんでしょうか。  だんだん腹がたってきましたね。だって、事前の内偵で私が普段、車を運転していないことは十分に知っているはずだし、それに失礼じゃないですか、ベンツとかの高級外車ならともかく、スターレットのしかも、昭和63年型なんて、廃車寸前のボロ車じゃないですか。私、そんなもの持っている訳ないでしょうが、ホント失礼ったらありゃしない。  私、もう切れてしまって、『どこまでデッチ上げれば気がすむんですか。デッチ上げはやめて下さい。』と大声をあげてどなってしまいました。野津が何を言おうとも、眼をつぶって黙ってしまったんです。フンだ。  野津はなんか慌てていましたね。『それでは調べてきます』なんて言いながら、席を外すと、しばらくして戻ってきて、言ってくれましたね。 『同姓同名でした』  本当に調べてきたんでしょうかね。私が黙りこくってしまったために、困ってしまい、きっと上司とでも相談して調べたふりをしたんでしょうね。  私、『その車が事故でも起したら、私も責任を問われることがあるんでしょうか』って尋ねたところ、またまた野津は言ってくれました。 『あるかもしれません』 ――あるわけないでしょうが、ンとに。  私、野津ののっぺりとしたこれといった特徴のない顔をまじまじと見てやりましたよ。この人、ホントに検事なんでしょうかね。」 一七、「野津治美は事務官あがりの副検事だそうですね。この人、一人で取調べをするのは、あるいは初めてだったかもしれませんね。だって訳の分からないことをネチネチと何度も繰り返すし、尋問の仕方だって、絵にかいたような誘導尋問の連発ですもの。さすがに淑女の私でも『そんなこと私が知っている訳ないでしょうが、誘導尋問なんてやめて下さい』って思わず大声を挙げてしまったじゃないですか。  野津はクセなんでしょうか、薬指の指輪を外したり、また入れたりを繰り返していましたね。そんな所作をしながら、『あーホント、あーホント』なんて適当に相槌を打っているんですよ。今時の女子高生じゃあるまいし、本当のことを言えっていったのはテメーじゃないか。もうちょっと他の言い方もあるだろうが、って言いたくもなってしまう。全くもう、しまりのない男だ。  やっと副検事になって、バッジをつけて得意になっているんでしょうね。この人、脳ミソの中味がどうなっているんでしょうね。  野津が『あなたはいろいろ記録されているようですが、私のことも書くんでしょうね。』って言いますからね。私、言ってやりましたよ。『当たり前です。こんな機会はめったにありませんから、しっかり記録します。どういう形になるか分かりませんが、いずれ何らかの形で公表しますから。』」 七.検察官訴追システムの実態 (1)幹部検事の逮捕 一、 以上私は、自ら体験したことを事実に即して記してきた。多くの検察官が、嘘の自白を強要したり、証拠を改竄、あるいは捏造したりして、冤罪(無実の罪)を創り上げることに奔走した実態を明らかにした。  それは他からの伝聞ではなく、自ら身を切るような思いで体験したことである。検察官達の非行は、彼らが作成した数々の作文と法廷の速記録に基づいてできるだけ客観的に摘示した。  このような検察官という役人の犯罪的行為が、現代日本の検察の全てでなされているとは思いたくない。しかし、少なくとも22名の検察官が牙をむいて、私を葬り去ろうとしたことは、紛れもない事実である。 二、 平成14年4月22日、大阪高等検察庁公安部長三井環氏が逮捕された。現職の幹部検事の逮捕とあって、各メディアはトップニュース扱いで大々的に報道した。  三井氏は、平成15年3月12日、325日もの長い勾留生活を終えて保釈された。同氏は、獄中手記をもとに、同年5月『告発!検察「裏ガネ作り」』(光文社刊)を上梓し、検察が組織として何をしたのか具体的に明らかにし、広く世間に衝撃的な問題を投げかけた。 三、 読んでみて驚いた。私がまず驚いたのは、同氏が検察幹部達による長年にわたる組織的な公金横領の事実を内部告発しようとしていたことであり、同氏の内部告発を封じるために逮捕されたと主張していることだ。  正義の砦として国民から信頼され期待されている検察が、自らの公金横領という犯罪を闇から闇に葬るために、あろうことか内部告発をしようとしていた同氏を口封じのために逮捕訴追することなど、現代の日本においては決してあってはならないことだ。  三井氏の著書は、検察が本当にここまでのことをするだろうかという記述に満ちている。しかし、検察の一部が文字通り犯罪者集団と化したことを、身をもって体験した私には、当然ありうべきことであると理解できるし、三井氏の言い分は素直に納得できるものである。 四、 私が更に驚いたのは、検察官達が三井氏の口封じをするために行なった犯罪事実のデッチ上げのやり方が、私の場合と酷似していたことだ。  デッチ上げについて、三井氏の著書を要約すれば、次のようになるようだ。 『初めの逮捕において検察当局は、およそ犯罪とは言えないような些細かつ形式的な事柄(電磁的公正証書原本不実記載等)を見つけてきて、さも大げさに重大犯罪であるかのように言いつのって、逮捕に踏み切り、その上で、三井氏の人格を貶めることを目的に、嘘の情報をマスコミにリークし、稀代の「悪徳検事」に仕立て上げた。  再逮捕の口実となった本件(収賄容疑)は、贈賄したとされる暴力団の舎弟の偽りの供述を唯一の証拠として断罪しようとしている。』  これが事実であるとすれば誠に由々しきことであり、暴力団が見せしめと口封じのために、組織を裏切った仲間をコンクリート詰めにして殺し、海に沈めるのと同じことではないか。  日本の検察のトップをはじめとする検察庁の幹部達を実名で告発したこの本は、作り物の小説とか第三者のライターになるルポルタージュにはない迫力をもって読者に訴えるものがある。長年検察官として第一線で活躍してきた法律家の真に勇気ある行動と発言に対して、私は深い敬意をこめて心からなるエールを送りたい。 五、 私は、当初「公正証書原本不実記載等」で逮捕され、三井氏は「電磁的公正証書原本不実記載等」で逮捕されている。共に、犯罪とは言えないような些細かつ形式的なもので、過去において訴追されたことのないものであった。別件逮捕である。  次いで、私は「脱税容疑」で再逮捕され、三井氏は「収賄容疑」で再逮捕されている。本件逮捕である。  三井氏が偽りの自白をしたと主張する贈賄側の暴力団舎弟を、マルサに密告し偽りの供述をした佐原良夫に置き換えてみれば、デッチ上げの構図が私の場合とそっくりなのである。  仮装売買であったと言いつのって、マルサと検察が創作した虚構のシナリオに手を貸したのが佐原良夫であり、三井氏の言い分によれば、女を世話したり接待をしたと言いつのって贈賄を認め、検察の架空のシナリオの片棒を担いだのが暴力団舎弟であった。  言いがかりとしかいいようのない別件逮捕といい、社会的信用性の極めて低い人間の証言だけをほとんど唯一の証拠として摘発した本件逮捕といい、私のケースと余りにもよく似ているのである。 (2)訴追システムの制度疲労と検察官のモラルハザード 一、 三井氏は、長年検事として人を断罪する立場にあった。それが一転して断罪される立場に立たされることになった。  自らが逮捕勾留されてはじめて、現在の訴追と裁判制度の不合理さを痛感した旨、同氏はしばしば言及している。  三井氏は、「私は29年間、検事としてあらゆる事件を処理し決裁したが、このような事件(筆者注、――およそ犯罪とは言えないような些細かつ形式的な事柄)で人を逮捕した経験はない。恐らく検察史上初めてであろう。」とし、「これは公訴権の濫用である。」と指摘している。(同書、127ページ) 二、 公訴権の濫用、――  確かに同氏の場合は、その通りなのであろう。しかし、同氏が「検察史上初めてであろう」と言及しているのは、いかがなものであろうか。  私の場合の別件逮捕についても三井氏と同様に言いがかりとしか表現しようのないものであり、明らかに公訴権の濫用と言えるものであったし、さらには一般に別件逮捕と称されているものはほとんど全てが公訴権の濫用に該当するのではないか。  別件逮捕ではなくとも、何故訴追するのか疑わしいケースが、とくに最近多くなってきているように思えてならない。  日本の訴追システムの制度疲労に加えて、検察官のモラルハザード(倫理観の欠如)がその根底に横たわっているようである。 三、 三井氏はまた、訴追システムと一体となっている未決勾留制度についても、その運用が不当かつ不合理であることを力説している。現職検事のときには考えてもみなかったことが、自ら逮捕勾留されてはじめて身にしみて分かったというのである。  自白をせずに否認を通している限り、なかなか保釈にならないことについて、同氏は再三にわたってその不当性を訴えている。私の場合は291日、三井氏の場合は325日の間、極端に自由が制約された状況の下で、狭い閉鎖空間に閉じ込められたのである。 四、 その他に三井氏は、検察官が接見禁止を容易に裁判所に請求し、裁判官も実情をほとんど顧慮することなく安易に認めている現実にも触れているし、検察が世論を操作するために、故意に偽りの情報をリークし、マスコミは無批判的に偽りの情報をタレ流す現実にも触れている。  これらのことが、30年近くも検察一筋で働いてきた法曹家の口から発せられたことは、誠に重いものがあると言わなければならない。たしかに、検察官はもとより、裁判官も、現実の訴追システムの実態をよく理解していないのではないか。 五、 三井氏のように、全ての検事や裁判官が身をもって実際に逮捕、勾留、訴追される経験をするのが、不当かつ不合理な訴追システムの実態の理解には最良であろう。  しかし、現実にはそうもいかないので、彼らに擬似体験を課してみたらどうであろうか。逮捕、勾留、訴追のシミュレーションプログラムを作り、検事や裁判官を実際に10日とか1ヶ月くらい拘置所とか代用監獄にぶち込んで体験させるのである。  検察官とか裁判官に、このような擬似体験をさせることによって、少なくとも国民を人間として見ていないような歪んだエリート意識や傲岸不遜な思い上がりが多少なりとも影をひそめるのではなかろうか。  尚、三井環氏のホームページのアドレスは、http://www012.upp.so-net.ne.jp/uragane/である。 [#改ページ] 第五章 勾留の日々 一.被勾留者の心得 一、 平成8年1月27日、逮捕された翌日の朝のことである。  担当看守が、視察窓ごしに、房内備え付けの2つの冊子をよく読んでおくように申し渡した。  一つは、「被勾留者所内生活の心得」(37頁)であり、  二つは、「被収容者遵守事項」平成6年7月1日達示第4号(9頁) である。  被勾留者といい、被収容者というのは、日本書紀の言葉によれば、『獄中囚』(ひとやのなかのとらへびと)―孝徳紀大化二年三月条―のことである。  私は、獄(ひとや)にとらわれた囚(とらへびと)であり、看守は、獄卒(ひとやつかひ)であった。このような古い時代の言葉が、生々しい現実味を帯びて迫ってくる世界がここにはあった。 二、 手許にまだ一冊の本も届いていないし、その上、時間は持て余すほどあった。早速読んでみた。  面白い。第2次大戦前ではなく、戦後の、しかも50年も経っている日本において、このようなシロモノが現実に存在しているのは、正直いって新鮮な驚きであった。  前日のハミガキ粉といい、荒石けん(アルカリ分を多く含んだ洗たく用の固形石けん)といい、現在でも、このような物があったのかと驚いていた矢先に、またしてもといった感じであった。 三、 余りに面白いし、珍品であるので、読むだけではもったいないと思い、暇にまかせて全部書き写すことにした。なにせ、時間は腐るほどある。  ところが、全部ノートに書き写したところで、問題が起こった。  ノートは、一週間に一度は房内から引きあげられ、入念な検閲を受けてから、再び手許に帰ってくるきまりになっていた。そのノート検査に引っかかったのである。  看守長が担当看守と共にやってきて、検視窓ごしに私にいきなりカミナリを落とした。 看守長「なんでこんなものを書き写すんだ。直ちに削除しろ。ノートを破れ。バカヤロー!!」  大変な剣幕であった。所内の処遇が外部に漏れることに、異常なまでの神経を使っているようである。 山根「法務省の達示書を部外秘にしなければならない理由はないはずです。余りに珍しいことが書いてあるものですから、記念にと思って書いたものです。多くの時間をかけて書き写していますので、自分で消したり破ったりするには忍び難いものがあります。  どうしてもいけないというのであれば、あなた方の職権で抹消して下さい。」  看守長は窓の外の廊下で、しばらくブツクサ文句を言っていたが、結局抹消されることはなかった。 四、 以下、この珍品ともいうべき冊子の中で使われている言葉で、特殊なもの、あるいは、特別の意味が付けられているものを適宜拾い出してみることとする。  1. 願《がん》せん=いろいろな願い出をするときに使用する用紙のこと。  2. 官物《かんぶつ》=施設の所有にかかる物品(施設から貸与されえているもの)。  3. 私物《しぶつ》=個人の所有にかかる物品。  4. 自弁《じべん》=差し入れを受けた物、領置の物あるいは自己の領置金等で購入した物を施設内で使用すること。  5. 拭身《しきしん》=身体をタオルなどで拭くこと。  6. 検身《けんしん》=身体に不正物品の所持がないか、検査を受けること。  7. 領置《りょうち》=被収容者の金品を監獄法に基づき、施設において強制的に保管すること。  8. 仮出《かりだし》=領置している物品を許可を得て所内(房内)で使用すること。  9. 宅下《たくさげ》=領置している物品を許可を得て外部の特定の人に対して郵送又は施設(面会時等)において交付すること。  10.午睡《ごすい》時間=昼食後、所定の方法により横臥(昼寝)を許可した時間。  11.休庁日《きゅうちょうび》=土曜日、日曜日、国民の祝日及び年末年始の休庁期間その他特に指定した日。  12.情願《じょうがん》=自分に対する施設の処置について、法務大臣及び巡閲官に対して書面又は口頭で不服申立てをすること。  13.検閲《けんえつ》=発受信する信書の内容を施設が検査すること。  14.懲罰《ちょうばつ》=規律違反者に対して科し、反省悔悟させるための制裁のこと。  15.訓戒《くんかい》=懲罰事犯より軽度の規律違反者に対して科し、反省を促すもの。  16.官本《かんぽん》=施設が備え付けている本。  17.私本《しほん》=自弁に係る本。  その他に、交談《こうだん》、洗身《せんしん》、動作、閉房点検、喫食《きっしょく》、糧食《りょうしょく》、横臥《おうが》、指印《しいん》、閲読《えつどく》、金品、房内放送、認書《にんしょ》、図画《とが》、臥具《がぐ》、ズロース、サルマタ、越中ふんどし、配食、空下《からさ》げ、抗弁、医務、捜検、中腰、かしわ折り、等があった。  今、改めてこれらの特異な語彙を書き出してみると、当時の気持が鮮明に蘇ってくる。  タイムマシーンに乗って明治憲法下の日本に舞い戻ったのか、あるいはまた、一昔前の日本語を繰る人達の住む、日本ではない離れ小島に置き去りにされたような心持ちとでも言えようか。 五、 珍妙な言葉は、もちろん、2つの冊子の中にだけ存在するのではない。日常活動の中で頻繁にとびかっていたのである。  初めのうちは、看守が、願せんだ、仮出しだ、宅下げだと言っているのを、どこかよその国の言葉でも聞くような思いで聴いていたのであるが、だんだん慣れてくると面白いことに、身についてきた。  今では、愛着さえ湧いてきて、私の出雲弁の語彙に加えて時々使わせてもらっている位である。 二.房内の所持品 一、 私は折にふれて、身の回りの物品を点検し、5平米余りの房内にある全てのものを具体的に書き出した。   二、 平成8年4月8日現在の房内棚卸しは次のとおりであった。 A.自弁購入品 1.食品(購入金額は1日1000円に制限)  リンゴ3個半、ミカン5個、キウイ3個、バナナ5本、森永キャラメル1箱半、コーヒー牛乳2、カフェ・オーレ1、ミニ羊かん8個、甘納豆半袋、黒あめ、カンロあめ少々、ポテトチップス1袋、かっぱえびせん1袋、ミニチーズ5、昆ベー1袋、梅干2、ノリ佃煮2、七味唐がらし11コ、仁丹(百八十粒入1パック)。 2.食品以外  マンダムのヘヤトニック、ヘヤリキッド、クシ、ハブラシ、デンターTライオン、牛乳石鹸、石鹸箱、ボールペン(青、黒、赤各一本)、下敷、ノート3冊(雑2、訴訟用1)、赤青鉛筆1本、HB鉛筆1本、鉛筆キャップ3つ、鉛筆入れ、消しゴム、耳かき、ハシ、ハシ箱、プラスチック食品容器3、電気カミソリ(アルカリ乾電池2本入り)、チリ紙(大)1、タオル(ピンク)2本、コップ1、封筒少々、便箋1、罫線用紙1。 3.自弁持込もしくは差入品  本三冊(万葉集、酔って候、オール読物3月号)、メガネ(老眼、近眼)、メガネふき2、メガネケース2、古語辞典、コンサイス国語辞典、法人税申告の手引、ザブトン、シャツ3、モモヒキ3、パンツ(厚3、薄1)、セーター2、くつ下(厚2)、トレーナー上下、皮オーバー1、ジャケット1、ズボン1、ワイシャツ。 B.官から貸与されているもの 1.官本  「とかげ」吉本ばなな、「つぶての歌吉」安部譲二、「ばれてもともと」色川武大。 2.備品等  掛けふとん2、敷ふとん1、毛布2、シーツ1、マクラ、マクラカバー、襟布、机、衣類入(カゴ)、洗面器、雑用水容器、ほうき、はたき、ちりとり、やかん、くず入れ、柄付きたわし、ナイロンたわし、ふきん、雑巾2、柄付きたわし入れ、荒石鹸、磨き粉、磨き粉入れ、衝立、スリッパ、エモンかけ、カレンダー、トイレ、流し台。 三、 同年5月14日現在の房内棚卸しは次のとおりであった。 A.自弁購入品 1.食品  リンゴ(白1、赤2個)、キウイ5個、バナナ5本、キャラメル2箱と5個、森永コーヒー牛乳1箱、ミニ羊かん11個、あんぱん1個、甘納豆半袋、ミニチーズ2個、かっぱえびせん1袋、カンロあめ1袋半、黒あめ1袋と1/3、のり佃煮1袋半、梅干1、七味唐がらし12コ、仁丹(百八十粒入4パック)。 2.食品以外  タオル(ピンク)2本、ノート3冊(雑記、万葉集、訴訟用)、便箋、封筒、下敷、ボールペン(赤、青、黒)3本、消しゴム1、シャープペン1、同替芯1、色鉛筆(赤青)1本、鉛筆(黒)1本、鉛筆キャップ3、筆入れ1、耳かき1、石鹸1、石鹸箱1、歯ブラシ1、デンターTライオン1、マンダムヘヤトニック1、マンダムヘヤリキッド1、チリ紙、電気カミソリ1、アルカリ電池2、ハシ、ハシ箱、アクルリ直線定規1、プラスチック食品容器3、クシ1。 3.自弁持込もしくは差入品  岩波古語辞典、広辞苑、学研漢和大字典、中西万葉集(二、三巻)、小説「われもまた剣法者」、手紙7、はがき8、座布団1、メガネ(老眼、近眼)、メガネふき2、メガネケース2、スーツ1、ズボン2、パジャマ上下、トレーナー上下、ワイシャツ2、シャツ3、ズボン下3、パンツ4、くつ下2、ハンカチ2、裁判関係資料47冊。 B.官から貸与されているもの 1.官本  高橋治「夜光貝岬」講談社、黒岩重吾「剣は湖都にも燃ゆ」文芸春秋、小川環樹「談往閑語」筑摩書房。 2.備品等  同年4月8日現在の棚卸しと同じ。 四、 以上の棚卸し物品は、それぞれの時点において私が自由に費消もしくは使用することができる物品の全てであった。  限られた空間の中で、限られた物品しかなかったものの、私には十分であった。衣食住は完全に足りていたのである。  その上、万葉集を夢中になって書き写していたので、一日があっという間に過ぎてしまい、全く退屈することがなかった。精神的にも十分満たされていたのである。  独房は、麻原ショーコーの言うように「動物園」でもなければ、当初私が感じた「物品置場」でもなかった。天国とまでは言えないまでも、私にそれなりの豊かさを与えてくれる空間であった。  テレビもなければ電話もない。好きなクラシックを聴くこともできなければ、コーヒーも酒も飲むことができない。まさに、ないない尽くしの毎日であった。  文明の利器に溢れた生活から隔絶され、独居房という限られた閉鎖空間の中で過ごした291日間は、人としての原点をふり返るための貴重な期間であった。   三.原体験への回帰 一、 私が逮捕勾留された1月26日は、寒い日であった。その後連日、夜中は零度を切る厳寒の日々であった。 二、 拘置監の独房には、全く暖房の設備がなかった。その上、一日に7回以上は、食事の差し入れ、連れ出し、あるいは室内検査のために、窓と扉が開けられ、その都度寒風が容赦なく独房に入ってきた。独房内の流し台が凍ったことも一度や二度のことではない。流し台は、床から41cmのところに設置されており、幅60cm、奥行52cm、深さ15.5cmのステンレス一体型抜きタイプのものであった。 三、 夏の日々は、独房が蒸風呂になった。当然ながら冷房設備はなく、扇風機もない。ただ、真夏の一ト月間だけ、小さなウチワが貸与されるだけであった。  ウチワの使用も厳しく制限されており、たとえば食事中の使用は禁じられていた。そのため熱い汁物を食べるときなど、全身から汗が吹き出し、着ている下着が汗でズブ濡れになった。  そのような状態であっても下着を脱いで裸になることは許されなかった。更に流れる汗を乾いたタオルで拭くことは許されていたものの、水で濡らして拭くことは禁じられていた。  真夏の一時期だけ、しかも戸外での運動の後と、夕方仮就寝の前に一度だけ、タオルで水拭きすることが許されていた。時間は1分間、水の使用量は洗面器二杯分に制限されていた。  「拭身《しきしん》、ハジメー!」の号令一下、懸命になって身体を水拭きした。1分などあっという間に過ぎていった。  「拭身、オワリー!」の号令がかかると直ちに中止しなければならなかった。 四、 独房には、テレビもなければラジオもない。電話はもちろん、時計さえなかった。  房内の明かりは、2.5m位の高さの天井に、18Wの蛍光灯(日立、サンライン、白色)が一つあるだけで、暗くなってから21時の就寝までの時間は、何とか字が判読できる位の明るさであった。  天井は一面にムキ出しのグレーの石綿でおおわれており、コンクリートの壁にはアイボリー色の塗料が塗られていた。独房は、いわば色彩のない空間であった。  学生時代から欠かすことなく飲んでいた酒、ビール、コーヒー、紅茶、緑茶、抹茶など、一切口にすることができなかった。ただ、番茶だけが、一日3回の食事の時毎に、一リットル入りのやかんに入れて700cc位ずつ供給された。  そして、私にとって何より大切なものであった女性とのスキンシップができなかった。 五、 私はこのような状況の中で、逮捕された1月26日から、次の冬の11月12日までの291日間、独房生活を強いられた。  その為であったろうか、私の中に幼い頃体験した、いわば原体験とでもいえるものが蘇ってきたのである。 六、 私が過した幼年時代は、昭和20年代であり、戦争の爪痕がいたるところに残っており、日本全体が貧しかった。  道路はほとんどが舗装されていない砂利道であり、自動車も数える位しか走っていなかった。自家用車など夢のまた夢であった。 七、 中でも私の育った家は、とりわけ貧しかった。大工であった私の父が、終戦の年、昭和20年にフィリピンで戦死し、その後私の母は、女手一つで幼い私と5つ年上の兄とを育ててくれた。  大正5年生まれの母は、30才にして戦争未亡人となった。街中の15坪の狭い土地に建っていた家は、昭和24年、私が白潟小学校1年生のとき白潟大火によって全焼した。またたく間に焼け落ちたため、ほとんど何も持ち出すことができず、私達は無一物の状態となった。父方の親戚の支援を得て、急ごしらえの平屋が再建され、私達親子3人と祖父母の5人家族は、6畳一間で肩をよせあうようにして暮らした。  母は、道路に面した家の一部を利用して小さな店を営み、糊口をしのいだ。駄菓子、雑貨、煙草を細々と商った。貸本屋をやったり、焼芋を作って売ったりもした。その合い間に、母はわずかの手間賃で、白手袋作りの内職をしていた。私は、母が夜遅くまで懸命に縫っていた手袋の白さを今でも忘れることができない。あの白手袋は、婚礼などに使う儀式用のものであったろうか。 八、 私が小学校へ入学する前のことであった。母は私を連れて、祖父母と一緒に、祖母の生家の畑を借りて作っていたさつま芋を掘りに、玉湯町の林に行ったことがあった。片道15キロの砂利道を大八車で行き、たくさんのさつま芋を積んで帰った。  幼い私は大八車にのせられていたが、帰りに火葬場のあった「あんべ山」付近で日が暮れかかり、あんべ山の峠道を心細い気持ちで通り過ぎたことを想い出す。 九、 兄と私は、母の指示によって、駄菓子とか雑貨の仕入を手伝った。母は、手持資金がなかったので、店で売れる都度、小口に仕入れており、そのたびに、私達は、それぞれの卸問屋に走った。  当時私が頻繁に通ったI商店、M本店、F本店、あるいはT菓子店は、往時の場所には存在しない。どうなったのであろうか。 一〇、T菓子店については、今でも鮮明に覚えていることがある。私が白潟小学校4、5年の頃である。  T菓子店は私の家のすぐ近くにあり、当時の松江市では最も賑わっていた表通りの街にあった。  この菓子問屋には、家つき娘が2人おり、上の娘は二十才の半ば位であったろうか。  我々遊び仲間の間では、オトコ女なるあだ名がつけられ、恐れられていた。  終戦間もない日本の片田舎とはいえ、松江は県庁所在地であり、その一番の繁華街である。この若い女性は、腕をまくりあげて、普通の日でも長靴をはいて街中を闊歩していた。我々ガキ共をビビらせるには十分な迫力を持っていたのである。 一一、ある日私は、母の言いつけで、T菓子店に菓子の仕入れに赴いた。  店に入ったとたんに、バアーンという大きな音が鳴り響いた。件の女性が、菓子入れのブリキの空缶を、思いきり足で蹴っとばしていたのである。  同時に、野太い大きな声が私の頭の上の方から降ってきたので、一瞬身をすくめ身がまえたが、それは私に向けられたものではなく、従業員を叱りつけているものであった。  私は、その時確かに、まくり上げられた女性の両腕に、うぶ毛以上の腕毛が密生しているのを目にしたのである。 一二、母は一家の大黒柱として休む暇なく働き、私達2人の兄弟と祖父母がその手助けをして、私達5人は、生き延びてきた。  家には金銭的なゆとりがほとんどなかった。そのため、私は、小学校、中学校、高等学校、それぞれの卒業記念アルバムを持っていない。アルバムは購入資金を積み立てて取得するものであり、私にはその積立金の用意ができなかったからである。  また、私は、修学旅行なるものを一度も経験していない。家計の状態をよく知っていたために、母に無心することができなかったのである。 一三、しかし、私には、毎日が楽しかった。金銭的にゆとりがなかったとはいえ、ひもじい思いをしたことは一度もなかったし、寒さに凍えることもなかった。母は私に幼稚園、小学校、中学校、高等学校、更に大学にまで行かせてくれた。 一四、私の原体験といえるものは、小学生時代、私の10才前後のものである。  とくに、小学校3年生のときから、6年生に至るまでの四年間に原体験が凝縮している。教育に情熱を燃やしている若い教師がクラスの担任となったのが、この四年間であった。  柿丸賢吉という私にとって終生忘れることのできない教育者は、当時20才後半であった。先生は、クラス全員から慕われ、小学校卒業と同時に、先生の名を冠した「柿丸会」が自然に結成された。毎年のように年何回か、先生を招いた会合が催され、先生が平成9年10月12日、74才でお亡くなりになるまで、絶えることなく続けられた。私達は、平成6年11月、先生の古稀を祝って『「白潟の想い出」―柿丸賢吉先生古稀記念文集―』なる記念文集を作成し、記念品と共に先生に贈った。 一五、思えば、私の勉学の基礎は、この4年の間に柿丸賢吉という天性の指導者によって植えつけられたようである。  この4年間は、私にとって毎日が新しい発見の日々であった。  新しい発見は、常に驚きが伴っていた。先生の記念文集に寄稿した「驚きの日々」と題する一文から引用する、―― 「私の小学生時代は数々の遊びと、それに伴って発生する驚きとでギッシリつまっている。  早朝のエビ取り、御手船場でのナガテ(手長えび)つり、宍道湖・大橋川でのゴズ(はぜ)つり、堀川でのフナつり、宗泉寺の庭で夢中になって遊んだペッタン(メンコ遊び)、ラムネ(ビー玉遊び)。  休みになると意東の田舎に行くのが何よりの楽しみで、谷川の沢ガニや草むらのチョンギース(キリギリス)をつかまえたり、川にサンショの実をたたき出して魚を酔わせ、大きなフナやコイなどを手づかみにして捕ったりした。熟柿、いちじく、ビワ、アケビ、栗、シイの実など、田舎はおやつの宝庫であった。虫をつかまえて食べるモウセンゴケを発見したのも意東である。  遊びに夢中になり、数々の小さな発見に胸おどらせていた頃に出会ったのが柿丸先生であった。今にして思えば、先生からは単なる知識だけではなく、知識に至るプロセスを教わった。驚き、疑問に思ったことについて、自分の頭で考え、自分の言葉で表現することの大切さを教わった。  先生は、算数、国語の基礎学力をしっかりつけるようにして下さった一方で、私を自由に遊ばせ、遊びの中から自然に学ぶようにして下さった。ガキのかたまりのようであった私を、たたき、しかりながらも常に温かい眼差しを向けて導いて下さった。感謝の気持ちでいっぱいである。」 一六、少年時代、冬は炭火はあったものの、しっかり寒く、手はあかぎれし、霜やけになった。夏は、うちわはあったものの、暑さがストレートに身体を襲った。  いわば季節の移り変りを身体全体で、体験することができたのである。夕方から夜に移行する刻一刻を肌で感ずることができ、夜が次第に明けていくワクワクする瞬間を味わった。 一七、一般社会と隔絶された独房生活は、私の少年時代と同様に衣食住は足りていたものの、一切の贅沢が排除されたものであった。冬も夏も自然の状態に置かれたのも、少年時代と同様であった。  このような極限状態にあった私は、いわば、時空を超えて、少年時代へ回帰したのである。魂だけでなく、肉体までも原体験の世界に没入した。今にして思えば、一種の現実からの逃避であり、自己防衛本能の発露であったろう。   四.書写と古代幻視 一、 平成8年2月5日、逮捕11日目のことであった。廊下でゴロゴロ音がして何かが独房の前に運ばれてきた。官本であった。3冊を限度に貸し出すという。  見れば、台車に乗せられ三段に仕切られた小さな本箱の中に、100冊位の本が並んでいる。  検視窓越しに背表紙を見る。早く早くと急かされるのでゆっくり吟味する暇がない。  とくに読みたい本はないが、私本の房内所持が3冊に制限されているため、本であれば何でもという気持で、いいかげんに官本3冊を選ぶ。 二、 3冊の中に、たまたま山本夏彦のエッセー集「ダメの人」(文芸春秋刊)があった。親しくしている高庭敏夫会計士が、常日頃愛読している作家の一人が山本夏彦であった。 三、 その中の「写し」というエッセーで、作家は自らの体験をふまえて、文章を書き写すことの意味合いを説いている。書写の勧めである。 四、 この文章に接して、私は急に手許にあった万葉集を書き写したくなった。当初、私の勾留は長くとも1ト月位であると考えていたので、退屈しのぎに、気に入った歌を適当に選んで書き写してみようと思ったのである。 五、 2月5日、午睡時間を早めに切り上げて、フトンをたたみ、座り机に向った。  初めに書き写したのは、その時の私の心境をそのまま表現している大伴家持の歌であった。巻第17の歌番号3978の「恋の緒《こころ》」を述べたる歌」である。 『妹《いも》もわれも 心は同《おや》じ 副《たぐ》へれど いや懐かしく 相見れば 常初花《とこはつはな》に 心ぐし めぐしもなしに 愛《は》しけやし 吾《あ》が奥妻 大君の 命畏《みことかしこ》み あしひきの 山越え野《ぬ》行き 天離《あまさか》る 鄙治《ひなおさ》めにと 別れ来し・・・・ ・・・近くあらば 帰りにだにも 打ち行きて 妹が手枕《たまくら》 指し交《か》へて 寝ても来ましを・・・思ひうらぶれ 門に立ち 夕占《ゆふけ》問ひつつ 吾《あ》を待つと 寝《な》すらむ妹を 逢ひて早見《はやみ》む』 六、 私を取り調べた中島行博検事は、「否認を通すのであれば、保釈は認められないだろう。いったん認めておいて、法廷で否認すればいいではないか。早くシャバに出て、仕事のあと片づけをしたらどうか。」と、私にしきりにもちかけ、嘘の自白を促していた。  私は検面調書の特信性を知悉していたので、中島の偽りの申し出を無視した。  そのためであったろうか、私は起訴後も保釈されることなく、勾留されつづけたのである。 七、 初めのうちは軽い気持で万葉集を書き写していたのであるが、なかなか保釈されないので、途中から本腰を入れて書き写すことにした。  そのうち、退屈しのぎが退屈しのぎでなくなってきた。万葉の世界に没入するにつれて、面白くなってきたのである。 八、 平成8年4月12日のノートには、―― 「万葉における様々な人々との出会い。昨日は、時守に会った。宮材引く民、津守、飛騨の匠にも会った。舟を操る舟人、塩を運ぶ官船が行き、葦荷を積んだ官船が来る。塩を焼く志賀の海人がおり、玉藻を刈る比良の浦の白水郎がいる。沖合には、鱸を取る海人の漁火があり、湊の中には葦をかきわけつつ入ってくる小舟がある。駅路には舟が綱で引き渡されていく。春の山沢には村中で『ゑぐ』を摘む民がいる。天平より古い(おそらく600年の半ば頃)時代のパノラマが私の脳裏をよぎっていく。」 ――、と記されている。  更に、4月20日のノートに、―― 「万葉14巻、東歌完了。東歌には想像以上にすばらしい歌が多くあった。東歌に限らず、読み人知らずの歌にいい歌が多い。万葉のすごさ、奥の深さ。これを1000年以上にわたって手で写し、大切な民族の宝として伝えていった人々。祈りにも似た気持があったのではないか。私の中に万葉の世界が大きく拡がっていく。」 ――、と記す。 九、 万葉の世界が、私の少年時代の原体験と重なって、独房の中に入ってきた。時間と空間とを超えて次々と展開される絵巻物が私を圧倒した。  セピア色といったあいまいなものではなく、鮮やかな原色の映像が私を魅了し、時間が経つのを忘れさせてくれた。 一〇、気がついたら、万葉全20巻4500首余り全てを書き写していた。  平成8年5月29日の獄中ノートには、次のように記されている、―― 「全20巻 書写完了、H8.5.29pm.7:00頃  全20巻 読解完了、H8.5.29pm.7:40頃」 一一、平成8年5月31日、午後1時30分、風呂上りに、出雲国風土記の書写を始めた。同年6月9日、午後7時すぎ、書写完了。 一二、平成8年6月12日、肥前国風土記の書写を始め、同年6月15日午前10時半頃、書写完了。ホトトギスがしきりに鳴いていた。 一三、平成8年6月15日、豊後国風土記の書写を始め、その日の午後7時40分頃、書写完了。翌16日の午後4時すぎ、解読完了。 一四、平成8年6月17日、常陸国風土記の書写を始め、同年6月24日、午後3時頃、書写完了。同年6月30日、午後3時頃、解読完了。 一五、平成8年6月30日、播磨国風土記の書写を始め、同年7月26日、午前9時頃、書写完了。同年8月24日、午前11時40分頃、解読完了。 一六、その後、9月の終り頃まで、改めて、五つの風土記を読み返し、岩波古語辞典と学研の漢和大辞典を用いて字句の確認を行った。 一七、書写と並行して、古事記、日本書紀及び日本霊異記を読んだ。  中でも、日本書紀と日本霊異記については、本の差入れではなく、コピーを差入れてもらうことによって、読み進めた。房内所持が3冊と限定されていたために、所持が不可能であったからである。  その反面、本のコピーの差入れは無制限であった。ただし、房内所持は、差入れの一日だけであり、翌日まで持ち越すことはできなかった。  このため、日本書紀と日本霊異記については、一日で、といっても事実上3時間位で、読みかつ要点がメモできる範囲の量だけコピーの差入れをしてもらっていた。  それぞれ岩波、日本古典文学大系本の20ページ位、見開きにしてB4版10枚位が毎日差入れられた。  時間がくれば、いやおうなく房内から引き上げられてしまうため、まさに時間との戦いであった。 一八、日本書記は漢文体の史書である。漢文体については、漢籍から借用している部分は比較的難しかったものの、地の文は平易なものであった。  しかし、読み下し文は独特のものであり、当初なかなかなじめなかったが、次第に慣れてくると面白くなってきた。  古訓という、多分に奈良時代の読み方を踏襲した読み下し文で、平安時代の初めから1000年以上にわたって読みつがれてきたものである。古代の日本語が、古訓の中にしっかりと息づいていた。  私の中で、日本書紀の古訓を通じて、万葉集と風土記とがオーバーラップしてきたのである。 一九、書写と読書の日々は、私が日本の古代に遊んだ日々であった。独房内の現実の時間は、はるかな古代に飛翔し、一日が一瞬のうちに過ぎ去っていった。古代幻視、――全く退屈することなく過ごすことができたのは、このためであった。  保釈されてから8年になるが、日本書紀は、文字通り、私の座右の書となって現在に至っている。  眠る前のひととき、日本書紀を読むことが多い。睡眠導入剤の役割を果しているようである。 五.安部譲二との出会い 一、 平成8年4月3日に借り受けた官本の中に、安部譲二の「つぶての歌吉」があった。  早速読んでみた。面白い。官本は房内にいつまで置いてもよかったので、少しずつ読むことにした。早く読み終えたらもったいないと思ったのである。 二、 そのころ私は、万葉集の書写に熱中していた。書写の合い間に気分転換が必要であり、そのために軽い読み物を読むことにしていた。一日に一時間位、主に午睡時間を利用して、フトンを敷き横になって楽しんだ。  当初弁護人から差し入れてもらったのは、オール読物、小説宝石、小説クラブ、小説新潮などの雑誌であった。しかし、それらは読むに耐えないもので、すぐに飽きてしまった。  その後に差し入れてもらったのは、司馬遼太郎の作品であり、気分転換にはころあいのものであった。  「俄〈浪華遊侠伝〉」を手はじめに、「酔って候」「故郷忘じがたく候」「最後の将軍」「果心居士の幻術」「言い触らし団衛門」「われもまた剣法者」が差入られ、房内で楽しんだ。 三、 普段私は、現代作家の作品を読むことはほとんどなかった。ことに芥川賞の作品とか、ベストセラーなどは、ただそれだけで私の興味の外におかれた。  今から40年以上も前のことである。松江商業高校2年の時であった。本田秀夫校長の訓話の中に、郷土が生み出した明治の文豪森鴎外の名前がしばしばとりあげられた。  これが契機となって私は、文豪の作品に親しむようになり、次第に鴎外の世界に魅了されていった。その結果、こと日本の現代文学に関しては、役の行者に呪縛された一言主の神のように、鴎外にいわば呪縛されてしまったのである。  大学に入ってから、当時若い世代から絶大な支持を得ていたある芥川賞作家のベストセラー作品を買い求め、読んでみた。人並みに現代の作家に触れてみようと思ったのである。  しかし、数ページと読み進むことができなかった。文章の余りのひどさに胸が悪くなったのである。直ちに読むのを中止し、ゴミ箱に放り込んだ。日本語が冒涜されていると思ったからである。 四、 鴎外の呪縛から解放され、素直に読むことのできたほとんど唯一の現代作家は、三島由紀夫であった。  作家は、私が27才、茨城の配偶者の実家で居候をしながら会計士の試験勉強をしていた時に、東京市ヶ谷の駐屯地で、割腹し、自ら45年の短い生涯を閉じた。  テレビで三島自決の報に接した私は、しばし茫然とし、固まってしまった。多くの華麗な作品を生み出した類い稀な才能がこの世から去っていった寂寥感が私を襲った。 五、 異色の経歴を持った著名な作家であることは知っていたが、安部譲二の作品をそれまで読んだことはなかった。現代作家に対してアレルギー症的な思い込みがあったために、読む気がしなかったのである。  それが、独房という活字の乏しい環境の中で、偶然に作家の作品に出会うことになった。  「つぶての歌吉」――つぶて投げという特殊技能を持った男の破天荒な物語である。活字であれば何でもいい位の気持で読み始めたが、少し読んでみて驚いた。  単に面白いだけではない。グイグイ引きつける文章力に瞠目した。  これは並の作家ではない。  三島の作品が華麗な日本語をよみがえらせたのに対して、安部の作品は、端正な日本語をよみがえらせている。しかも気どらない通俗的な語り口だ。  作家は、相当ハチャメチャなことを語っているが、しっかり抑制のきいた文章は特有のユーモアをかもし出し、全体が温かい羽毛でつつまれている。  天性のストーリー・テラーなのであろう。同じ内容を他の人が表面的に真似て書き上げたとしたら、とても下品なものになるに違いない。  作家の知性とユーモアが、豊かな体験に裏打ちされて、巧みな言葉の中に包みこまれている。まさに安部ワールドといったものが展開されていくのである。 六、 私は、作家の他の作品も読んでみたくなった。  作家のデビューを飾った「塀の中の懲りない面々」が独房に入ってきたのは6月7日のことであった。独房に運んできた看守が、かなり複雑な顔をしていたのが印象的であった。塀の中にこの本を差入れてもらう人はあまりいないのかもしれない。  この作品は独房内の私に、心からの愉悦を与えてくれた。それは、書写の気分転換を超えるものであった。  加えて、願箋とか自弁とかの塀の中の専門用語が随所に用いられており、臨場感をもって読み進むことができた。誠に得難い体験であった。  その後、「塀の中の懲りない面々(2)」「塀の中のプレイボール」「賞あり罰あり猫もいる」「塀の外の男と女たち」が次々と入房し、私は多彩な人間模様が織りなす安部ワールドに包み込まれることとなった。  塀の中の楽しいひとときを作家によって与えられた私は、豊かな気持に包まれて、再び日本の古代に遊ぶことができたのである。 七、 保釈されてから、「つぶての歌吉」(朝日文芸文庫)10冊を買い求め、入院等をして無聊をかこっている友人達に贈った。 六.クサイ飯の実態 一、 俗に、ムショ(刑務所)の飯のことをクサイ飯といい、投獄されることをクサイ飯を食うという。  私が入っていたのは、松江刑務所拘置監で、刑務所ではない。ただ、看守長から聞いたところでは、私のような未決囚も、受刑者と同じものを食べているということであるから、私も、ムショのメシを食べたといっていいであろう。 二、 私は、291日の間勾留されていたのであるから、このムショのメシなるものを、都合、872回食べたことになる。 三、 主食は、米7割、麦3割の麦メシ。一週間に一度、土曜日には一食だけコッペパン。時おり、うどん、そば、ラーメン、そうめん、スパゲッティとなる。  一言でいえば、メシがうまい。クサイ飯どころか、うまいのである。普段、わが家で食べているメシに決してひけをとらない。コッペパンにも感心した。小学生の頃給食で食べたコッペパンとは似て非なるものであった。これまたうまかった。  ただ、うどん、そば等のメン類はいただけなかった。コシが伸び切っていて、メン同士が団結をし、糊状に結束していた。ゆでてからどれ位経ったら、あのような状態になるであろうか。   四、 副食もなかなかバラエティに富んだものであった。栄養バランスも行き届いていた。  大学時代、私は5年間寮生活をしている。日本が高度経済成長に入る前であり、日本全体が貧しく、私達寮生も、一部の者を除いて、つつましい生活を送っていた。  寮食と呼んでいた寮の給食にも、私は十分満足していたのであるが、この寮食と比較しても、ムショの食事は格段にうまいし、良質であった。  ただ難点が一つだけあった。ゆっくり食べることができないのである。10分か15分位で、空下げが始まり、房内から引き上げられてしまうのである。 五、 ご飯入れと汁入れは、ポリプロピレン製であり、それぞれ、上の径15cm、下の径10cm、高さ8cm、及び直径15cm、高さ6cmの椀であった。副食は、ポリプロピレン製の平らな丸い皿に盛ってあった。  朝昼晩と、それぞれ7時15分、11時50分、16時30分、検視窓を通して差し入れられた。休日は起床が7時30分と平日より30分遅くなる関係で、休日の朝食は7時45分であった。給仕は、衛生夫と呼ばれる受刑者が、看守の監視の下に行っていた。衛生夫は、看守のことを「センセイ」と呼んでいたのが印象に残っている。 六、 私は、ノートに食事の内容を具体的に記録した。  けんちん汁(鶏肉、大根、豆腐、油揚げ、キャベツ、にんじん入)、酢の物(ほうれん草、もやし、きゅうり、クラゲ)、冷奴(7cm×4cmのもめん豆腐、大きなネギのブッタキリとカツオぶしがかけてあり、ドンブリに薄味のダシ汁あるいは醤油がザブッとかけてある感じ)、ハムの鉄板焼(直径9cm、厚さ7o位のハム2枚、一枚食べて一枚残す)――というように、ほゞ毎食記録に残したのである。   ところが、これもノート検査にひっかかり、抹消までは要求されなかったものの、今後は余り詳しく記録しないように看守から注意を受けた。  しかし、一週間位自粛してはいたが、書きたい気持やみがたく、再び記録を始めた。このため、以前にも増して詳しい記録が残ることとなった。 七、 平成8年6月12日、平成8年度の嗜好調査票が配布された。今後の給食の参考にする為に実施する旨が記されていた。  主なメニュー80種余りが記されており、この中から、好きなもの3つ、嫌いなもの3つを選んで、それぞれ○と×の印をつけるように指示されていた。  私は、オムレツ、魚のみそ煮、カレーの3つに○印をつけ、×印はないと回答した。  ちなみに、青魚のみそ煮は絶品であったし、カレーは、一流のカレー専門店並のものであり、オムレツに至っては、東京の一流ホテルの朝のバイキングで目の前でシェフがつくってくれるオムレツをしのぐものであった。  以下、主なメニュー80種余りを列挙する。 ラーメン、うどん、そば、そうめん、スパゲッティ、てんぷら、ハンバーグ、コロッケ、ウィンナー炒め、ハムステーキ、ホルモン焼き、鶏もつ五目煮、豚ニラ炒め、豚肉の生姜焼き、ケチャップ炒め、魚団子煮込み、ミートボールのあんかけ、ぬたコンニャク、酢みそ和え、ひじき炒め、磯辺揚げ、煮豆、ぜんざい、オムレツ、煮〆、からし和え、煮魚、魚のみそ煮、魚のフライ、焼魚、魚の竜田揚げ、親子風煮、すき焼き風煮、牛丼風煮、豚かつ、焼き肉、よせ鍋、酢豚、豚汁、ケンチン汁、さつま汁、源平なます、酢のもの、卵とじ、ゆで卵、おでん、金平ごぼう、ソボロ煮、高野煮、ピーナツ和え、ごま和え、ひたし、カレー、シチュー、ビーフシチュー、マーボーとうふ、五目野菜炒め、ギョーザ、シューマイ、マカロニサラダ、フルーツサラダ、中華風サラダ、野菜サラダ、春雨サラダ、八宝菜、冷奴、湯豆腐、肉ジャガ、かす汁、筑前煮、含め煮、しじみ汁、あさり汁、中華スープ、若布スープ、かき玉汁、すまし汁、とろろ芋、炒り肉、チーズ、納豆。 八、 ムショの飯、一日3食の予算は、概ね550円と推計された。  当時の府中刑務所の場合で、一日519円92銭であり、松江刑務所の場合、地域格差、供給量格差を考慮して、5%強上乗せした。  尚、府中刑務所の数値は、平成8年9月18日に入房した、同年9月26日の週刊宝石の次の記事による。 『平成8年度の場合、成人の男子受刑者で、1日当たりの主食の予算が138円4銭、副食費が381円88銭、合計519円92銭。主食は、米が7、麦が3。工場での立ち作業の場合、2,890キロカロリーと決まっている(府中刑務所庶務課)。』 九、 食事の後しまつは、次のように定められていた。  食事が終ると、食器を揃えて、検視窓の下にある台にのせる。これを空出《からだし》といった。  食器の揃え方は決っている。一番下に飯入れのフタを置き、つぎに大きい皿から順にのせていき、椀になる。椀も大きい順に重ねていき、一番上は一番小さい椀ということになる。  残飯がある場合には、一つにまとめて、一番上にのせる一番小さな椀に入れる。  ビニール類(たとえば、ビニールパック、パンの袋、ヤクルトジョアの空瓶、ミニチーズの銀紙など)は、残飯と一緒にしないで、一番下の皿に入れて出す。   食器の片づけが終ると、箸を洗い、フキンでふく。次にフキンを濡らして小机の上をふく。フキンを水道でよく洗い、しぼって、検視窓の下の台の上に、雑布と並べてひろげて干す。 七.外出 一、 勾留中に外出したのは、10回であった。一回だけ本件で再逮捕されるために検察庁に出頭したほかは、全て松江地方裁判所への出頭であった。 二、 外出の手順について、平成8年7月9日、第三回公判廷に出廷したときの状況に即して、具体的に記述してみよう。 三、 午後12時20分頃、担当看守が、私が収容されている拘置監二階の4号室の前で、「出房!」の号令をかけ、私を房から連れ出す。ここで、ノート、筆記用具等の携帯品の検査がなされる。  私は房の入口を出て、窓側に向って立ち、看守の「回れ右!右向け右!」の号令を受けて身体の向きを変え、「進め!」の号令で歩き出す。歩くときは正面を向いて、スリッパの音をたてずに、手をキチンとふって歩かなければならない。しかも歩くところが定められている。  拘置監の廊下には、房に沿って40cm幅のだいだい色の硬めのカーペットが貼ってある部分と、カーペットの貼ってないビニール・タイルの部分とがあり、前者は看守が歩き、後者は未決囚が歩くことになっている。 四、 勾留されて間もない頃は、廊下の歩行について、ことごとく叱責を受けた。  まず、回れ右である。 「回れ右ができないのか!」  できないのである。回れ右など何十年もやったことがないので、オタオタしたものだ。  次いで、 「キョロキョロしてはいかん!まっすぐ向いて歩け!」  私は元来人一倍好奇心が強いほうで、勾留生活の見るもの聞くもの全てが珍しく、首を左右にふりながら観察していたのである。  あるいは、 「スリッパをすって歩くな。足をキチンと持ち上げて歩け。」 「ポケットに手をつっこんで歩いちゃいかん。手を出せ、手を。」 「そこはお前らの歩くところじゃない!カーペットの貼ってないところを歩け!」  このころになると私もすっかり慣れており、看守から注意を受けることはなくなっていた。外出だけでなく、面会のための出房が頻繁にあったからである。 五、 看守に連行されて、二階から階段を下りて、拘置監の出入口に至る。  出入口のドアの横に壁があり、その壁の下に白い塗料で足型が描かれている。その上に立って壁に向かう。足型が壁スレスレのところに位置しているため、足型に合わせて直立すると、ほとんど鼻と眼鏡が壁にくっつく感じとなる。  直立した後、「回れ右!」の号令で身体の向きをかえて検身を受け、それが終ると「左向け、左!」の号令で左に向きをかえ、「進め!」の号令をまって、拘置監から出ていく。  渡り廊下を経て管理棟に向かい、取調室に入る。ここで担当看守から取調室に待機していた別の2人の刑務官にバトンタッチされる。 六、 取調室では、着衣を全て脱ぎ全裸となる。再び携帯品のチェックがなされ、脱いだ服は、金属探知器で入念に検査される。  検査が終ると再び服を着用し、スリッパを外出用のスリッパに履きかえる。グレーのスリッパは、外出用も所内用も共に合成樹脂製の丈夫なもので、メーカー名が入っていない。刑務作業によって作られたものであろう。  手錠をかけられ、腰縄を打たれて管理棟を出て、車に乗る。  通常、車はワゴン車であるが、このときは、黒塗りのクラウンであった。  後部座席の真中に座り、両側に二人の刑務官が座る。左にいる刑務官は腰縄を手にもち、右にいる刑務官は無線で刑務所と連絡をとっている。  車は刑務所の門を出て、国道431号線を西進し、くにびき道路を左折する。このとき、無線で連絡がなされる。 「刑松《けいまつ》、刑松《けいまつ》、こちら○○号車。ただいまA地点通過。」  刑松とは、松江刑務所のことであり、A地点とは、この十字路のことであろう。  車はくにびき道路を南進し、県道260号線を右折する。総合体育館、マクドナルド、ケンタッキーのある四つ角である。ここで再び無線が発信される。 「刑松、刑松、こちら○○号車。ただいまB地点通過。」  県道260号線を西進した車は、事務所の顧問先であるT歯科医院とK蕎麦店の前を通過して、裁判所の西側に位置する裏口に到着する。ここで再び無線連絡がなされる。 「刑松、刑松、こちら○○号車。ただいま現着。」  現着とは、現場、即ち裁判所に到着したということであろう。午後1時であった。ここで車から降りる。 七、 裁判所の裏口には、腕章を巻いた裁判所の職員が三人待機している。  私は手錠・腰縄のまま、一階の被告人控室に連行される。鉄格子のついた小部屋が5つあり、その一つに入る。  部屋というより、檻と呼ぶべきもので、手錠・腰縄の状態で入れられ、鍵がかけられる。  トイレは、檻の外に二ヶ所あり、用をたすときは、ドアを開けたまま、監視されながらすることになる。  この日は、時間がなかったので、手錠・腰縄のまま檻に入れられたのであるが、6月10日の第二回公判の時には、30分程時間にゆとりがあったため、手錠・腰縄を外して檻に入れられた。しかも、備え付けのマンガ本を2冊、看守が差し入れてくれたのである。  それは、大阪のあくどい金融ゴロを描いた「ナニワ金融道」シリーズであった。刑務官がこのマンガ本を私に手渡すとき次のように言った。 「ほら、あんたの専門書だ。」 八、 第三回公判の開廷時刻は午後一時半であった。  その10分前に3階の31号法廷へ、50段位の階段をクネクネと登っていく。  法廷内へは手錠・腰縄の状態で連行され、被告人席の前ではじめて解除される。  被告人席に座り、両側には刑務官が私をはさむようにして着席する。  この日は、組合員藤原洋次氏の証人尋問が予定されていた。藤原洋次氏はすでに述べたように、検察官永瀬昭の脅しによって嘘の自白を強いられた人であり、この日の証人尋問は重要な意味をもつものであった。  藤原洋次氏は、法廷では一転して真実の証言に終始し、公判検事立石英生の狼狽ぶりは気の毒なほどであった。  午後3時に5分間の休憩があった。再び手錠・腰縄を打たれ、一階の檻の部屋まで降りて行き、トイレを使う。 九、 この日の法廷は午後4時20分に終った。起立をして礼をし、再び手錠・腰縄で法廷を後にして、一階の檻の部屋に入る。  通常は、檻の中に入って迎えの車が来るのを待つが、この日はすでに車が来ていたため、檻に入って待つことなく、直ちに車に乗せられ、刑務所に向った。  往路と同じ道筋を通り、同じ無線連絡がなされ、刑務所に着く。  刑務所の鉄の大扉が開き、車が入っていく。  車から手錠のまま降りたところで、待機していた看守に「称呼番号、名前!」と誰何されるのに答えて、「2番、山根治」と発声する。  建物の内部の取調室に連行され、再び全裸になって綿密な検査を受ける。出るときの検査より更に念が入っている。  スリッパを所内用に履きかえて、出房したときと全く同じ手順を経て、房に帰る。房内にはすでに夕食が用意されていた。 一〇、この日、私には一ト月ぶりの松江の街であった。車の窓ごしに街並を見ると、なつかしさの余り、思わず涙ぐんだ。涙は、私の身体をガードし、体調を調整する役割を果たしていたようである。   八.風呂と運動 一、 勾留291日の間に入った風呂の回数は、100回位であったろうか。  月曜日から金曜日までの5日間、外での運動と風呂が一日おきに与えられた。土、日及び祝祭日はない。三連休以上になると、風呂が与えられることがあった。  したがって、週によって運動が3回であれば風呂は2回であり、運動が2回であれば風呂は3回であった。 二、 風呂場は拘置監一階にあった。独房を風呂場に改造したもののようであり、広さは独房と同じ5.37平米であった。  入浴時間は15分。15分の間に、服を脱いで入浴し、服を再び着ることが要求された。  看守が一人監視していた。常日頃独房を担当している看守とは別の刑務官が、独房までやってきて私を風呂場に連れ出し、見張りをし、再び独房に送り返すきまりになっていた。 三、 タオルと石ケンは独房から持ち出し、カミソリは脱衣場に用意されていた。私のものは、「2番」と書いた紙切れが、カミソリの柄に巻かれセロハンテープで押えてあった。一枚刀であった。 四、 風呂の大きさは、タテ74cm、ヨコ93cm、深さ66cm。独房から定規の持ち出しができないため指測によった。一般家庭用の風呂をひと回り大きくしたもので、ステンレス製であった。  3cm位の口径の鉄管から熱湯が、2cm位の口径の蛇口から冷水が供給されるようになっていた。看守は熱湯のことを蒸気と呼んでいた。  看守の許可を得たうえで、熱湯のバルブと冷水の蛇口を操作して、湯加減を調整した。熱湯はすさまじい勢いで出てくるので、気をつけてバルブの操作をしなければ、火傷をするおそれがあった。 五、 一回だけ、4人一緒に入浴させられた。一目でヤクザと分かる人物が2人、東南アジア系の外国人が1人。一人の背中には見事な刺青が施されていた。  その時以外は一人入浴であった。 六、 私は普段自宅では毎朝風呂に入ることにしていたし、現在もそうである。  顔のヒゲをそるための入浴であり、身体全体を石ケンで洗うことはほとんどない。3ヶ月に一度位、思い出したように全身を洗うのが日常である。  ところが、拘置監に入れられてからは、入浴のたびに全身を洗っていたのである。全身をタオルで洗って皮膚を刺激して気合を入れ、細胞の活性化を図るーあるいは、このようなことを、無意識のうちに考えていたのであろうか。 七、 外での運動も、風呂と同様100回位行った。  20分から40分、平均30分の運動時間であった。狭い独房から開放されて、のびのびできる唯一の時間であった。  始めに看守の号令に従って、他の未決囚と一緒に天突き体操と舟こぎ体操とをし、残りの時間は、目一杯ジョッキングをして身体を動かした。4000歩から6000歩位の運動量であった。 八、 房内での運動は、午前と午後に一回ずつ、それぞれ15分の時間が許されていた。房内放送による体操の手順に従って、身体を動かした。たゞ私にはものたりなかったので、私はその時間、足踏みによるジョッキングに切り替えることが多かった。 九、 私は、それ以外にも、看守の眼を盗むようにして、房内で足踏みジョッキングをくりかえした。看守に見つかると叱られて、中止命令が出た。しかし、私は、そのときは中止するものの、再びジョッキングをしては叱られていた。何十回、叱責を受けたことであろうか。 十、 風呂での洗身といい、運動といい、シャバにいるときには、ほとんどしなかったのに、ムショに入ってからは、時間を惜しむかのように懸命にやりだしたのである。  健康の維持を最優先したのは、自らの危機に直面して自己防衛本能が自動的に発動されたからであろうか。 九.人間模様   (1)刑務官 一、 私が291日の勾留中に接した刑務官は、20人位であろうか。  担当看守、主任看守、処遇首席、総務課長、処遇部長。その他、面会、風呂、運動、医務及び裁判所への引率役の看守、面会時立会役の看守、夜(21時から7時まで)の巡回見廻り役の看守。捜検の看守。 二、 一番多く接したのは、担当看守である。三十代の生まじめな人物で、背が低く、被帽の下は若ハゲであった。私を含めて拘置監の35人前後の未決囚の世話をしていた。フトンのたたみ方、飯の食べ方、掃除の仕方、点検の受け方、午睡の仕方等、日常生活の全般にわたって細かい指示を出し、一寸でも違えると厳しく私を叱責した。  主任とか首席の代弁者となって、度々私を面罵した。 平成8年10月2日の夕方の点検時に、担当看取は、私を叱責し、次のように指導した、―― 「最近、点検を受けるときの姿勢が悪い。きちんとするように。まず、正座又は安座をして、背スジをピンと伸ばすこと。5本の指を伸ばしてハの字にして、股のつけ根に親指をつけて、ももの上に置くこと。それに、全員の点検が終了し、『点検オワリ』の号令があるまでその姿勢を崩さないこと。」  あるいは、夏の暑い日に、ウチワの使用にめぐって、―― 「点検中、トイレ使用中及び食事中にウチワを使ってはいけない。今後キチンと守るように。」  あるいは、次のように注意されたこともあった。 1.ウチワをまっすぐにおくこと(フトンの上においておいたウチワが少しゆがんでいたことに対して) 2.タオルのスミを揃えて干しておくこと(タオルがゆがんで干してあったことに対して) 3.新聞は、読み終えたらキチンとしまうこと(新聞を読んでたたみ、板の間と畳の間に置いて本を読んでいたのに対して)  しかし、彼は、私を侮辱したり、蔑んだりしたことは一度もなかった。一寸した言葉の中に優しい心遣いを示してくれた。 三、 私と同年輩であった主任看守は、時折私につらくあたったが、あるとき私に訓戒処分をするために管理棟に連れ出し、面談したことがあった。  そのとき、ポツリと漏らした言葉が印象的であった。 「ここにやってくるのは、ほとんどが前科者で、刑務所慣れしている連中だ。懲役太郎と言っているんですがね。我々が甘い顔をするとすぐ図に乗ってつけ上がるので、秩序維持の為にも、キツクあたらなければならないんですよ。あなたにはキツイかもしれないが、特別扱いする訳にはいかないので、辛抱して下さい。」 四、 処遇首席も主任と同様、私と同年輩の男であった。  この人物と接したのは、5〜6回であったろうか。そのたびに、私の名前を呼び捨てにし、侮辱し、蔑んだ。  余りにも、山根、山根と連発するので、私は、「何故、私の名前を呼び捨てにするのか」と尋ねたところ、次のような言葉が返ってきた。 「バカなことを言うんじゃない。オマエは被告人だろうが。被告人をオレが呼び捨てにして、何が悪いんだ。オレは刑務所につとめて30年程になるが、被告人をさん付けで呼んだことは一度もない。もし、オレの部下がオマエら被告人に対して、名前を呼び捨てにせず、ていねいな言葉でも使おうものなら、直ちに厳重に注意して改めさせる。被告人のくせに何を言っているんだ、フン。」  彼は怒りのために赤黒くなった顔で私をにらみつけ、大声でどなりつけた。  保釈されて一年ほど経ったとき、この人物の訃報が地元紙に載った。受刑者あるいは未決囚に対して年中怒っていたため、あるいは体内バランスが崩れ、寿命を縮めたのかもしれない。 五、 この他に、私を小馬鹿にしたり、蔑んだりした看守が2人いた。一人は20才台の若い看守であり、一人は40才台の看守であった。  二人共、人生に疲れており、仕方なしに仕事をしているようであった。この二人にとって仕事とは何であり、生き甲斐とは何であったろうか。 六、 温かい気くばりをしてくれる看守が3人いた。  中でも、私より少し年輩の看守は、私と接するたびに、さりげなく、気づかいの言葉をかけてくれた。房内の蛍光灯の不具合に気がつき、「チカチカするようだね。すぐにとりかえてあげよう。」と言って、直ちに新品と交換してくれたこともあった。  私は、この看守の後姿に、ひそかに両手を合わせた。 (2)衛生夫 一、 拘置監を担当する衛生夫は二人であった。出所間近の受刑者だったのであろう。二人共、彼らがセンセイと呼ぶ担当看守の手足となってコマネズミのように立ち働いていた。  配食、空下げ、洗濯物の収集と返還、自弁品の配布、その他拘置監内の雑用全てを、看守の監督のもとに行っていた。 二、 私語は禁じられていたため、彼らと話をすることはなかった。ただ、私がときおり、「ご苦労さま」と小声をかけると、白い歯を出してニッと笑った。  一度だけ看守が持ち場を離れ、若い衛生夫と二人だけになったことがあった。  私は、小声で「出所はいつ?」と問いかけてみた。「あと半年」という答えが返ってきた。  私は、素早く紙切れに私の名前と電話番号をメモして手渡し、「出たら一度尋ねておいでよ」と話したところ、にっこりと笑い、うなずいた。  あれから8年が経とうとしている。「うえの」と名乗った若い衛生夫は、いまだ私の前に現れていない。 (3)被収容者   一、 松江刑務所には、受刑者及び未決囚あわせて400人位が収容されていた。  私は未決囚であり、独房に入れられていたため、他の被収容者と顔を合わせたり、話をしたりすることはなかった。取調べとか面会のために独房から連れ出され、廊下を歩いているとき、他の被収容者とすれ違うことがあったが、歩行を停止した上に壁側に向かわせられた。お互いに顔を合わせないようにするためである。 二、 顔を合わせたり、話しをしたりすることが禁じられていると、どうしても耳が聡くなるようである。耳から音として入ってきた情報をもとに、何が起こっているのか推測するのが楽しみとなった。音だけを頼りに三次元の映像を組み立てるのである。 三、 蒸し暑い夏の昼下がりであった。拘置監に収容されていた東南アジア系と思われる二人が、独居房越しに大きな声で会話をしていた。中国語でもなければ朝鮮語でもない。 私にはどこの国の言葉かさえ分からなかった。  案の定、看守の大声が拘置監に響きわたった。 「こんらあ!オマエら何しゃべってるんだ!ここはシャバじゃないんだ。しゃべってはいかんと言ってるだろうが。バカヤロー!」  二人の話し声はピタッとやんだ。3分位経ったであろうか、意味不明の言語による会話が再開された。再度看守のどなり声が発せられるのは時間の問題であった。私の楽しみのカウント・ダウンが始まった。   懲罰の危険性を知りながら、なお話を交わさなければならなかった二人の異国の人は、その後どうしているのであろうか。 四、 平成8年7月18日のことであった。  戸外運動場で汗を流していると、突然刑務所の中庭に大声が鳴り響いた。  ジョッキングをしながら、何が起ったのだろうと耳を傾けたところ、運動後の拭身についてもめているようであった。 「拭身中止!終わりだと言っているのに分らんのか。」 「・・・。」 「なに!まだ洗面器に一杯しか水を使っていないだと。ヤッカマシイ!もう1分を過ぎたんだ。やめないか。」 「・・・。」 「つべこべ抜かすんじゃねえ!コノヤロー、言い返しやがったな。反抗だ、よーし。」  この段階で更に3人ほどの看守が新たに加わり、口々に大声でどなりまくった。 「ここをどこだと思ってんだ。シャバじゃねえんだ。反抗したらどんなことになるか、分かってんだろうが。連行だ!連れていって締めあげよう。クセになる。」 「・・・。」 「つべこべ抜かすな。バカヤロー、懲罰だ。」  この後、連行するガヤガヤという声が拘置監のほうではなく、管理棟のほうに消えていった。  この未決囚はその後どうなったのか定かではない。別室で吊し上げられ、供述調書をとられて、懲罰に付されたことであろう。  被収容者遵守事項と題した9ページの冊子の中に、職員の正当な職務行為を妨げる行為の一つとして「抗弁等」があげられており、 「法令、所内生活の心得又は日課実施上の必要に基づく職員の職務上の指示に対し、やゆ、愚弄、抗弁、暴言、無視、その他の方法で反抗的な態度をなし、又は口出しするなどして職務の執行を妨害してはならない」 のである。 五、 同年9月19日夕方5時すぎであった。  5時の閉房点検が終ってから6時の就床時間までの一時間は、拘置監を含めた刑務所全体が静まりかえるひとときである。房内放送もなく、宍道湖の夕凪のような静謐さが広い閉鎖空間を支配するのである。  かなり離れた受刑者収容棟からであろうか、「ウハーアーックション!」と精一杯大きなクシャミが聞こえてきた。大きな声が出せないため、その反動から敢えて大きなクシャミをしているようだ。10秒程おいて3回位繰り返されたであろうか。ピタリと止んだ。わざとらしいクシャミをこれ以上続けると、看守から大目玉を食うことは必定であり、微妙なかけひきをしている受刑者を想像して楽しくなった。気持ちが痛いほど分かるだけに、顔も名前も知らない受刑者が急に身近な存在になった。 六、 同年11月1日の朝、久しぶりに処遇主任の大声が拘置監全体に響きわたった。 「コンラー!!オマエ何をやっとんのだ!パンツ脱いでウロチョロなんかすんな!下着姿でウロチョロすんなと言ってるんだ!」  三つ程離れた独房にむかって、巻き舌のベランメエ調がたたきつけられていた。  気持ちよく水中遊泳を楽しんでいた金魚が、突如水槽の中にザリガニを放り込まれてパニクッている姿を連想してしまった。吉本新喜劇のドタバタ劇が想念の三次元で展開されたのである。 [#改ページ] 第六章 10年間の財政の推移 一.財政白書  財政という言葉は、主に国又は地方公共団体の経済活動の意味で用いられることが多いが、時に個人の経済活動もしくは経済状態を現わす言葉としても用いられる。いずれの場合においても、財政は全ての活動の基盤であり、全ての活動の結果は財政に反映される。  私にとって激動とも言える10年間、私の活動を物理的に支えたのは、間違いなく私の財政であった。同時に、私の活動の結果は、何らかの形で私の財政に反映されている。  この10年間を回顧するにあたって、自らの財政にメスを入れ、分析してみることにした。客観的に自らを見つめ直すためには、不可欠であると考えたからである。  私は自らの財政分析を通して、私の10年の活動の一端を浮き彫りにする。いわば、山根治の財政白書である。 二.緊急時の対応 (1)銀行取引 1、 平成5年9月28日にマルサの捜索を受けるまでは、銀行との取引は極めて良好であった。  短期の運転資金だけでなく、長期の投資資金についても、私が希望すれば容易に融資を受けることができた。  しかし、マルサの家宅捜索を受け、私が犯則嫌疑者の烙印を押されてからは様相が一変した。既存の融資については、早期の弁済を求められることまではなかったものの、新規融資の道は閉ざされた。  従って、資金繰りは全て私の範囲内で行なうことを余儀なくされたのである。もっとも、私の場合、銀行からの融資は専ら先行投資資金に限られており、運転資金については例外的なものであったため、事務所の資金繰りに直ちに影響することはなかった。 2、 取引銀行以外の銀行についていえば、従来、少なからぬ人数の人達が親しそうに私の周りに集まって来ていた。それが、一部の例外を除いて、一夜にして、他人になった。ことに、平成8年1月26日に私が逮捕されてから後は、銀行マンの変身ぶりは見事という他はなかった。 (2)収支の見直し 1、 私の収入は、大別すると2つに分けることができる。  一つは、経常収入であり、事務所の日常的な活動にもとづく収入である。これは、私の指揮監督のもとに10名程のベテラン職員が稼ぎ出すものであり、主に事務所の運営経費に充当されていた。  今一つは、臨時収入であり、私の戦略的な活動にもとづく収入である。これはほとんど、私一人で稼ぎ出していたものであり、大半が蓄財に充当されることなく、将来の戦略的な活動にそなえて投資もしくは費消されていた。 2、 収入に関して、私は、自らの信用の低下等によって大幅に減少することを予測した。減少の見込みに応じて、いくつかのシミュレーションを実施し、経費についてもゼロベースで考え直してみた。  幸いにも経常収入については特段の落ち込みはなかったので、それに対応する経費については一切手をつけなかった。  経費の大幅見直しを実施したのは、私が戦略的に取り組んでいた研究と情報収集に関連する分野である。それらに充当していた臨時収入が大幅に低下すると考えたからだ。  マルサのガサ入れの後、順次見直しを進め、その後私が逮捕されてからは、資金繰りの建直しが急務であったので、当面の間、当該部門を閉鎖することにした。  この措置によって、私の収支勘定は月に250万円改善された。   3、 その他の経費についてはこの10年の間、私の交際費関連の支出は限りなくゼロになった。   その他の収入については、所有する不動産物件の活用によって、不動産収入が増加し、長い間マイナスであった私の不動産所得が、プラスに転じた。  この2つの要因によって、私の収支勘定は、月に100万円改善された。 (3)資金繰り 1、 会計士稼業は、ある意味では浮き草稼業である。自らの身体一つが頼りであり、その点資本の論理が支配する会社経営とは全く異なっている。  病気になって入院でもすれば、たちまち収入が途絶えることもありうるのである。このことは医師とか弁護士も同様であろう。 2、 元来、私は蓄財という観念に乏しく、結婚して37年になる超現実主義者の配偶者からは折にふれて叱責の言葉が飛んでくる。 「会計士のクセに一体何ですか。こんなヘンなものを買ってきたりして。」  私は、自ら稼いだものは有効に使うべきであるという信念を持っており、有効性の判定をめぐって常に意見が対立するのである。 3、 そのような蓄財観念に乏しい私ではあるが、事務所の運営に最低限必要と考える資金だけは常に用意していた。  万一に備えてのものであり、何らかの原因で収入が途絶しても、事務所経営に支障を来たさないようにするためであった。  私は、息の続く限り働き続けるつもりであり、私の活動を下支えするためにも最低限の資金は必要であった。  私が資金繰りの心配をすることなく、安心して仕事に打ち込むために必要な備蓄資金は、2年分の事務所の経常経費を賄うに十分な額であり、その内の半分は、直ちに資金化できるものでなければならなかった。 4、 私は病気入院という事態を想定して万一に備えていたが、まさか逮捕されるとは夢想だにしていなかった。  しかし、考えてみれば、逮捕され291日間勾留されたことは、その間病気で入院したこととさほど変わりはない。  一般社会から隔絶されていることは、独房でも病室でも同じことであるし、はじめの内しばらく続いた接見禁止の措置も、集中治療室に入っているのと同じようなものである。 5、 以上のような考えから万一のために備蓄していた資金が現実に役に立ったのである。  しかし、私が逮捕されてからも事務所の経常収入は途絶しなかったものの、支出の面で多額の臨時の支払いを余儀なくされ、資金繰りを圧迫した。  最も大きかった臨時の支払いは、税務当局に対するものであった。税務当局が預金と売掛債権との差押えをチラつかせながら支払いを迫ってきたために、事務所運営上必要最低限の資金を残して、その支払いに充てた。  この他の臨時の支払いは、刑事裁判にかかる弁護士費用等の裁判費用であった。 6、 私以外の者ができる資金繰りは、預金の取り崩しと保険の解約位のものであった。このため、私の保釈が決定したとき、事務所の資金はほゞ底をついており、保釈金の3千万円は配偶者の親族に頼った。  事務所の資金繰りは文字通り綱渡りの状態であった。 7、 従って、保釈されてから直ちに着手したのは、資金繰りの改善である。  税務当局は、私の保釈を待ち受けていたかのように、更に支払いの圧力を強めてきた。交渉の末、2つの不動産物件(担保余力7千万円)を担保提供することを条件に、月々30万円の支払いをすることで話し合いがついた。  月々30万円の支払いは、平成13年6月11日、本件が第二審でも無罪とされ、検察が上告を断念し、本件の無罪が確定するまで続けられた。  資金繰りが私の逮捕前の通常の状況に回復するのに3ヶ月かかった。 (4)税務戦略の見直し 1、 平成5年9月に、マルサが仁義なき戦いを仕掛けてくるまでの私は、いわば優良納税者の一人であった。  毎年1,000万円以上の国税を納付し、公示の対象になっていた。以下のとおりである。 所得額(所得税額)――  平成元年分 35,297千円(12,818千円)  平成2年分 43,870千円(17,030千円)  平成3年分 32,147千円(10,756千円)  平成4年分 35,983千円(13,049千円) 2、 マルサとの戦いは、長期になるものと予測し、収支計画と資金繰り対策とを練り直した際に、税務戦略の見直しも組み込んだ。  マルサのガサ入れがあった平成5年9月28日直後から、税務戦略の練り直しに着手し、平成5年分所得税確定申告に反映させた。源泉所得税の還付を受けることによって、事務所の資金繰りの一助としたのである。10年間の軌跡は次のとおりである。 還付金(純損失の繰り戻し還付も含む)  平成 5年分 8,001千円  平成 6年分 9,551千円  平成 7年分 8,718千円  平成 8年分 10,863千円  平成 9年分 10,408千円  平成10年分 9,874千円  平成11年分 8,638千円  平成12年分 7,726千円  平成13年分 11,409千円  平成14年分 6,064千円  10年間の合計 91,252千円 3、 年平均で900万円強の還付金は、地方税の負担が限りなくゼロに近くなったこととあいまって、私の資金繰りに貢献した。  臨時収入の減少見込に対しては、それに対応する経費の大幅見直しで対応したため、この面での資金繰りの帳尻はプラスマイナスゼロとなっていた。  それに、税効果ともいうべき資金が加味されたことから、かえって私の資金繰りにゆとりができた。従来、地方税を含めて少なからぬ税金を支払っていたものが、支払わなくてよくなったばかりか、逆に還付されることになったからだ。  いわば、税金のクッション効果を実感した10年であった。 4、 これに加えて、予定外の還付加算金が入ってきた。  私が脱税容疑で逮捕起訴され、税務当局が差押えをチラつかせて、私から半ば強制的に徴収していった金額は、39,100,000円であった。  平成15年3月11日の国税不服審判所の裁決にもとづいてなされた、更正処分の全面取消しによって、徴収されていた39,100,000円全額が返還されると同時に、11,820,530円の還付加算金が付加された。 5、 この10年間で税務当局から得た資金は、還付金として91,252千円、還付加算金として11,820千円、合計で103,072千円に及んだ。  私の事務所を壊滅させようと目論んだ税務当局ではあったが、こと資金繰りの面に関しては、皮肉にも少なからぬ貢献をしてくれたのである。   三.所得と税額の推移  この10年間の私の所得と税額等の推移は次のとおりである。 平成5年  所得金額 16,107千円  所得税額 3,708千円  源泉徴収税額 11,709千円  還付金 8,001千円 平成6年  所得金額 12,513千円  所得税額 1,823千円  源泉徴収税額 11,374千円  還付金 9,551千円 平成7年  所得金額 13,120千円  所得税額 1,933千円  源泉徴収税額 10,651千円  還付金 8,718千円 平成8年  所得金額 △9,483千円(注、平成8年1月26日逮捕され、同年11月12日まで松江刑務所拘置監に収容されていた)  所得税額 0円  源泉徴収税額 9,063千円  還付金 10,863千円(注、純損失の繰戻還付金1,800千円を含む) 平成9年  所得金額 7,940千円  所得税額 649千円  源泉徴収税額 11,057千円  還付金 10,408千円 平成10年  所得金額 4,629千円  所得税額 309千円  源泉徴収税額 10,183千円  還付金 9,874千円 平成11年  所得金額 9,858千円  所得税額 1,142千円  源泉徴収税額 9,780千円  還付金 8,638千円 平成12年  所得金額 15,382千円  所得税額 2,769千円  源泉徴収税額 10,496千円  還付金 7,726千円 平成13年  所得金額 2,010千円(注、本件の無罪確定を受けて、無罪相当分の裁判費用2,400万円を経費処理した)  所得税額 56千円  源泉徴収税額 11,465千円  還付金 11,409千円 平成14年  所得金額 21,843千円  所得税額 4,836千円  源泉徴収税額 10,900千円  還付金 6,064千円 合計  所得金額 93,919千円  所得税額 17,225千円  源泉徴収税額 106,677千円  還付金 91,252千円 四.資産と負債の推移  平成5年9月30日現在及び同15年10月31日現在の資産と負債の残高は次のとおりである。資産の価額は時価(換金可能価額)とし、括弧内に取得価額をもしくは投下資金額を付した。資産、負債共に配偶者分を含む。 平成5年9月30日  1)資産の部   現預金 99,675千円(99,675千円)   貸付金 30,800千円(110,900千円)   出資金等 3,000千円(3,800千円)   保険掛金 35,500千円(35,500千円)   美術工芸品等 30,000千円(150,000千円)   不動産 210,000千円(400,000千円)   諸権利 50,000千円(300,000千円)   資産合計 458,975千円(1,099,875千円)  2)負債の部   銀行借入金 141,618千円   その他負債 69,000千円   負債合計 210,619千円  3)純資産の部   資産の合計 458,975千円   負債の合計 210,618千円   差引、純資産 248,357千円 平成15年10月31日  1)資産の部   現預金 44,675千円(44,675千円)   貸付金 33,700千円(119,700千円)   出資金等 7,000千円(19,312千円)   保険掛金 0円(0円)   美術工芸品等 32,000千円(160,000千円)   不動産 200,000千円(400,000千円)   諸権利 50,000千円(300,000千円)   資産合計 367,375千円(1,043,687千円)  2)負債の部   銀行借入金 21,286千円   その他負債 0千円   負債合計 21,286千円  3)純資産の部   資産の合計 367,375千円   負債の合計 21,286千円   差引、純資産 346,089千円 増減  1)資産の部   現預金 △55,000千円(△55,000千円)   貸付金 +2,900千円(+8,800千円)   出資金等 +4,000千円(+15,512千円)   保険掛金 △35,500千円(△35,500千円)   美術工芸品等 +2,000千円(+10,000千円)   不動産 △10,000千円(0円)   諸権利 0円(0円)   資産合計 △91,600千円(△56,188千円)  2)負債の部   銀行借入金 △120,332千円   その他負債 △69,000千円   負債合計 △189,332千円  3)純資産の部   資産の合計 △91,600千円   負債の合計 △189,332千円   差引、純資産 97,632千円 4)純資産の増加額97,632千円の説明 @可処分所得 91,919千円(【別表1】を参照) A配偶者可処分所得 53,750千円(【別表1】を参照) B生計費 △36,300千円(300千円×121ヶ月 *平成5年10月より同15年10月まで121ヶ月間) Cその他の費消 △11,737千円 純財産の増加額 97,632千円(@+A+B+C) 【別表1】 1.平成5年より同14年までの所得額  可処分所得 93,919千円  配偶者可処分所得 58,650千円 2.同上に対する所得税他  可処分所得 △23,000千円  配偶者可処分所得 △8,500千円 3.平成15年10月までの所得額  可処分所得 25,000千円  配偶者可処分所得 4,100千円 4.同上に対する所得税他  可処分所得 △4,000千円  配偶者可処分所得 △500千円 差引、10年間の可処分所得  可処分所得 91,919千円  配偶者可処分所得 53,750千円 五.借入金等の弁済額189,332千円の弁済財源 1)所得より  1.平成5年より同14年までの所得額 93,919千円  2.同上に対する所得税他 △23,000千円  3.平成15年10月までの所得額 25,000千円  4.同上に対する所得税他 △4,000千円  差引 91,919千円(*尚、平成5年分より同14年分までの源泉所得税還付金及び同8年分純損失の繰り戻し還付金の合計額は、91,252千円であった) 2)預金より  1.預金取崩額 55,000千円 3)保険掛金より  1.保険解約金 35,500千円 4)その他 6,913千円 合計 189,332千円 六.まとめ  以上、この10年間の私の財政は、資金繰りの点で破綻することなく推移した。  総資産は458,975千円から367,375千円へと91,600千円減少し、総負債は210,619千円から21,286千円へと189,332千円減少した。このため、純資産額は97,632千円増加し、346,089千円となった。  負債は、銀行借入金が21,286千円残っているものの、現預金が44,675千円あるため、実質的にはゼロとなった。  納税額は、この10年間一度も公示基準の1,000万円に達することなく、それに対応する所得も低水準で推移した。  尚、現時点(平成17年7月)での純資産額は、更に200,000千円ほど増加し、概ね550,000千円となっている。 [#改ページ] 第七章 総括 一.10年間の身分の変遷  この10年の間に、私は、国家の暴力装置から一方的に、あまりありがたくない称号を与えられてきた。  山根治であって、山根治ではない、――今、振り返れば、何か不思議な気持が支配していた10年間であった。私の置かれた立場が変わるたびに、私の身分が変わり、呼び名が変わっていった。  いわば、身分の変遷を通して、この10年間を回顧する。 (1)犯則嫌疑者―脱税の疑いがある者― 一、 広島国税局の査察部門で、いつごろから私が犯則嫌疑者として扱われていたのかについては知る由もない。  私の手許の記録として犯則嫌疑者がでてくる最も古いものは、広島地方裁判所の藤原俊二裁判官が発行した臨検捜索差押許可状である。平成5年9月24日の日付のものだ。  私は遅くともこの日から、犯則嫌疑者なる肩書を付けられることとなった。 二、 犯則嫌疑者――一般の人には、ほとんどなじみのない言葉であろう。  脱税を取締り、摘発することを目的に制定された法律として、「国税犯則取締法」というのがある。明治33年3月17日に制定(最近の改正は、昭和42年5月31日)された古色蒼然としたシロモノであり、マルサの権限を規定している法律である。マルサの間では「国犯法《こっぱんほう》」と略称されているものだ。  この法律の中に出てくるのが、犯則嫌疑者なる言葉である。刑事訴訟法でいう「被疑者」と同じ意味合いのものである。 三、 「国犯法」には、刑事訴訟法とは異なり、「収税官吏」(通称、査察官という。マルサのことである)の強大な権限が規定されており、納税者側の権利については、全くといっていいほど配慮されていない。  収税官吏には、逮捕権こそないものの、それこそやろうと思えば、何でも出来るようになっている。マルサの傍若無人のふるまいをサポートする武器である。 四、 捜索令状が出されている犯則嫌疑者といえども、身柄が拘束されているわけではない。収税官吏《マルサ》に逮捕権がないからである。  つまり、犯則嫌疑者に対する質問検査は、任意であり、犯則嫌疑者の了解がいる。従って、夜遅くまでつきあう必要はない。  私の場合、ガサ入れの初日、収税官吏の藤原孝行が腕まくりをして、「山根には、今日は夜遅くまでつきあってもらうことになる」と申し渡したのに対して、「原則として夕方6時以降、仕事をする習慣はない」として断り、夕方6時で調査を終えさせた経緯がある。 (2)被疑者―犯罪の疑いを持たれている者― 一、 松江地方検察庁が、いつごろから私を被疑者として内偵していたのかは判らない。   二、 ただ、平成7年の暮れから同8年の初めにかけて、松江地検の事務官が、島根県庁に赴き、組合に支払った移転補償金について確認を行なった事実があるから、松江地検は、少なくともそれ以前には、私を被疑者としてマークしていたのであろう。 三、 また、私を逮捕した後、つきっきりで取調べを行った広島地方検察庁の中島行博検事は、逮捕の3日前に松江に赴いたと私に語っている。 四、 事件に関与した検察官で、証人として法廷に立った永瀬昭副検事は、平成9年1月14日の第9回公判廷において、中村寿夫主任弁護人の尋問に答えて、主任検事の藤田義清三席検事から、本件の捜査の関与を命じられたのは、平成8年の1月中旬頃であると証言している。 五、 更に、私の手許の記録として、松江地検が私を被疑者として扱った最も古いものは、飲食を伴う打ち合せに関する松江地検が作成した支出回議書である。  それによれば、私を逮捕する3日前平成8年1月23日、松江地検は、私の事件に関する合同捜査会議を開き、料理を取り寄せ、酒盛りをしている。  7,000円のオードブル7皿、5,000円の寿司の盛り合わせ6皿、1,500円の寿司4個、ビール大瓶35本などで、合計98,020円の支出が公費でなされている。  これは、行政機関の保有する情報の公開に関する法律第14条第2項の規定にもとづき開示を請求し、松江地検の平成7年度と同8年度の小切手振出済通知書、支出回議書、支出依頼書、請求書(飲食を伴う打ち合せに関するもののみ)の全てを取り寄せた結果、判明したものだ。 六、 以上により、私のタイトルは、平成7年の終り頃に、国税犯則取締法上の「犯則嫌疑者」から、刑事訴訟法上の「被疑者」へと移行した。   (3)容疑者―犯罪の疑いを持たれている者で、逮捕された者― 一、 容疑者という言葉は、刑事訴訟法上のものではなく、一般に、被疑者が逮捕された場合に使用されているようである。 二、 私のタイトルが、被疑者から容疑者に変わったのは、平成8年1月26日午前8時40分、松江地方検察庁の三階にある地検検事室において、二人の検察事務官立会のもとで、中島行博検事が私の面前で逮捕状を読み上げて、執行した時である。  このときの逮捕容疑は、「公正証書等原本不実記載、同行使」であり、明らかに別件逮捕であった。 三、 逮捕されて容疑者となると、身柄が拘束されるほかは、法的には被疑者であることに変わりはないものの、一般社会の取り扱いが一変する。  各マスコミが一斉に報道に踏み切り、容疑者に対して集中砲火が浴びせられる。社会的制裁の最たるものだ。  私の場合、時期が確定申告の直前ということもあって、公認会計士による大型脱税事件というセンセーショナルな標題のもとに、マスコミの恰好の餌食にされた。この為、私の妻は、十日程体調を崩し、寝込んだほどである。   四、 推定無罪という言葉がある。何人《なにびと》といえども、刑が確定するまでは、無罪であると推定されるというものだ。  建前は確かにそうである。しかし、実際には、逮捕されただけでマスコミのバッシングによって、犯罪人として指弾され、社会的生命が葬り去られることが多い。推定無罪ならぬ推定有罪である。これが日本社会の現実である。 (4)「2番」―称呼番号― 一、 平成8年1月26日午後2時20分、私は、松江地方検察庁から手縄腰縄付きで、護送車によって松江刑務所に移送された。 二、 私の身柄は、松江刑務所が発行する身柄領収書と引き替えに、松江刑務所拘置監の管理下に置かれることになった。  私には、山根治という名前の代わりに、「2番」という称呼《しょうこ》番号が与えられた。名前が消えたのである。 三、 身柄領収書といい、「2番」という称呼番号といい、私は一個の人間の形をした物品として、以後、この拘置監で291日の間、過ごすことになった。  私は物品置場だと思っていたが、同時期に勾留されていたオウム真理教の麻原ショーコーは、警視庁の留置場から小菅の拘置所へ移されたとき、地獄から動物園にかわったと言ったというのである。  平成8年5月16日の面接時に、古賀益美氏からこのことを聞いたとき、思わず笑い出してしまった。動物園とは言い得て妙である。 四、 拘置監を規定している法律は、明治41年3月28日制定の監獄法で、さきに述べた国税犯則取締法に負けず劣らずの古めかしいものである。  21世紀の日本において、このような前時代的な法律が存在するのは不思議である。収監されて、身にしみて感じたことだ。 五、 私は、「2番」という名の一個の物品であるから、一切の抵抗は許されず、例えば、独房を替わる際にも、予告なしに突然看守がやってきて、「テンボー!(転房)」と一言いえば、直ちに荷物を取りまとめて移動しなければならないのである。  初めての転房のときである。看守がガチャガチャッと錠をあけ、入口のドアをガラガラッと開けて入ってくるなり、「テンボー!」と大声を張り上げた。私ははじめ何のことか判らず、キョトンとしていると、いきなりカミナリを落とされた。昨日のことのように思い出される。クワバラ、クワバラ。  私の房には、弁護人から差し入れられた裁判関連の資料が、それこそ山をなすほどあり、公判準備の為に狭い部屋の中で、それらの資料と格闘する毎日であった。  看守はそんなことおかまいなしである。「テンボー!」と宣告されたら、資料チェックの途中でも、直ちに中止して応じなければならない。下手に抵抗すると、懲罰が待っているのである。「物品」であっても、こんなところで壊されたらたまらない。 六、 私は、291日の拘束期間中、5回の転房をさせられた。  1.拘下6 (拘置監一階の6号室) (平成8年1月26日)  2.拘下8 (拘置監一階の8号室) (平成8年2月15日転房)  3.拘上11 (拘置監二階の11号室) (平成8年3月28日転房)  4.拘上4 (拘置監二階の4号室)  5.拘上19 (拘置監二階の19号室) 七、 五回の『物品』移動には、検察の意を受けた拘置監の戦略的意図があるようだ。  当初の『物品』置場である「拘下6」の部屋は、一階の階段の横にある暗くて風通しの悪い部屋であった。一日中、騒がしく、落ちつける雰囲気は全くなかった。第一回目の起訴の日である平成8年2月15日まで、物品としての私は、この部屋に留置された。広さは5.37平米。  二番目の独房は、同じく一階の8号室であった。階段の横から少しはずれたため、初めの6号室よりは若干明るくなり、騒がしさも少なくなった。しかし、風通しが悪く、ジメジメしているのは変らない。初めの房と比較して、トイレと畳がやゝ汚いのと、タオル掛けがステンレス製で釘止め(初めの房はプラスチック製の貼り付け)であるのが異なっているほか、同じつくりであった。第2回目の起訴の日が平成8年3月7日、その後三週間、この部屋に留置された。  三番目の独房に転房させられたのは、平成8年3月28日。二階の11号室。はじめて、二階に移されたのである。   二階に移されて驚いた。それまでの一階とかなり違うのである。部屋が5.88平米と少し広くなり、明るくなった。風通しは良くなり、ジメジメした感じはなくなった。房内もきれいである。ザワザワした騒がしさはなく、ひっそりとしている。  街中の幹線道路沿いの家から、湖畔の別荘にでも移ったおもむきであった。  これは、私の主観的なものではなく、拘置所でも差別的に取り扱っていたようである。見廻りにきた看守長が、私に一言「どうだ、別荘のようだろう。ここでは一番いい部屋だ。」と漏らしたのが印象的であった。  その後、二回の転房があったが、全て二階における移動で、再び一階に下りることはなかった。 八、 このような差別がなぜなされたのか、憶測するに、検事の取調べが続いている間は、できるだけ環境の悪いところに放り込んでおこうということではないか。  逮捕され、気が滅入っているのに、更に追いうちをかけるように、暗くて陰鬱な独房に閉じ込められれば、ますます憂鬱になる。処遇の面でも精神的に追い込んで、被疑者を投げやりな気分にさせ、嘘の自白を引き出そうとしたのではないか。  検察と一体となっている拘置所の戦略的な意図を感ずるのは、私の考えすぎであろうか。 九、 考えうるもう一つの理由は、一階の看守の眼の届きやすいところに留置し、自殺を未然に防止することである。  たしかに、自殺防止に関しては、そこまでやるかというほど徹底したものであった。  房内には、小刀・ハサミ・カミソリといった金物、帯・ベルトといった「ヒモ状のもの」を持ち込むことは禁止されていたし、夜寝るときも必ず廊下側に頭を向けて、頭をフトンから出して寝ることが要求された。  夜間でも看守の見廻りは15分おき位になされていたし、その都度、監視窓から薄明りのする房内がのぞかれ、チェックされていた。  更に管理棟の廊下には、酸素吸入装置とおぼしきものが配置されていた。未決囚の自殺防止にこれほど神経をつかうのは、預かった『物品』に傷がつけば、拘置所としては、大きな責任問題になるからであろう。とくに、検事取調べ中に、被疑者が自殺でもしようものなら、検事の取調べに対して社会的非難が浴びせられるおそれがあり、そのような不祥事は、なんとしても避けなければならなかったのであろう。 一〇、ちなみに、私と同時に逮捕された組合長の岡島信太郎氏、常務理事の増田博文氏.及び山根会計の小島泰二氏の三名は当初から2階に収監されており、一度も1階に転房させられていない。  私と比較して、明らかな優遇措置であり、検察当局が私を事件の中核的人物とみなし、首謀者と考えていたことを如実に示すものである。 一一、私の称呼番号は、終止「2番」であった。ただ、起訴されて被告人となってから、書類上では「ヒ2番」とされていた。「被告人の2番」という意味であろう。 (5)被告人―起訴された者― 一、 平成8年2月15日。逮捕の日から21日目、20日間の勾留最終日に、公正証書原本不実記載同行使で起訴されることになった。この時点で、私は被告人となった。  同日、午前10時9分、松江地検検事室において、検察官中島行博によって、「法人税法違反」で再逮捕される。立会人は、渡壁将玄事務官。  この時点で、私は被告人であると同時に再び容疑者となった。 二、 私と弁護人は、全く言いがかりとしか言えない別件逮捕に疑問を感じており、このような件で検察は本当に起訴にまで持ち込むとは考えていなかった。  事実、前日、2月14日の接見において、中村寿夫弁護人は、田中良次席検事に対して、公正証書原本不実記載同行使については、処分保留ということにし、法人税法違反については、捜査継続という方向でお願いした旨、話していたのである。 三、 しかし、起訴、再逮捕という、私達が想定していたいくつかの選択肢の中で最悪の事態となった。 四、 平成8年3月7日。逮捕の日から42日目、40日間の勾留最終日に、法人税法違反容疑で起訴されることになった。  この時点で、私は容疑者の肩書がはずれ、被告人の肩書だけとなった。 五、 起訴されたのは、私と組合長の岡島信太郎氏の二人だけであった。同時に逮捕された前組合長の福山義弘氏、組合の常務理事増田博文氏は、処分保留となり、直ちに釈放された。  全員起訴という最悪の事態は避けられた。結局、事実上私一人にターゲットが絞られたわけであり、気持ちの上で随分楽になった。 (6)前科者―以前に法を犯して刑罰を受けている者―   一、 平成15年9月20日午前10時30分、最高裁判所から、同15年9月18日付の上告棄却の決定書が特別送達された。  直ちに、中村寿夫主任弁護人に連絡。この日は土曜日であり、中村弁護人はゴルフに行っており留守であった。 二、 夕方、弁護士事務所で打ち合わせをする。  このまま放置しておくと、送達の翌日から三日たてば、上告棄却の決定が確定するという。   時間稼ぎをする為に、直ちに異議申立の手続を弁護人に依頼。中村弁護人は、この日の夜半に異議申立書を作成し、翌21日、速達書留郵便で最高裁判所に送付した。  この異議の申立は、発信主義ではなく、到達主義によるものであり、翌日から3日以内、即ち、平成15年9月23日までに最高裁に到達する必要があったことから、急いでいたのである。 三、 私が時間稼ぎをする必要を感じたのには、訳がある。   主任弁護人から、上告審にかかっている別件の事件は、いずれも懲役刑になるようなものではなく、仮に有罪であったとしても罰金刑どまりであろうとの見通しを聞かされていた。この場合、私の公認会計士の資格の継続に何の支障も生じない。  その上、最高裁でどのような決定がなされるにせよ、あと一年位先のことであろうとの見通しであった、  現に、上告棄却の決定書が特別送達される前日の9月19日に、刑法学界の人達800人程に、裁判の支援をもとめる為に、私の事件の概要と上告審での問題点とをまとめた小冊子を中村弁護士名で送付したばかりであった。  上告棄却(懲役1年6ヶ月執行猶予3年)という内容と、思いがけなく早く来たことにショックを受け、あわてたのは事実である。  それなりの心がまえと準備はしていたものの、3日間では足りなかったのである。 四、 9月21日は日曜日であった。  私は、事務所の存続を確実なものにするために、上告棄却の確定を延ばし、公認会計士の称号が使える間に、取り急ぎ関係者にしかるべきあいさつ文を送付し、上告棄却が確定した段階で再度、案内文を送付することにした。この日、あいさつ文の原案を作成し、9月22日の月曜日を待った。 五、 9月22日、かねてから業務提携の話し合いを進めていた東京のK公認会計士に連絡。  翌9月23日は秋分の日であり休日ではあったが、緊急事態であり、K会計士は松江に来ることになった。 六、 9月23日、昼の12時5分、K会計士を米子空港に迎えに行き、事務所で業務提携について具体的に話し合った。  最高裁の上告棄却が確定すれば、私の公認会計士と税理士の称号が使えなくなり、とくに税務申告書に税理士として署名することができなくなるからである。 七、 K会計士との業務提携を盛り込んだあいさつ文の原案をK氏に示し、了解を得た上で、翌9月24日、800余りの関係先に送付。公認会計士の称号を付した文書としては、最後のものとなった。 八、 9月20日の上告棄却書送達日から、4日間連絡のとれなかった、東京在住の長男純とコンタクトができたのは、飛び石連休明けの9月24日のことであった。北アルプスの山の中を歩いていたようで、長男の声を電話口で確認したとき、ホッと一息ついた思いであった。  緊急の事態についての対応策を協議するため、長男が松江に帰ってきたのは9月25日であった。 九、 二人で、時に次男の学を交えて三人で、会計事務所の今後の方策について話し合い、具体的な詰めの協議を行なった。  5日間で、三人の協議は完了し、私の腹は固まった。 一〇、平成15年10月4日、上告棄却の決定書が届いてから、ちょうど2週間後の土曜日に、最高裁判所から、9月21日に行なった異議申立を棄却する決定書が特別送達されてきた。午前11時のことであった。  この瞬間、私に下された懲役1年6ヶ月、執行猶予3年の刑が確定することになった。  私の身分は、被告人から前科者へと移行した。同時に、公認会計士の肩書が使えなくなり、財団法人、社会福祉法人、医療法人等の役員資格が喪失した。 一一、平成15年10月6日、かねて用意していた二番目のあいさつ文を関係者に送付した。一番目の文書とは異なり、私の肩書から公認会計士の称号は外されていた。『公認会計士 山根治』の名刺を破棄し、新たに『株式会社山根総合事務所 代表取締役 山根治』の名刺を作成した。 一二、平成15年10月29日、私は、公認会計士抹消登録の手続きを日本公認会計士協会に対して、行なった。  電話による協会職員中原氏との話し合いの中で、私は驚くべきことを聴くことになった。  3年の執行猶予期間が終ったら、直ちに再登録できるというのである。本当なのか、私は一瞬わが耳を疑った。 一三、実は、このときまで、刑が確定した後、8年間は、再登録できないものと思い込んでいたのである。3年の執行猶予期間が終ってから、更に5年間は駄目だ、――私の2人の弁護人からこのように聞いていたからだ。 一四、私は納得することができなかったので、協会の中原氏に対して、「執行猶予期間が終ったら直ちに再登録できる」旨の根拠について尋ねたところ、10月27日、早速、同氏からファックスが送られてきた。公認会計士法についての逐条解説書の一部であった。  しかも、中原氏の話では、禁錮以上の刑に処せられ、登録を抹消された者でも、執行猶予期間付のものについては全て、執行猶予期間が終了したら直ちに再登録に応じているとのことであった。 一五、公認会計士法第14条は、欠格事由を定め、「禁錮以上の刑に処せられたものであって、その執行を終り、またはその執行を受けることがなくなってから三年を経過しないもの」は、公認会計士になることはできないと規定している。  当初、弁護人から、「執行を受けることがなくなる」とは、猶予刑の場合、執行猶予期間が終了することを意味し、それから5年間(私の場合は、別件の中に一部税法関連の部分が含まれていたので、通常の3年に較べて2年長いとされた)は、公認会計士の登録ができないと教えられ、8年間のブランクを覚悟していたのである。 一六、しかし、公認会計士協会によれば、8年ではなく、3年で復帰できるという。何故か。  送られてきたコンメンタールの一部を読んで、私なりに理解することができた。 『執行を受けることがなくなるとは、仮出獄の後、仮出獄の処分を取り消されることなしに残余の刑期をおえること等である。ただ、刑の執行を猶予された場合は、執行猶予期間中は「執行を終り、又は執行を受けることがなく(会計士法4条2号)」なった者でないから当然欠格事由に該当するが、執行猶予期間を無事に経過すれば刑法27条の規定により刑の言い渡しがなかったと同様に取り扱われることから、その後3年の経過を待つまでもなく、ただちに欠格事由は消滅するものと解される。』    このコンメンタールが正しいものとすれば、「執行を受けることがなくなる」とは、「執行猶予期間が終了する」と同義だとした私の弁護人の解釈と齟齬をきたすことになる。  私は早速、中村主任弁護人に問い合わせることにした。 一七、中村弁護人は、次のように回答した。 「法文上、形式的には、以前回答したことに誤りはない。現に、商法254条の2の4には、取締役の欠格事由としては、『禁錮以上の刑に処せられその執行を終了する迄、又は其の執行を受くる事なきに至る迄の者。但し、刑の執行猶予中の者は此の限に在らず』と規定されており、『その執行を受くることなきに至る迄の者』から、執行猶予中の者をわざわざ除外している。  ただ、法文解釈上、公認会計士協会が提示したコンメンタールのような扱いになっているようである、として、刑法27条のコンメンタールの写しを示した、―― 『近時の立法では、執行猶予中の者を、ひろく「禁錮以上の刑に処せられ・・・・その執行を受けることがなくなるまでの者」に含めて猶予期間中資格制限をうける旨を明文により定める例が多いが、中には、司法書士法3条1項のごとく、「禁こ以上の刑に処せられ、その執行を終り、又は執行を受けることがなくなってから二年を経過しない者」と欠格事由を規定するものもある。この規定を法的に解釈すれば、執行猶予期間経過後2年間は、いぜんとして禁錮以上の刑に処せられた事実に基づく不利益な資格制限が継続することとなる。しかし、他の法律、とくに弁護士法、公証人法等、より重要な職域についての資格要件を定めた法律の規定との対比上、司法書士法において、執行猶予期間を経過した者に対していぜんとして資格制限を存置することは、他との権衡を失し合理性に乏しいばかりでなく、執行猶予制度の本旨に反するものがあるから、むしろ解釈としては、執行猶予期間の経過によって刑の言渡が効力を失った結果、その者はその時以降もはや、禁錮以上の刑に処せられ、その刑の執行を受けることがなくなるまでの者には該当しなくなり、直ちに資格を回復するものと解すべきである』 一八、その後私は、税理士法における欠格事由について改めて調べたところ、執行猶予付の刑について、大蔵省通達が出されていることが判明した。 (刑の執行を受けることがなくなった日)  法第4条第4号から第6号までの「刑の執行を受けることがなくなった日」とは、次の各号に掲げる日をいうものとする。 (1) 時効の完成により刑の執行が免除された日(刑法第31条、第32条参照) (2) 外国において言い渡された刑の全部または一部の執行を受けたことによって、刑の執行の軽減または免除を受け、刑の執行を受けることがなくなった日(刑法第5条参照) (3) 恩赦法に規定する減刑により、刑の執行を軽減されることによって刑の執行を受けることがなくなった日(恩赦法第6条、第7条参照) (4) 恩赦法に規定する刑の執行の免除により、刑の執行を免除された日(恩赦法第8条参照) 2 次の各号に掲げる場合は、法第4条第4号から第6号までに規定する「刑に処せられた」場合に該当しないものとする。 (1) 刑の執行猶予の言渡を取り消されることなく猶予の期間を経過したとき。(刑法第27条参照) (2) 大赦または特赦により有罪の言渡の効力がなくなったとき。(恩赦法第3条、第5条参照) 一九、以上により、私の公認会計士及び税理士の資格は、欠格事由が発生したことによって、登録抹消されるものの、3年の執行猶予期間を無事過ぎることによって、欠格事由が消滅し、直ちに再登録できることが確認できた。 二〇、私は現在61才である。当初考えていたように8年後にしか再登録できないものとすれば、その時私は69才となり、正直言ってかなり気の重いことであった。  それが3年に短縮された。3分の1ほどの期間である。  私の60台半ばまでには資格が回復する――私にとってこれほど元気づけるものはなかった。 二一、かなりの人達に、8年という期間について告知してあったため、急ぎ訂正の連絡をすることにした。  まっ先に連絡したのは、東京にいる長男であった。気が抜けたような声を出しながらも非常に喜んでくれた。  25年来の友人で、家族同様のつきあいをしている元国会議員の岩本久人氏にも早速電話した。  電話口から、「よかった!」という大きな声が返ってきた。更に、氏は、言葉を次いで、「衆議院議員の任期は4年であるが、解散を加味すれば、平均の任期は3年だ。議員は落選した場合、次の選挙で当選する保証は全くない。その意味からすれば、3年たてば必ず会計士に復帰できるのであるから、こんなにメデタイことはない。」と政治家らしい祝福の言葉を送ってくれた。  岩本氏は、平成7年の参議院議員選挙に落選したことをバネにして、自ら理事長を勤める社会福祉法人みずうみの事業拡大と処遇の充実に全力を注ぎ、山陰の松江から社会福祉のパイオニアとして、日々の実践を通して、全国に向けて、情報の発信を行っている。幼児から老年者に至るまで、それぞれの人達の目線に立って、あるべき福祉の姿を地域社会と共に模索している事業家である。 二二、前科者という不名誉な肩書は、猶予期間が終ったら消滅する。  執行猶予刑の場合、刑の執行猶予の言渡を取り消されることなく、猶予の期間を経過したときには、刑の言渡が効力を失うものとされ(刑法第27条)、刑に処せられたことにはならないからだ。当然、前科者名簿の抹消が行われる。  3年経てば、経歴書にも賞罰欄に「無し」と記入することができるようになり、私の名誉は完全に回復される。 二.無謬神話の崩壊 一、 マルサと検察官については、その職務の執行は厳正になされ不正行為などあるはずがないという信仰に近いものが国民の中にあった。無謬神話と言ってもいいものだ。私も、このたびの体験をするまでは、当然のこととして疑問さえ抱いたことがなかった。 二、 仕事がら私は税務調査の現場で税務職員と接する機会が多かった。税務署から国税局に至るまで様々な人達との出会いがあった。出会った人数は延べ千人近くになるであろう。  納税者に厳しく応対しながらも、法に定められた節度を保ち、すぐれた調査能力を発揮する数多くの人達がいた。まさに税務調査のプロである。情報力と調査能力に関して、世界のトップレベルにあると評される日本の国税当局を支えているのは、調査のプロフェッショナルというべきこの人達である。私も監査のプロとして心からの敬意を表し、自然に頭が下がったものである。   三、 調査立会を通して、この人達から数多くのことを教わった。中でも国税局の資料調査課の人達からは、優れた調査技法を教わった。  私は、ミニマルサと称される料調(資料調査課)の調査立会はこれまでに7回経験している。東京国税局で2回、関東信越国税局で1回、大阪国税局で2回、広島国税局で2回の合計7回である。その全てが、従来の関与税理士が自らに責任がふりかかるのを恐れて逃げ出したケースであった。  料調の立会の中でも忘れることができないのは、二十年以上前に経験した大阪国税局に関するものである。  私の眼の前で展開された調査技法と見事な処理能力に驚いたことを今更ながら思い出す。この時も担当官と相当激しくやりあったのであるが、調査が終了した後も担当官との交流が続いており、お互いに年賀状だけは欠かさない。 四、 一方で、調査権限を振りまわして納税者を威圧し、税務調査の名のもとに理不尽な言動を繰り返し、納税者に不安と不快感を与え不当な納税を強いる人達も少なからず存在した。  この人達は概ね、税法をはじめとする法律の理解が皮相的かつ独断的であり、企業会計に対する理解も驚くほどおそまつなものであった。能力の欠如を、国家権力で補おうとでもするかのように、強引に納税者をねじふせようとする税務職員もまた数多くいたのである。 五、 国税局の料調も例外ではなかった。十数年前に立会をした関東信越国税局の資料調査課による調査は随分荒っぽいものであった。私が関与するまでに、数十人が押しかけてきて問答無用とばかりに、任意調査ではとうてい許されない取調べを行っていた。経理担当者の一人が、過労と心痛の余り、心臓発作を起して死亡したほどであった。  調査の中途から立会に関与した私は、東京九段下にある同国税局の担当国税統括官に面会を求め、違法調査に対して厳重抗議を行った。  死亡した経理担当者の白黒の写真を引き伸ばして額に入れ、黒リボンをかけて、経理責任者に持たせ、料調の部屋へ入り、担当統括官に面会したのである。   統括官は黒リボンの額を眼にするや、顔がひきつり、一言も発せずに、私達二人を料調の部屋から連れ出し地下の部屋へと導いた。  そこは、畳敷きの広い部屋で、いくつか木の座卓が置かれていた。  統括官は、経理責任者と私とを座卓に向って座らせ、私達を睨みつけた。マントヒヒのオスが敵を威嚇するように、顔を赤黒くさせ、顔のあちこちにタテヨコのシワをつくりあげて睨みつけた顔は、大見得を切る歌舞伎役者さながらの迫力であった。  次いで罵声が私達三人以外誰もいない地下の大広間に響き渡った。統括官は座卓に置かれていたアルミの灰皿を鷲掴みし、力一杯座卓に叩きつけた。バンバン叩きつけられた灰皿は本来の用をなさないほど変形してしまった。あの地下の大広間は今でも納税者と税理士を脅しあげる場所として使われているのであろうか。 六、 私はこのような虎の威を借りて威嚇し納税者をいじめる税務職員に出会うと、猛然とファイトが湧いてきたものだ。  もっとも納税者の中には、理屈に合わなくとも、税務調査が早く終るなら追徴金を払ったほうがよいと言う向きもあった。このような場合、代理人にすぎない私は、納税者本人の意向に反してまでは税務当局に立ち向ってはいかなかった。  しかし、大半の納税者は理不尽な税金の支払いをすることに抵抗があり、私は、その意向を確認したうえで、不法行為を繰り返し不当な税金の支払いを迫る税務職員には、キッチリと向き合うのを常とした。  一般納税者が税法と企業会計に無知であることに乗じて、不当な税金をふきかける人達に対しては、公僕としての公務員の立場を説き、税法と企業会計の基本をしっかりと教えることにしていたのである。 七、 国犯法による強制調査以外の任意調査に関しては、以上のように調査担当者のレベルはピンからキリまであって、納税者を脅しては、嘘を申し向けて騙してでも税金を取り立てようとする人達がかなり多くいたことは事実である。  しかし、脱税という犯罪行為を摘発するために、裁判所の捜索令状まで徴求して調査がなされる査察《マルサ》に関しては、納税者を騙したり、事実の捏造をしてまで摘発することなどありえないことと考えていた。  国税当局がマルサ案件の有罪率が100%であるとPRパンフレットで豪語しているのを単純に信じていたことに加え、査察官は国税職員の中でも選び抜かれたエリートであり、『国税査察官服務規程』を遵守する人格識見共に秀でた人達であると信じて疑わなかったからだ。  更に、検察と裁判所という二つのフィルターが用意されており、ことマルサ事案に関する限り、間違いなどありえないと考えていたのである。 八、 しかし、現実は、そうではなかった。私に関する事案と東京国税局のマルサが摘発したハニックス工業の事案は、国税当局が通常の任意調査の現場で頻繁に繰り返している不法行為が、マルサという強制調査の現場でも実際になされていることを如実に示すものだ。  マルサの無謬神話は見事に崩壊したのである。   九、 検察官は、税務当局の一部であるマルサと異なり、私には全く縁のない存在であった。私自身が逮捕されたり、当事者として取調べを受けることなど考えてもみなかったのである。  検察官は法曹三者の一角を占め、難関の司法試験をパスしてきた一握りのエリート中のエリートであると考えていた。  時の権力者に対しても臆するところなく敢然と立ち向っていく検察官にはひそかに拍手さえ送っていたほどだ。検察官は、自らを必要以上に律し、常に襟を正している人格高邁な人達であると信じ込んでいた。このような人達が自ら堂々と犯罪行為をするなど考えてもみなかったのである。 一〇、しかし、マルサと同様、検察官もそうではなかった。マルサの無謬神話と同様に、検察官の無謬神話も崩れ去ったのである。  しかも問題なのは、マルサも検察官も個人プレー的非行ではなく、それぞれが組織として敢行した非行であったことだ。私を直接取調べた藤原孝行査察官も、中島行博検事も個人的に見れば決しておかしな人物ではない。それどころか、二人共、プロフェッショナルとして敬意を表することができるほどの技量を持ち合わせていたし、人格的にも尊敬できるものがあった。違った出会いであったなら、間違いなく無二の友となりえた人達であった。  優秀な個人を犯罪行為にまで巻き込んでしまう官僚組織とは一体何であろうか。 三.前科者としての元公認会計士 一、 有罪が確定した別件については、今でも裁判所の判断が間違っており、冤罪であると確信している。しかし、懲役1年6ヶ月、執行猶予3年の刑が確定したのは厳然たる事実である。  執行猶予が解ける3年後の平成18年10月4日までは、私は前科者であり、公認会計士と税理士の登録ができない。従って、私の現在の肩書を敢えて付すとすれば、前科者であり、元公認会計士である。 二、 朝風呂に入って、歯磨きをしながら漱石の「草枕」を気取ってみた。 「前科が付いて考えた。これから資格は使えない。三年間は使えない。仕事はどうにか回ってる。身体も当分いけそうだ。世の中なんとかなるだろう。」 三、 十年間、私の50代の大半は蛇に睨まれた蛙であった。思い通りの行動が制約され、暗闇からマルサと検察の魔の手が私を繰った。  私は魔の手に翻弄されながらも、ひたすら潰されないことだけを念じて生き延びてきた。  その結果、この10年で私は多くのものを失った。最後に失ったものは、公認会計士という資格であり、失った中でも最大のものであった。  反面、得たものも多くあった。その最大のものは、最悪の状況にあった私を見捨てることなく、しっかりと支えて下さった多くの人達の善意と信頼であり、それがしっかりと再確認できたことであった。多くの人々によって私が生かされていることを実感することができたことは、最大の収穫であった。 四、 この10年をできるだけ客観的にふりかえることを念頭において執筆してきた本稿は、ほどなく終結する。  一日平均5時間、3ヶ月かかったこの作業は、私に予期せぬ副産物をもたらしたようである。  客観的といっても、私は当事者本人であるから、言葉の真の意味において客観的にはなりえない。しかし、できるだけ客観的に自らを見つめ直すことはできると考えて、膨大な資料を探索し、当時の状況を再構築し、文章に紡いできたのである。 五、 森鴎外の「寒山拾得」の中に、頭痛に悩まされている閭丘胤《りょきゅういん》という名の官吏の話がある。  一人の托鉢僧が、「四大の身を悩ます病は幻でございます。只清浄な水が此受糧器に一ぱいあれば宜しい。呪《まじなひ》で直して進ぜます。」と申し向けて、頭痛をなおしてしまう話だ。  以下、「寒山拾得」から引用する。三島由紀夫が名文として絶賛しているものである。――  閭は少女を呼んで、汲立の水を鉢に入れて来いと命じた。水が来た。僧はそれを受け取って、胸に捧げて、ぢっと閭を見詰めた。清浄な水でも好ければ、不潔な水でも好い、湯でも茶でも好いのである。不潔な水でなかったのは、閭がためには勿怪《もっけ》の幸であった。暫く見詰めてゐるうちに、閭は覚えず精神を僧の捧げてゐる水に集注した。  此時僧は托鉢の水を口に銜《ふく》んで、突然ふっと閭の頭に吹き懸けた。  閭はびっくりして、背中に冷汗がでた。  「お頭痛は」と僧が問うた。  「あ。癒りました。」実際閭はこれまで頭痛がする、頭痛がすると気にしてゐて、どうしても癒らせずにゐた頭痛を、坊主の水に気を取られて、取り逃がしてしまったのである。  僧は徐《しづ》かに鉢に残った水を床に傾けた。そして「そんならこれでお暇をいたします」と云うや否や、くるりと閭に背中を向けて、戸口の方へ歩き出した。 ―― 六、 閭丘胤の頭痛が、托鉢僧の吹きかけた水によって快癒したように、私の中にも思わぬ変化が起きていた。  執筆にかかるまでは、マルサと検察に対する恨みと憎しみの感情が私を大きく支配しており、抜きがたいものであった。彼らに対する憎悪の気持ちが、執筆をかりたてた要因の一つであることは確かである。  しかし、執筆を終えようとしている今、ふっと自らを顧みると、それらの感情がほとんど消滅していることに気がついた。完全に払拭されることはないであろうが、少なくとも気にならなくなったのである。  閭丘胤の頭痛が幻と共に消え去っていったように、私の中にあった憎悪の幻が消え去った。 七、 私の10年間を、恥部を含めて洗いざらい掃き出した結果、心の奥底にしっかりと根付いていたマルサと検察に対する恨みと憎しみの思いも、それにつれて排泄され、浄化されたようである。  私の中で精神のカタルシスが起ったのであろう。   八、 五年前の平成11年6月に、同年5月13日に言い渡しを受けた「本件無罪、別件有罪」の第一審判決に関して、私は、関係者800人余りに向けて文書を作成し、送付したことはすでに記述したところである。  その末尾に、私は、 「以上により、今回の判決に関して、私は一部不満が残るものの概ね満足すべきものと考えております。100%ではないものの、限りなく100%に近い勝利であったと考えています。」 と述べている。  『100%近い勝利』であると宣言したものの、正直言って、この時の私はかなり背伸びをしており、必ずしも真意ではなかった。マルサと検察に負けてはならないという気持から、100%近い勝利であったと自分自身に言いきかせていたのである。 九、 現時点で改めて自問自答を試みた。 「100%近い勝利であったか」  答えは否である。何故か。  勝利というからには、敗北があるはずだ。勝者があれば、必ず敗者がある。  マルサと検察官は敗北したのであろうか。彼らは敗者であろうか。  否である。彼らは敗北してはいないし、従って敗者でもない。それぞれの組織は何ら変ることなく存続し、犯罪行為を行なったマルサも検察官も何ごともなかったかのように口を噤んで日常業務を行なっている。  敗者が存在しない以上、勝者もありえない。私はマルサと検察官とに勝ったのではない。単に負けなかっただけであり、潰されなかっただけのことである。  マルサと検察官は敗北した訳でも、敗者という烙印を押された訳でもない。  自ら冤罪を創り上げるという犯罪行為を刑事法廷の場で露呈し、公表しただけのことだ。 一〇、「100%近い勝利であったか」という問い自体が、必ずしも適切な問いかけではないことが判明した以上、自問を次のように変えてみることにした。 「100%近い満足度であったか。」  答えは諾である。  現時点で言えば、100%の満足度、あるいは100%を超える満足度であると言えるかもしれない。  10年間の経験は苦汁に満ちたものであった半面、求めても得ることのできない貴重なものでもあった。その結果、精神のカタルシスを体感する幸運に恵まれた。その上に、更なる副産物が私にもたらされた。これについては項を改めて述べることとする。 一一、私は、マルサと検察官の非行を事実に即して記述した。その非行は、刑事法廷を中心とした公の場で、彼ら自身が公然と行なった行為である。私はできるだけの客観性を維持しながら、淡々と記述を進めた。  私の役割は、彼らの非行の事実を摘示するのにとどまり、それ以上には及ばない。刑事法廷に引きずり出して断罪する権限などないからだ。  仮に、そのような権限があったとしても、現在の私はしないであろうし、しようと思えばできる民事法廷での損害賠償請求もしないであろう。  この人達との関わりをこれ以上持ち続けることは、私にとってマイナス以外の何ものでもないからだ。  私は彼らの非行を許すとか許さないとか言うことはできない。私は聖職者でもなければ、まして神でも仏でもない。彼らの非行を宥恕する立場にないからである。私の任ではないのである。  非行であったか否かの判断を含めて、彼らが実行した犯罪行為は、彼ら自らの手で跡始末をしなければならない。  彼らは、非行を隠匿したままで他人を騙し通すことができたとしても、自らの心を騙し通すことはできない。精神のカタルシスは、自分自身でしかできないものであり、この浄化作業を経ない限り、彼らの心の奥底に、自らが行った非行の残渣がオリとなって残り続けることであろう。 [#改ページ] 第八章 展望 一.安全弁の構築と点検 一、 マルサと検察官の無謬神話は単なる幻想であった。考えてみれば、当然のことである。神ならぬ身で、完全無欠ということはそもそもありえない。誤ることがあるからこそ、人間であるともいえよう。 二、 マルサも検察官も、共に国民に対する生殺与奪の権限を有する暴力装置であるだけに、権限の行使に誤りがあってはならない。建前としては当然のことである。  しかし、これら暴力装置はこの建前にこだわる余り、現実に誤りが発生しても軌道修正をすることなく、対内的及び対外的にその誤りを隠蔽し、糊塗することを敢えて行なった。  私の場合、まずマルサのガサ入れがなされた時点で、強制調査の着手が誤りであったことに、マルサの人達は気づいていたはずである。私が多くの反証を提示していたからだ。少なくとも私を直接尋問した藤原孝行査察官は十分に分っていた。  国犯法の告発は、強制調査の着手後、半年か長くとも一年以内にはなされるのが通常である。  それが、私の場合、2年4ヶ月もの間告発されることがなかった。国税内部で異論があったであろうし、検察との事前折衝においても告発に関して検察内部で慎重論があったのであろう。 三、 着手から一年10ヶ月が経過した平成7年7月頃から、マルサが告発に向けて再び動き出した気配がある。ガサ入れ時に、大木洋と共に陣頭指揮をした松田憲磨(統括国税査察官)が、防府税務署長から告発の決裁権限を持っている本局の査察管理課長に転任しているからである。  私の意を受けて、国税庁長官に対する抗議書を国税庁査察課長の石井道遠に面談の上で手交し、その後も後任の国税庁長官に抗議しつづけた岩本久人参議院議員が、同年6月の国政選挙で落選し、国会議員の肩書が外れた時期であり、同時に、税務時効が10ヶ月先に迫っていた時期でもあった。国税庁と広島国税局の内部で、一体どのような話し合いが行われたのであろうか。知りたいものである。 四、 その後、松江地検は、事前に私から事情聴取をすることなく、いきなり逮捕するに至った。  公正証書原本不実記載罪という別件での逮捕であったが、中島行博検事の取調べは、もっぱら本件であるマルサ事案に集中した。  中島検事は取調べのかなり早い段階で、私が嘘を言っていないことを確認し、検察当局が誤った捜査をしていることに気づいていた。すでに累々記述したところである。  この段階で検察は引き返すことができたはずだ。しかし、いったん動き出した組織の歯車は、中断することなく回り続け、数多くの証拠を捏造してまで立件に踏み切り、私を断罪した。  捜査取調べにあたった12人の検察官のうちの何人かは、冤罪であることを十分に知っていた。少なくとも40日間にわたって私を直接取り調べた中島検事は、私の無実を信じていたと言ってよい。   五、 裁判が始まってからも、検察は、何回か引き返すことができたはずである。法廷におけるほとんどの証言が、検察官の作成した偽りのストーリーに反するものだったからだ。 六、 平成11年6月22日、私のもとに一通の書状が届いた。畏友H.Y氏からであった。私が第一審の結果を受けて発信した文書に対する返信である。  H.Y氏は、東京大学経済学部出身の、同世代かつ同郷の友人である。同氏の手紙から引用する。 「二〇数億円、三〇〇日、とても信じられないような訴訟事件に巻き込まれ、どれほどご苦労をされたか、私には想像もつきません。ただ、私は通産省にいましたが、私は官僚組織を信用していない人間の一人でしたから、山根さんの言っておられることをかなり想像できます。官僚という人間は組織の中に隠れて組織や国家の名において仕事をする(良いこともやらなくてもよいことも)、そして間違ってもそれを決して認めない、間違っても決して個人は損も傷つきもしない、従って、いつでも強行派が組織の主流派になる。これは日本の明治以来の官僚の本質であり、戦前の軍部官僚、戦後の経済官僚、最近の大蔵・建設官僚もみな同じです。通産省は比較的良い方でしたが、技術系の私からみると、どうして、もっと率直に議論して問題を解決しないのかと、トップに近くなればなるほど、最近の政治行政の裏が見えて、それに対する反発が強くなっていました。大蔵・建設・郵政・農林・厚生・文部などの官僚とは仕事の上で何度も角をつき合わせましたが、いつも、どうしようもないなと感じていました。検察・国税とはつき合いがありませんでしたが、推してしるべしです。」 七、 長年、キャリア官僚として、官僚組織の内部にいたH.Y氏の言葉は、ずっしりと重く迫るものだ。 『官僚という人間は組織の中に隠れて組織や国家の名において仕事をする(良いこともやらなくてもよいことも)、そして間違ってもそれを決して認めない、間違っても決して個人は損も傷つきもしない。』  困ったことである、民間ではおよそ考えられないことである。  行政改革が叫ばれてからすでに久しいが、百年河清を待つに等しい。表面的な機構いじりに終止している改革は、真の改革にはなりえない。官僚の意識改革にまでふみこんだ抜本的な改革を本腰入れて取り組むべき時が来ているようである。 八、 中でも、国民の生命・財産に対して、法の名のもとに直接介入できる暴力装置としての機関については、その見直しは焦眉の急であろう。  警察と並んで国税当局は、暴力装置の最たるものであり、検察はその頂点に位置する。  これらが暴走をはじめたら、国民としてはたまったものではない。暴走を未然に防ぐことが必要であると同時に、仮に誤って暴走が始まった場合でも可及的速やかにブレーキがかかるようにしておかなければならない。改めて言うまでもないことである。  私の場合、暴走が始まったものの、それぞれの組織としては、何度となく踏みとどまってブレーキをかけ中断する機会があった。  しかし、一度もブレーキがかけられることはなかった。暴走をストップさせる安全装置が欠如していたのである。あるいは建前としての安全装置はあったかもしれないが、現実には機能することはなかった。綱紀が緩み、明らかな制度疲労が起きていたのである。 九、 国民にとっては迷惑この上ないことである。  暴力装置の安全弁を常にチェックし、ブレーキが適正に機能するようになっていなければならない。ブレーキ装置を常に点検し、壊れた部分があれば補修し、磨耗した部品を取り換え、錆びついた垢を取り除く必要がある。  暴力装置の安全弁は、それぞれの組織の内部に必要であると同時に、組織を離れた外部にも必要である。  国民による監視機構は、現在でも形式的には存在するものの、有名無実の存在となっている。実効性のあるチェック機構を早急に再構築すべきであろう。  強大な権限と権力を有するものは、それに相応する責任を負うべきことは当然のことであり、権限を逸脱して不法に権力が行使されたり、強大な権限をカサに犯罪行為がなされたような場合には、直ちにその実行行為者が排斥され、しかるべき責任が問われるようになっていなければならない。 一〇、誤りに気づいても軌道修正することなく押し進め、私の場合のように意図して冤罪を創り出すことに再び検察当局が手を染めるならば、税吏をみつぎとりとし、銀行員を高利貸として蔑視した作家山本夏彦の言葉を引きついで、検察官を岡っ引きとして蔑視せざるをえないことになろう。 二.公認会計士からの脱却 (1)認知会計の発見 一、 私は前科者の烙印を押されたため、執行猶予期間の3年が過ぎるまでは、公認会計士の再登録ができない。これは再三述べたところである。  この3年の間をいかにして過ごすか、考えを廻らせた。徒過するには私は余りに貧乏性だ。何かをしなければならない。 二、 本稿の執筆が終りにさしかかった頃、突然一つの考えがひらめいた。  公認会計士のことをCPA、サーティファイド・パブリック・アカウンタントというが、現在の私は、サーティファイドが外れたパブリック・アカウンタントである。公認会計士ではなくなったものの、依然として会計士であることに変りはない。  パブリック・アカウンタントとして何をなすべきか考え続けていくうちに、一つのアイデアが浮んできたのである。 三、 この10年間、私は経済的にも、精神的にも破綻することなくなんとか乗り切ることができた。  経済的に特別に豊かであった訳でもなければ、精神的にも私に特別なものが備わっていた訳でもなかった。ごく普通の人間でしかない私が、ある意味で苦難の10年をクリアできた理由について思いをめぐらせた。その結果、次のように考えるに至った。  その時々の状況を把握しながら、流れにゆだねたのがよかったのではないか。逆説的に言えば、がむしゃらな努力をしなかったことがよかったのではないか。状況の変化に応じて、臨機応変に私自身を順応させていったことがよかったのではないか。これはまさに認知療法の基本ではないか。  私は、昨今うつ病の治療と予防に著効があるとして注目されている認知療法を、無意識のうちに自ら実践しているのに気がついた。  しかも私の場合、通常の認知療法のワクを超えて、経済の領域にまでふみ込んでいた。精神面だけでなく、経済面でも認知療法の手法を用いていたことに気がついたのである。 四、 30年以上も会計士稼業を続けるうちに、私は数多くの会社の経営分析をし、企業診断を行なってきた。その都度、何か空しいものを感じていたというのが偽らざるところである。  考えてみると、世にいう経営分析とか企業診断というのは、主に、融資をする金融機関のためであったり、あるいは、投資をする投資家のために考えられたものであって、実際の企業経営には一つの参考にはなるであろうが、さほど有益なものではない。  結果的に過去の良否をあげつらうだけで、小田原評定の域を出るものではない。経営分析の諸指標は、融資とか投資の際の指標としては有効でありえても、必ずしも実際の企業経営に役立つものではない。企業経営にあって大切なのは、現時点であり、これからのことである。従来の財務諸表分析は、企業の過ぎ去った姿の一側面を評価するにすぎないもので、日本の企業の大半を占める中小企業経営者にはさほど有用なものではないはずである。  疑問を感じながらも、惰性に流されて今日に至った。他にかわる方法を思いつくことができなかったからである。 五、 この10年、山根会計事務所は常に明日の見込を明確に立てることができない状態であった。事態がどのように展開するのか、予測できなかったからだ。とりわけ私が逮捕され刑事被告人となってからは、事務所がいつ崩壊しても不思議ではなかったからである。  私には過去のデータは一切関係ないものとして考えるほかなく、信頼できる確かなものは、現在のデータのみであった。  現在のデータは日一日と更新され、その延長として将来があるという図式であった。私は、それに従って現状の把握を行い、将来を見すえることを余儀なくされた。  換言すれば、ストックを単にストックとして常に把握していく手法であり、通常の企業会計のようにフローの結果としてストックを把握する手法ではなかった。  私は常にプラスの財産のみならず、マイナスの財産についても、ストックを表面化するために棚卸しを行なった。棚卸しは、計数的に測定可能なものにとどまらず、それ以外にも拡大し、私の内面にも及んだ。  いわば、心の棚卸しをもしていたのである。この心の棚卸しこそ、認知療法の基本であり、出発点であることに気がついたのは最近である。  常に自らを客観的に見つめる、しかも単に頭で考えているだけでなく、紙の上に書き出す(棚卸し)ことによって、事務所を含めた私が潰れることなく無事に過ごすことができたと信ずるに至ったのである。  私は、個人をとりまく全ての情報を書き出して棚卸し、それを分析の出発点とする手法を「認知会計」=コグニッティヴ・アカウンティングと名付けた。  この手法は、決して難しいものではない。私以外の誰でも応用できるものである。  認知会計をどのようにシステムとして構築していくか、私の楽しみの思索が始まっている。  (2)心のルーツへの旅 一、 二十年程前のことであろうか、私が40才前半の頃である。  東京で一人の僧侶と出会った。剃髪染衣のその人は、私より幾分年長で、慶応大学出身であった。  私達は、一夕、卓を囲み、盃を傾けて親しく語り合った。尋常ではない輝きを湛えた双眸は、私を柔らかくつつみ込み、全身から発せられるオーラは、私の肌を粟立たせ、頭髪を逆立させた。 二、 僧侶は一つの書籍を私に勧めて去っていった。文字通りの一期一会であり、その後再び会うことはなかった。  一週間後、松江の自宅に2つのダンボール箱が届いた。僧侶の指示によって版元が送達したものである。  中には、「先代旧事本紀大成経」72巻が入っていた。宮東斎臣氏の解説になるもので、活版印刷ではなく、原稿をそのままコピーして製本したものであった。  私はまず量の多さに仰天し、ついで手作りの書籍であることに二度仰天した。110万円という価額を了解して購入しており、ある程度の量は想定していたが、まさかこれほどとは思っていなかったのである。 三、 私は早速解読にとりかかった。祈りを使命としていた人物が、全身全霊を傾けて勧めてくれた本である。何が記されているのか、どうしても知りたくなった。  全体の解説を読み、序の巻から読み始めたところ、当時の私には全く歯の立たない難解なものと分かり、序の巻の中途で解読を断念せざるを得なくなった。  それから十年程この書物は、私にとって、猫に小判の存在として、部屋の片隅にうず高く積み上げられ放置されていた。 四、 平成8年1月に逮捕され、291日間の勾留生活を送るなかで、万葉集をはじめ日本の古代の主な文献に親しく接したことはすでに述べた。  その時、古事記、日本書紀、懐風藻、風土記、日本霊異記等を全て原文でじっくり読み込んだおかげで、一人の僧侶からのメッセージとも言うべき、「先代旧事本紀大成経」72巻本がさほど抵抗なく読めるようになった。  猫に小判であった「先代旧事本紀大成経」が、いわば鰹節になったのである。  二ヶ月程かけて主要な巻を読み了え、一つの結論に達した。  旧事本紀72巻本は、巷間言われるように、偽書として直ちに排斥されるべきものではなく、成立年代はさておき、一定の価値を持った歴史的な書物であるということである。  たしかに、平安時代以降に書き加えられたと思われる部分が数多くあり、聖徳太子の作とするには無理があるようだ。しかし、記紀にない所伝が多々存在することもまた確かであり、更に日本神道の一つの立場が詳しく説かれており、捨てがたいのである。 五、 その後私は、白河家三十巻本旧事紀に進んだ。三重貞亮氏の訓解になるもので、松下松平氏の解題が付されているものだ。朴炳植先生から寄贈されたものである。  更に、最近になって、先代旧事本紀十巻本が、大野七三氏によって校訂編集され、訓註本として刊行された。  最近の私は、この十巻本が先代旧事本紀のコアの部分ではないかと思うに至っている。 六、 旧事本紀が私に示唆するものは何か。20年前に発せられた、祈りの人からのメッセージは何であったのか。  記紀で捨象もしくは改竄されたと思われる饒速日尊《ニギハヤヒノミコト》が、わが出雲族と重要なかかわりを持っているのではないか。  出雲国風土記に多くの足跡を残し、今なお出雲地方を中心に、全国各地で伝承されている出雲族と出雲の神々を解明する手がかりになるのではないか。  出雲族とその神々は私の心のルーツであり、その一端が旧事本紀の行間から垣間見えてくるのではないか。歴史の彼方に消し去られた古代出雲の人達の声なき声が聴こえてくるのではないか。あるいはまた、出雲の神々の姿が、斬新な形で現われてくるのではないか。  わが心のルーツヘの旅が、新たに始まった。62才からの出発である。        (完) [#改ページ] 第九章 参考資料 一.参考資料1 第三申述書(平成6年2月) *マルサに対して重要な証拠の開示を求めてに提出した申述書 第三申述書 広島国税局 収税官吏 藤原孝行殿  平成2年9月6日、佐原良夫は、突然組合を訪れ、福山、増田、岡島の3名と会っております。この時の来訪の趣旨について、私は佐原から直接聞いてはおりませんが、同年9月終わり頃、吉川春樹から電話連絡があった際に、吉川から佐原が益田に行き、内緒でテープレコーダーをとっていたことを聞いていました。その記録を文書に起こして、私を業務上横領で告訴する際の、資料にするのが目的だったと思われます。佐原が組合に問い質したことは、平成2年4月10日の不動産売買契約が16億5000万円でなされたものであることの再確認と、売買予約契約書が組合と山根との間で結ばれた真正なものであるかどうかを確認し、当面佐原の手元に残留した4億円以外のお金の流れを探るのが目的だったようであります。  9月6日、佐原が組合から帰ってすぐに、増田氏から私に電話連絡がありました。増田氏は、佐原はまったく知らないはずの私と組合との間の売買予約契約書のコピーを佐原が持ってきたことで驚いた、組合にとって、あまりいいような話ではない感じがしたので、具体的なことは積極的に話をしなかった、と言っておりました。  平成5年9月28日の臨検捜査以降、組合の人たちに集まってもらい、9月6日佐原が何をしにきたのか、佐原が何を言ったのか、思い出せることがあれば、思い出してほしい旨お願いしましたが、3人ともはっきりとした記憶はないようでありました。ただ4月10日の契約について確かめにきたことだけは三人共記憶していました。  『16億5000万円の契約は本当の契約ですよねと佐原が言ったから、それは当たり前のことだと自分は思った』と岡島信太郎氏は私に語ってくれました。更に岡島氏は、佐原が契約の確認をしたのに続いて、佐原はお金のことに触れ、16億5000万で売ったのであるが、金がみな自分の所に入っていないというような言い方を佐原がしていたと語っています。ただ、組合にとって、あまり良い話ではなかったような気がする、と3人とも話してくれました。  さらに、岡島氏に対して、いい話じゃなかったと考え不安に思ったのはなぜですか、とお聞きしたところ、岡島氏は、山根は6年間12億円余りを佐原から預かってその一部を組合に融資しているわけであるが、あるいは佐原がその10億円をすぐに返せというのではないかということが不安だった、とその会合で述べております。   不安に思った原因の第2は、その時の話のなかでは出ませんでしたが、私の増田氏からの電話内容に関する記憶によれば、佐原が知らないはずの売買予約契約書のコピーを持ってきたことに、起因するようです。  この売買予約契約書に関しては、私は事前に組合に対して、他の人には見せないで下さい、と要請していた事実があるからであります。私がそのように申し述べた趣旨は、この物件が千葉県の買い戻し条件が付けられたきわめて特殊な物件であり、陸中物産と組合との売買の事実およびその後の売買予約等が、明白な形で世間に出た場合に、千葉県当局としても、一定の行動を取らざるをえないことになるので、できるだけ表に出してもらいたくなかったからであります。佐原に対しても、この契約自身、できるだけ内密にするように申し渡していたのも、同じ趣旨からであります。  したがって組合としては、このような話が前提となっていたために、私と組合以外知るはずのない売買予約契約書の写しが、売り主である佐原良夫の手に渡っていたために、不安に思ったのでないでしょうか。  私は佐原とのトラブルがあった後に、直ちに、中村弁護士とともにお詫びを兼ねて、事情説明に組合に伺ったのでありますが(平成2年8月10日)、その時には、佐原とのトラブルの内容については一切話しておらず、恐喝を受けている事実も話していなかったのであります。当然、売買予約契約書の写しを佐々木に弁護士を通じて渡したとも話していませんでした。ただ、トラブルが発生したことは話していましたので、その人物が、私を介することなく直接、しかも予告もなく突然現われたことも、組合の人に不安を与えた要因であろうと思われます。  この平成2年9月6日の佐原による組合来訪の事情について、この度の強制調査の際に、福山、増田、岡島の3氏は、それぞれ担当官から詳しく問い質されたようであります。後に私に話したと同じようなことを国税局担当官に申し述べたそうでありますが、その際、あまりいい話じゃなかった、と言った言葉をとらえ、担当官はそれは平成2年4月10日の契約が、本当は売買契約じゃなくて、譲渡担保による貸し付けだということを、佐原が言いに来たからじゃないか、としつこく問い質したそうであります。  これはまさに、誘導尋問そのものでありまして、このことについては、平成5年9月29日、松江税務署において、私は大木、藤原、新本の3名に対して、強く抗議をしたところであります。私の抗議を受けて、9月28日の質問顛末書について、9月29日訂正がなされた由でありますが、その際にも、岡島、増田両氏が、申述したそのままのことが、質問顛末書には書かれていないようであります。それは、担当官が譲渡担保という言葉をしきりに持ち出したために、岡島氏が申し述べたことのようですが、自分が譲渡担保とか、貸し付けであるとかについて初めて耳にしたのは、最近のことであって、それはこの夏に広島国税局資料調査課の調査があった際に、国税局の篠原年氏が盛んに言っていたので記憶に残っている、と担当官に申し述べたにもかかわらず、質問顛末書には記載されなかったということであります。後日、岡島氏から私が聞いたところであります。  平成2年9月28日および29日、30日、31日の益田の組合の組合員に対する質問顛末書をお調べいただきたく思います。この例が示すように、質問顛末書なる代物は、藤原孝行氏、あなたが臨検捜査の当日、私に申し述べた建前とはまったく違うものであります。あなたが私に「この質問顛末書は、嫌疑者が言ったとおりのことを記載するので、極端に言ったら、方言を使っているなら、その方言までその通りに記載しなければならないものだ。こちらの筋書きにそって、誘導尋問するようなことはありえないことだ。」と、言っているのに対し、現実には、国税当局が勝手に創り上げた筋書きに沿って、有無を言わさず、書かせていると言われても仕方のないものであります。  岡島氏が、9月28日から29日に、国税局の担当官に対して、「譲渡担保とか貸し付けということを聞いたのは、ごく最近のことで、組合としては何のことかよくわからない。あくまでも、あれは買い取ったものであって、貸し付けなどではない」と岡島氏が述べているところは、真相を解明するうえで、きわめて重要なポイントであるにもかかわらず、国税当局にとって都合が悪かったのでしょうか、あえて、質問顛末書に記載していなかったのは先に述べたところです。私が厳重に抗議をしたために、しぶしぶながら、後から質問顛末書に付け加えたようであります。  したがって、強圧的な雰囲気のもとで、作成され、署名するに至ったいくつかの質問顛末書は、必ずしも、任意に作成されたものと言いがたく、真相を解明するうえできわめて重要なポイントが故意に削除されていたり、事実が歪曲されているおそれがあります。  9月6日の話し合いの内容について、私自らの記憶および組合員の記憶内容は以上でありますが、いま1人の当事者である佐原側の記録について、先に申し述べましたように、その時の会話内容が録音テープで保存されており、書面に書き起こしたものがあるという事実を以前から私は知っておりましたが、今回の佐原側の家宅捜索によって押収している事実も、藤原氏、あなたより確認したところであります。  当初あなたは、この強制調査はあくまでも真相の解明が第一であるから、お互いに協力しあって、解明するのに尽力してほしい、と私に申しむけた経緯がありますが、私の方の資料は国税当局が不要なものを含めて、洗いざらい持っていっており、すべて出し尽くしているわけで、そのうえに、私は、すべての仕事を投げうって迅速な調査が進展するように協力し、あなたと約束をした申述書の作成を現実に実行しているところであります。  私は真相を明確にするためには、当局が押収した佐原の録音テープおよびその書き起こした現物が必要であるので、見せていただくように要請したところ、あなたは当初、押収したものはあるにはあるが、何かよくわからないことが書いてあるだけだ、と言っていたのに対し、次には話が微妙に変わり、書き起こしたものは膨大な量なので、すぐには持ってこれない、と言うに至り、それでも私が要求したところ、年が明けた1月に私と会う時に持ってきて、コピーはできないが、見せることはしよう、と約束してくれたのであります。  しかるに、平成6年に至り、先日改めてその要請をしたところ、新本修司氏との話ではありましたが、国税当局が必要と認めた場合には見せてもいい、というふうに変わってまいりました。平成6年1月17日午後1時すぎ、私は大木洋氏に、このことついて質し、私も協力しているのだから、ぜひ見せてくれるようにと申しむけたところ、こちらが押収した物件で、脱税嫌疑者に見せなければいけないものではないし、見せる必要はないものだ、というふうに変わってまいりました。あなた方が勝手に創り上げたシナリオが崩れるために、あえて隠匿しようというのでしょうか。  私は、私に着せられた脱税と言う嫌疑をふりはらうために、無実の証明をしようとしているわけで、この9月6日の来訪の趣旨、その話の内容は、きわめて重要なものであります。  契約当事者が出会ったのは、平成2年4月10日と同年9月6日の2回だけであり、しかも、私を交えずに出会ったのは9月6日だけであります。したがって、佐原の来訪の趣旨、話の内容は、本件の私と組合にかけられたまったくの言いがかりとも言うべき濡れ衣を晴らす大きな証拠となるものであり、あなたが真相の解明が第一だと申しむけたことが、真実その通りであるとするならば、私の前にその内容を開示すべきであります。ここに改めて強く要求するものであります。  ただ、単に、これは私の脱税容疑を晴らすために必要であるばかりでなく、現在、佐原ほか2名に対して、告訴した恐喝事件ならびに佐原を告発した法人税法違反事件の捜査に際しても、重要な証拠となるものであります。仮に私に対して開示されない場合には、恐喝事件ならびに法人税法違反事件の捜査の際に、司法当局が開示を求めてくることになるでしょう。               以上        平成六年二月八日         松江市魚町六九番地 山根治 二.参考資料2 手紙(平成11年6月) *第1審判決後、800人程の人達に事情説明のために送付した手紙 冠省  逮捕されてから3年余りが経過いたしました。その間、私は、一部マスコミによって事実でないことが曲げて報道され、脱税を計画し、架空契約を納税者に指導して、巨額の脱税を実行した『悪徳会計士』、クライアントから脱税報酬として6億円もの金銭を受け取った『守銭奴』として、全国的に喧伝されてきました。また、23年前の開業当初より、私を目の敵にしている地元の某公認会計士によるタメにする私に対する中傷が執拗に流され、どれだけつらい思いをしたか量り知れません。  そのような中にあって、貴殿を始めとして親しくしていただいている方々に対して、私の苦しい胸の内をお話しし、真実を知っていただこうと考えたことが幾たびあったことでしょうか。  しかし私は、裁判の結果が出るまでは、私の発言は控えようと考え、言いたいこと、釈明したいことを敢えて我慢してきました。  第一審の判決が下された現在、私の側の真実を簡単にまとめ、今まで私を理解し支えて下さった方々にお伝えするのが私の債務であると考え、急ぎ取りまとめることにいたしました。  以下の「松江地裁の判決(平成11年5月13日付)について」は、このような背景のもとに作成されたものであり、ご一読下されば幸いでございます。  私は、この度の、ある意味では貴重ともいえる体験を生かして、私の天職である公認会計士及び税理士の職に、より一層邁進していこうと考えています。  マルサの洗礼を受けながらもそれをはね返して生き残った会計事務所は、全国的に他に例がありません。この経験をふまえて、特に国税当局の横暴かつ不当な仕打ちに苦しんでいる納税者、中でも年間全国で二百数十件あるといわれる査察《マルサ》に苦しめられている納税者とか、ミニマルサと称される年間二千数百件あるといわれる国税局資料調査課による調査(俗に料調といわれています)に悩んでいる納税者の良き相談相手になることができると自負しています。  尚、私が逮捕されてから、「山根会計事務所の顧問先が税務署に睨まれて、片っ端からいじめられる」という悪質なデマが、某公認会計士から地元にふれ回されました。  しかし、現在の私の事務所は300以上の顧問先を有していますが、関与先に関する税務調査の件数が私の逮捕以来、減りこそすれ、決して増えていないことに加え、税務当局の対応が今まで以上に非常に丁重になっており、税務当局と私の事務所との関係は、極めて紳士的な話し合いに終始しています。税務署が理不尽なことを言わなくなったというのが現状です。  私が開業以来二十数年一貫して、予告のない税務調査は断っていますし、仮に予告なしに突然押しかけてきた場合には、玄関先で帰ってもらうことにしています。何を調べているのか判らず、ただダラダラと長引く調査もお断りしています。税務職員の調査実績を上げるための過分な税金の追徴など、私の事務所の関与先に関する限りありえないことです。税務職員の増差競争(申告漏れとか不正をできるだけ多く見つけ出して、より多くの税金を追徴する税務当局内での競争のことです)に協力して、払わなくてもよい余分な税負担を納税者に強いている税理士が一部にいるようですが、私の事務所に関しては考えられないことです。税理士は本来納税者の代理人であり、税務署の手先ではないからです。  多くの税務職員の中には、国家権力を背景にしていることで思い上がり、傲岸不遜を絵にかいたような人物がいます。このような人物に対しては、日本国憲法で規定されている公僕としての公務員の立場を説明して、傲慢な態度を改めてもらうことにしています。  私のこのような税務当局に対する断固たる姿勢が、この度の裁判を通じて、税務当局に今まで以上に滲透していった結果、前述のように税務当局の対応が微妙に変化したのではないでしょうか。  近日中に私は、税務当局への苦情、あるいは税務当局とのトラブルを処理するための『税務対策全国連絡協議会(税対連)』を結成し、その窓口を通して、悩める納税者の声に耳を傾けるつもりでおります。  貴殿には、今まで私に寄せて下さいましたご厚誼に改めて感謝申し上げますと共に、今後共なにとぞよろしくおつきあい賜りたく、お願い申しあげる次第でございます。        平成11年6月         松江市魚町69番地 山根治  松江地裁の判決(平成11年5月13日付)について 1. 平成11年5月13日、松江地裁は私ほか3名に対して、『本件』とも言うべき巨額脱税事件(仮装売買事件)については無罪とし、『別件』とも言うべき公正証書関連及び一部法人税法関連について、執行猶予付の有罪判決を言い渡しました。 2. 平成8年1月26日、私ほか3名は公正証書原本不実記載及び同行使の容疑で逮捕されました。事情がよくわからないまま、突然信じられないような罪名で逮捕されたわけで、明らかな別件逮捕でした。その後、2月に入ってから、『本件』である法人税法違反容疑で再逮捕されたわけですが、初めの逮捕以来、公正証書原本不実記載及び同行使容疑に関しては、全く形だけの取調べがなされただけで、ほとんどすべての時間を法人税法違反(巨額脱税事件)の取り調べに費やされたことからも明らかです。  逮捕の背景として、この2年4ヶ月ほど前の平成5年9月28日、広島国税局によって益田市畜産協同組合(以下、組合といいます)に対する査察(俗に言うマルサ)が開始され、納税者である組合の顧問であり、関与税理士であった私も取り調べを受けておりました。私達は脱税の言い掛かりを全面的に否認し、2年4ヶ月に亘って広島国税局と睨み合いを続けていたのです。 3. 逮捕されてから後の検察当局のやり方は凄まじいものでした。マルサによる取り調べも聞きしに勝るものでしたが、検察の取り調べはそれに輪をかけたひどいものでした。検察当局からはマスコミを通じて、あることないことが垂れ流しにされ、私は公認会計士にあるまじき大悪人に仕立て上げられていきました。一部のマスコミは、検事のリークをそのまま活字にして、私が6億円もの報酬を受け取って組合を食い物にしたとか、16億円余りの所得隠しを私が指導して行い、5億円以上の脱税に加担したとか、しかも、所得隠しを行うのにその手段として売買を仮装するように私が指導したとか、連日のように大々的に報道しました。  同業者である松江市の公認会計士X氏の悪意に満ちた談話が地元紙に載せられ、私に対する人格攻撃は熾烈を極めました。思えば、このX氏なる人物は私が23年前に松江市で開業した折に、私の仕事ができないようにするために、あの手この手で妨害し、見事なまでに苛めてくれた人物でした。 4. 国税に絡むこの事件は、広島国税局管内では近年にない大規模なものとされ(ちなみに、平成8年度の『脱税白書』の法人部門では脱税額で全国一位として紹介されています)、検察としても松江地検始まって以来の捜査体制をとったと言われています。松江地検では鳥取地検、大阪地検、広島地検等他の地検からの検事も動員して、11人の検事がこの事件にあたるという、異例とも言うべき捜査体制がとられたのです。検事達は、私と組合の人達に対して売買が仮装であったことを認めるように、脅したり、すかしたり、騙したり、あらゆる手段をもって迫ってきました。  私を取り調べた中島行博という検事は、「仮装売買を認めないならば、いつまでたっても保釈させない。とりあえず認めて、早くシャバに出て身辺整理をした方が良いではないか。もし本当に事実でないならば、仮にここで認めておいても法廷ではっきりとそれを否定すればすむことで、問題ないはずだ。とにかく認めるだけは認めろ。認めたら早く保釈してやる。」このようなことを私に対して何回も申し向けました。  しかし、これは検察の常套手段であり、世に言う冤罪といわれるもののほとんどが苦し紛れの嘘の自白によるものであるとされており、検事が被疑者を前にして作成した調書(検面調書といいます)は一度作成されると、それを法廷で覆すことは現在の訴訟実務の上では非常に難しいと言われています。この意味では中島検事は私に向かって明らかな嘘を言っているのです。否認を通した私は、中島検事の言葉通り、なかなか保釈が認められず、300日近くも身柄を勾留されることになりました。  思えば、松江拘置所に勾留されていた一年近くの月日は、私にとって必ずしもつらいだけのものではありませんでした。私の半生を静かに振り返るまたとない機会であり、久しぶりに天から与えられた思索と勉学の時間でもありました。 5. 検察の最大の狙いは、『本件』の脱税事件で私を有罪にすることでした。私が組合を指導して、架空の不動産取引をさせたと検察は主張して私を有罪にしようとしたばかりか、払わなくてもよい20億円以上の大金(地方税、加算税、延滞税等を含む。【別表】参照のこと)を組合と私に負担させようとしたのです。この検察側の架空のストーリーは誠にお粗末なものでした。もともと真実の取引であるものを、脱税というシナリオに無理にのせるためには架空としなければならず、そのために至る所で矛盾が露呈しました。  検察が最後に法廷に提出した論告要旨(平成10年3月24日付)に至っては、支離滅裂なものでした。事実を故意にネジ曲げたり、明らかに事実でないことを平気で並べてみたり、検事が自ら主張していることが、他の箇所で主張していることと自己矛盾していたりと、全くオソマツとしか言いようのないものでした。更に、検察は事実に反する自白を強要したり、誘導したりして、検察側のストーリーに一見都合のいいような証拠だけを表に出して、都合の悪い証拠を最後まで法廷の場に持ち出そうとせず、隠そうとしました。 【別表】松江地裁が無罪と認定し、払う必要のないものとした税額等一覧表 法人税等(*法人特別税・法人臨時特別税・消費税を含む)  本税 571,000千円  重加算税 185,997千円  過少申告税 6,059千円  延滞税 630,228千円  罰金 130,000千円  合計 1,523,284千円 法人住民税  本税 116,191千円  延滞税 123,988千円  合計 240,179千円 事業税  本税 168,187千円  重加算税 55,834千円  過少申告税 1,273千円  延滞税 180,158千円  合計 405,452千円 計  本税 855,378千円  重加算税 241,831千円  過少申告税 7,332千円  延滞税 934,374千円  罰金 130,000千円  合計 2,168,917千円 6. 検察は強大な国家権力を背景に嘘の証拠をでっち上げて裁判官を騙し、真実に反する判決を持ち出させて、組合と私を有罪にし、更に組合関連の人達10人ほどと私を破産に追い込もうとしていたのです。これは、社会正義という美名を背景にした恐喝であり、国民の財産を騙し取るという意味では詐欺行為と言っても過言ではありません。  ちなみに、嘘の証拠の最たるものは、当時事情をほとんど知らない一部組合員による仮装売買供述(検面調書)ですが、今度の判決では全て信憑性に欠けるものとして排斥されています。 7. 今回の松江地裁判決は、一部『別件』部分に関しては問題が残るものの、巨額脱税事件という『本件』については、検察側の嘘を明白に見破ってくれたものです。  「架空売買でなく、真実16億5千万円が相手に支払われた売買契約であった。」――  これが『本件』に関する判決の骨子であり、このことによって私も組合の人達も巨額脱税事件に関しては無罪とされ、かつ、合計で20億円以上の税金については、組合も私も共に払う必要のないものだと認定してくれたのです。 8. 平成5年9月28日のマルサによるガサイレ以来、5年8ヶ月が経過しました。その間、国税当局と検察当局が一体となって、私と組合の人達に巨額脱税という汚名を着せた上で、事業経営者にとっては命とも言うべき巨額のお金を取り上げようとしたことに対して、私は文字通り身体を張って戦ってきました。この観点から今回の判決を見れば、組合関連の人達10人ほどについて、財産の上からは全く傷がつかないことになったことに加え、『本件』『別件』ともに組合の人達は、法人税法違反(脱税)に関して完全に無罪とされたことで、この5年余り私に大きくのし掛かっていた精神的苦痛の大きなものが取り除かれました。  平成元年につきあいが始まって以来、このような事件があったにもかかわらず、組合の人達は私を全面的に信頼して下さいました。私に全幅の信頼を置いて下さった組合の人達の財産が没収されたり、私が指導した税務対策に関して組合の人達が有罪にでもなったりすれば、私としてはいくらお詫びをしようともお詫びのしようがない思いだったのです。 9. 判決の後、しばらくしてから、私は広島国税局のある統括官と面談する機会を持ちました。その統括官は国税当局の誤りを認め、これまでとはうって変わった丁重な対応になり、とても印象的でした。  国税当局としては、平成5年9月に100人前後の査察官を投入して摘発し、検察を強引に口説いて6人もの逮捕者を出し、全国一の大型脱税事件として鳴り物入りで大騒ぎをした手前、かなりバツが悪いようなのです。  たしかに、これだけの大型脱税事件で無罪となったケースは、前例がほとんどないそうです。 10.執行猶予付ながら有罪とされた『別件』の部分について私は、判決内容が納得できないため判決後直ちに(5月14日)控訴し、高裁の判断を仰ぐことにいたしました。 11.このうち、法人税法関連で私だけが有罪とされ、組合の人達は無罪とされた『別件』については、引当金の戻入益の計上時期と貸倒金の認定の問題で、詳しい説明は割愛しますが、要するに、決算書にすでに計上されている引当金を戻入すべき時に戻入せず、そのまま貸借対照表上に残していたことと、組合の持っている貸金が不良債権となったため、回収不能と判断して、貸倒金として損金計上したこととが脱税にあたるというもので、私達税務会計の実務家からすれば信じられないような内容の判決でした。  逋脱罪(脱税の罪のことです)は、偽り、その他不正の手段で税金を逃れることによって成り立つもので、引当金の戻入益の計上時期を誤ったことは単なる思い違いにすぎないし、貸倒損失の計上は、それなりの根拠にもとづき回収不能と判断した結果、決算書と税務申告書に堂々と記載されているもので、何ら偽り、その他不正の手段を用いてはおりません。  つまり、私の判断が誤っていた、あるいは私の指導が悪かったとして、私のみお咎めを受けたわけで、このような判例は今まで存在しなかったし、仮にこれが前例となるようならば、全国の会計事務所は恐ろしくて業務ができなくなると言っても過言ではありません。判決後に面談した広島国税局の統括官でさえ、「変な判決ですね」と首を傾げているくらいです。税法と税務実務をよく知らない裁判官による不当な判決であり、上告審では必ずや正されるものと確信しています。  ちなみに、この『別件』部分については、『本件』とは異なり、税金の支払いを拒否しているわけではなく、すでに支払いが完了しています。しかも、国税当局の処分としては、罰則的な意味合いの重加算税ではなく、申告ミスという意味合いの過少申告加算税が賦課されているものです。  この『別件』は、もともとマルサの告発の中には含まれては いませんでした。検察当局が『本件』である巨額脱税事件が無罪になるのを怖れて、私達を逮捕してから後に、起訴内容にムリヤリ押し込んだものでした。 12.今一つの『別件』である公正証書原本不実記載及び同行使については、私のほかに、組合長であった岡島氏と山根会計の職員であった小島氏とが有罪とされました。  この件では、『本件』である架空売買登記(無罪)のほかに、二つの『別件』がまるでとってつけたように加えられていました。  一つは、農地の売買に関するものでした。私が組合所有の土地(地目は山林)を買うことになり、実際に所有権移転の登記を行う段階になって、登記上の地目は山林であっても農地として扱われていることが判明したため、益田市の司法書士のアドバイスを受けながら、農業者であり当時の組合長であった岡島氏に私の替わりに所有してもらったものであり、私の替わりにその手続きの一切を司法書士と共に行ったのが小島氏だったのです。  農地法の関係から、農業者でない者は農地の取得ができないため、農業者に頼んで買ってもらうことは、世上よく行われていることであり、私としては専門家の司法書士のアドバイスもあることから、このことが罪に問われるなど夢にも考えていませんでした。岡島氏も小島氏も晴天の霹靂だったに違いありません。  判決は、この件に関して、農地の所有者が私にあるのにもかかわらず、岡島氏の名義を借りて登記を行ったことが公正証書原本不実記載の罪にあたると判示しています。  しかし、農地法の関係から、私が農地の所有者になることは不可能であり、その所有権が私にあるとされることがどのようなことなのか、私には到底理解できません。所有権は私の替わりに所有者になってもらった農業者の岡島氏にあるわけで、その意味からは真実の記載であり、決して不実の記載ではありません。誤った判決であると言わざるを得ません。 13.二つは、仮登記に関するものでした。千葉県にある不動産を私の会社が購入する際に、一部、登記済証(権利証と言われるものです)のない物件がありました。  このような場合、二人の保証人が必要とされ、平成四年当時は、同一法務局管内に居住する人、もしくはその法務局に登記の実績のある人でなければ、保証人となることはできませんでした。  小島氏は、知人であり東京で司法書士をしている専門家からアドバイスを受けて、一時的に賃貸借設定の仮登記をし、登記の実績をつくり保証人の適格性を得た後に、不動産の所有権移転の手続きをしました。このことは実務上の便法として、登記実務で通常行われていたことで、アドバイスをした司法書士は、この便法が実際に罪に問われることなど考えていなかったことでした。ましてや、私も小島氏も罪になるなど思ってもいませんでした。  この仮登記に関しては、三年前に逮捕された時に逮捕状に記載してあったものの、私の記憶には全くなく、何のことか判りませんでした。後日、接見に訪れた中村寿夫弁護士に調べてもらって初めて、その内容が判ったものです。  尚、この仮登記の便法を提示し、実際の登記実務を行った専門家である司法書士は逮捕もされていなければ、起訴もされていないのです。『別件』の法人税法関連では実際の実務を担当した小島氏は起訴さえされていませんし、組合長は無罪が言い渡されているのに比較して、税の専門家である私だけが有罪とされていることに鑑み、登記の実務の専門家である司法書士が、私達が全く知らない登記の便法を提案し、一切の登記実務を行ったことに対して、事情をよく理解していない私と小島氏とが有罪になっているにも拘わらず、不問にされている事実は、どう考えても納得のいくものではありません。  検察があれだけ大掛かりに取り組んだ事件であるから、全部を無罪にするわけにはいかず、『別件』についてのみ、屁理屈をつけてでも有罪に持ち込んだものとしか考えることができません。 14.このように、『別件』については、私にとって『本件』ほど重大な意味を持つものではありませんが、私、小島氏、岡島氏に言い渡された執行猶予付きながらも有罪(六ヵ月から一年半の懲役)の判決は、私達の誇りと名誉のためにも覆さなければならないし、また、必ず覆すことができるものと信じています。 15.以上により、今回の判決に関して、私は一部不満が残るものの概ね満足すべきものと考えております。100%ではないものの、限りなく100%に近い勝利であったと考えています。        平成11年6月         公認会計士 山根治 三.参考資料3 手紙(平成13年7月) *第2審判決後、800人程の人達に事情説明のために送付した手紙        各位 1. 去る6月11日、私に関しての刑事裁判の判決が、広島高裁松江支部でありました。  広島高裁は、最大の争点であり、「本件」であった架空売買による巨額脱税については、一審の無罪判決を支持し、検察側の控訴を退けました。「本件は無罪」――形の上では一審判決と同様ですが、無罪を認定するプロセスが一審判決と全く異なるものでした。  一審判決は、本件について無罪としながらも、検察の顔をうかがうような不十分な内容のものであり、刑事裁判と並行して進行している税金の裁判(民事)において国税当局に主張の余地を一部残しているものでした、即ち、刑事事件では無罪であっても、税務上は多額の理不尽な税金が徴収される余地が残されていたのです。  私は、無罪とされた「本件」についても、一審判決は、判決に至るプロセスが明らかに誤っていますので、控訴審で是正してもらうべく、主張していたところ、広島高裁は、私の主張(真実であり、当然のことです)を全面的に認め、一審判決を是正してくれました。高く評価することができます。広島高検は6月25日、最高裁への上告を断念しましたので、「本件」の無罪判決は確定しました。 2. 広島高裁が事実を正確に把握して、「本件」の無罪を言い渡したことは、次のような意味を持っています。  まず第一に言えることは、検察が国税当局と一体になって、真実を曲げてまで私を逮捕し、あわよくば裁判官を騙して、払う必要のない25億円余りのお金を私から強奪しようとしたことが失敗に終わったことです。(【別表】参照のこと)  このことによって、私をはじめ多くの顧問先の財産権が守られたことは、当然のこととは言え、私にとって何より心の安まることでした。「私の全財産を投げ打ってでも、関係者の皆さんに、財産上の迷惑をかけない」旨の約束をしていたことを、現実に果たすことができたからです。更に、私の財産も全くキズつくことがなくなったのも二重の喜びでした。  第二の意味合いは、「本件」が冤罪であったことが明らかになったことです。  5年前の平成8年1月26日に私は逮捕されました。確定申告の直前であり、公認会計士が大型脱税事件の主犯であるという検察側のマスコミへの嘘の発表によって、私は死んだ方が楽であることを実感する位の苦しみを経験しました。検察側の主張していることが、事実無根のことであり、冤罪(えんざい。無実の罪のこと)事件であることを明確にしてくれたのが、この度の高裁の判決でした。  ちなみに、私を逮捕する3日前の平成8年1月23日、松江地検は、私の事件に関する合同捜査会議を開き、料理を取り寄せ税金を使って酒盛りをしていたことが明らかになっています。7,000円のオードブル7皿、5,000円の寿司の盛り合わせ6皿、1,500円の寿司4個、ビール大ビン35本などで合計98,020円の支出が、公費でなされています。公費を使って酒を飲み、寿司をつまみながら捜査会議を行い、事実無根のことをデッチ上げて私を断罪し、25億円ものお金を騙し取って、私と関係者を破産に追い込もうとしていたのです。これが現今の検察の全ての実態ではないとしても、一つの動かし難い実態であり、社会正義を標榜する検察当局は、どのように釈明するのでしょうか。 3. 以上のように、高裁の判決は、「本件」は無罪、「別件」が執行猶予つきの有罪であり、必ずしも100%満足できるものではありませんでした。しかし、一審判決に比較すれば、「本件」無罪の認定のプロセスが前述の通り全く異なっており、高く評価することができます。私と多くの関係者が不当な税金を納付する必要がなくなったことだけでも、私にとっては十分に満足できる判決であったと言えるでしょう。 4. 私が冤罪事件に巻き込まれて以来、多くの方々から暖かい励ましのお言葉をいただきました。中でも大学の先輩である公認会計士のS先生をはじめ全国の実務家の諸氏から励ましの声をいただき支援の輪を広げていただいたことは、私をどれだけ力づけてくれたことでしょう。また、日本における税法学の第一人者とされている日本大学教授の北野弘久博士からは、一審判決で執行猶予ながらも有罪とされた別件の事案について、鑑定所見書を賜り、『本件は、税法および税法学への無知から生じた不幸な事件である。本件には法人税法159条違反として刑事責任を問われねばならない事実は全く存在しない。被告人を有罪とすることは誰の目からみても、疑いもなく冤罪である。検察官および原審裁判所の無知が厳しく問われねばならない。原判決は破棄されねばならない。そうでなければ、著しく正義に反する。』とまで言っていただきました。別件については北野教授の所見書を全く斟酌することなく、広島高裁が一審判決を支持する立場をとったことは誠に残念なことでした。私は直ちに最高裁に上告しました。必ずや一部有罪とされた点についても、上告審において、正当に是正されるものと確信しています。 5. 広島国税局の査察を受けてから8年、検察当局によって不当に逮捕されてから5年が経過しました。その間、私は前向きの仕事を控えめにし、現状維持に努めざるをえませんでした。多額の税金債務を押し付けられる可能性が私を心理的に圧迫していたからです。  この度、広島高裁の明確な判決によって多額の税務債務を負う可能性がなくなったことは前述の通りであり、残された私の人生は、再び積極的な方向に進んでいくことになります。  かねてから考えていた(株)山根総合事務所の東京における拠点を設置することも、私と志を同じくする公認会計士、税理士の方々とパートナーシップを組むことによって、近い内に実現できる見込みです。当面はパートナーシップを組みながらも、平成14年4月1日から施行される「税理士法人」をも視野に入れて、私の事務所のあり方を考えていく所存です。  私の事務所を開設してから25年、私は貴方をはじめとして、多くの方々のお力添えで今日まで身に余る素晴らしい仕事をさせていただきました。私の事務所は、多くの顧客のために存在することに改めて思いをいたし、私を志を同じくする専門家に積極的に私の事務所に入っていただき、顧客サービスの一層の充実を図り、もって事務所の安定性と永続性を目指します。  不幸中の幸いと言えましょうか、この度の事件を契機に、納税者の権利を真剣に考える本当に立派な公認会計士と税理士の方々に数多く出会うことができました。私の公認会計士としての人生は、今一度新しく出発します。私は初心に帰り、私の顧客の為に徹底的に奉仕することをモットーとして歩んでまいります。 6. 思えば、会計事務所がマルサ(査察)の洗礼を受け、しかも、その責任者が300日近くも逮捕勾留されたにも拘わらず事務所が生き残ったばかりか、以前にも増して社会的に評価されるようになったのは、他に例がありません。  これもひとえに、貴方をはじめ心から私を信頼し支持して下さる方々の賜物と感謝しております。  私の手許には、国税・検察及び裁判に関する膨大な資料が残りました。これらは、不当な国家権力を排除した生々しい記録であり、いわば危機管理に関する生きた教科書でもあります。これらの資料と私の体験を背景に、今後、企業あるいは病・医院のコンサルタントとして皆様方によりよいアドバイスを提供できるものと自負いたしております。  貴方におかれましても、今後共何卒変わらぬご厚誼を賜りたく、伏してお願い申し上げる次第でございます。        敬具        平成13年7月吉日         公認会計士 山根治 【別表】 国税当局が不当に徴収しようとしていた税額等の内訳 法人税等  本税 627,749千円  重加算税 185,997千円  過少申告税 14,570千円  延滞税 765,471千円  罰金 150,000千円  合計 1,743,788千円 地方税  本税 308,272千円  重加算税 55,834千円  過少申告税 3,143千円  延滞税 417,533千円  合計 784,784千円 合計  本税 936,022千円  重加算税 241,831千円  過少申告税 17,714千円  延滞税 1,183,004千円  罰金 150,000千円  合計 2,528,572千円 底本:「冤罪を創る人々―国家暴力の現場から―」    2006(平成18)年1月4日公開 初出:「株式会社M&Aバンク、ホームページ 冤罪を創る人々」    2004(平成16)年3月22日〜2005(平成17)年11月4日 入力:株式会社M&Aバンク 2010年4月5日作成